- 2020年 10月 4日
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評論・紹介・意見
- フランス現代思想髭郁彦
<髭郁彦:記号学>
7月の中頃、ある研究会の直前、マチュー・ポッド=ボンヌヴィルの『もう一度…やり直しのための思索:フーコー研究の第一人者による7つのエッセイ』(村上良太訳:以後、副題は省略する) という本をもらった。ポスト・モダン以降の新しい哲学者の本だという話を聞いたので、何かちょっとこの本について書こうと思ったが、7月、8月は珍しく仕事が立て込んでいて、じっくりと読む余裕はまったくなかった。読もう、読もうとは思いつつも、私は2カ月間、この本を机の横に放置していた。9月も二週間程が過ぎた頃、やっと面倒な仕事を片付けた私は、この本を手に取った。 読み始めてすぐに、『もう一度…やり直しのための思索』は、かなり難解な哲学的エッセイであることが判った。一般の読者には簡単には理解できない論証があるだけでなく、多くの思想的、文学的知識がなければ、とても歯が立たない学的エッセイであることが判ったのだ。訳注はあるが、あまり参考にはならない。多くの哲学的知識を読者に要求しているこの本の要求に応え得る解説がないのである。それゆえ、私は脚注には頼らずに、かなり貧しいものではあるが、自分の知識だけを頼りに、本文と向き合うべきであると考えた。
言語学的な問題
読み進めていく中で、私はポッド=ボンヌヴィルが西洋哲学の伝統に則った認識論的問題探究を行っているように思われた。私の思考の中で、この本のキーワードとして提示されているrecommencer (再開する[こと]) が、reconnaître (認識する[こと]) という言葉と同化していったのである。言語学的な問題はあまり取り上げたくないが、先ずはこの側面からこの本について語る必要がある。
ポッド=ボンヌヴィルも指摘していることであるが、recommencerはre-という接頭語とcommencerという語から構成された語である。このことは非常に重要な問題である。だが、このことを検討する前に付け加えなければならない問題がある。それはrecommencerも、reconnaîtreも元来は動詞として用いられるという点である。前者は「開始する」という意味であり、後者は「認識する」という意味である。英語や日本語と違いフランス語は動詞が動詞の形そのままで名詞になることが可能な言語である。Parler, c’est un acte (話すことは行為である) という文で、フランス語は動詞が動詞形のままで名詞化できるが、日本語では「話すは行為である」とは言えず、「こと」を付けて名詞化しなければならない。この差異は実は言語学的な問題を示すだけではなく、言語による論証性や思考形態の大きな違いも表すもののように私には思われる。
私の記憶が正しければ、動詞の主要特性が「過程」を表すのに対して、名詞の特性は「実詞」を表すと最初に主張したのは、アリストテレスだったはずである。過程とは動きを示す。それは変化という形で示されるものである。たとえ変化がなくとも (例えば、「じっとする」のような動詞)、そこには動態的カテゴリー内での変化のあるなしが問題となっている。それに対して、実詞は不変性を前提とする。変わらないものでなければ、実詞とはなり得ないのである。では、動詞が名詞に操作子を介することなく変化してしまう場合に、変化と不変との関係はどうなってしまうだろうか。そこに弁証法的な展開があるように思われる。この問題は詳細に考察しなければならないものであるが、それを行うためには多大な紙面が必要となるゆえに、ここではこれ以上の検討はせずに、二番目の問題の検討に移る。
二番目の問題は先程も語った語彙的複合形態の問題である。ポッド=ボンヌヴィルはフランス語の接頭辞re-には反復性という特質だけではなく、反省的な側面があると主張している。「(…)「再び始める」(recommencer) という動詞の中のre=再という接頭辞には「反復」という意味だけでなく、距離を置くという意味合いに由来する「反省」という意味もある (…)」と彼は述べているのである。この点はrecommencerという語よりも、reconnaîtreという語によってはっきりと確認できる。接頭辞re-がない、connaîtreという語は「知る[こと]」という意味であるが、reconnaîtreは「認識する[こと]」という意味となるからである。「知ること」はある事象に対してよく考えて検討せずとも、その事象が何かを捉えることができたとすれば「知ること」となるが、「認識すること」は単に知るということだけではなく、問題となっている事象に対して何らかの検討が必要となる。つまりは、反省的な作業を必要とするものである。この行為は近代西洋哲学が重視してきた理性的な営みであるが、それは真か偽かを問う行為であるだけではなく、善か悪かを問う行為でもあり、美か醜かを問う行為でもある。こうした側面から、recommencerを観察すると、この語は「始めること」の再開という意味を越えて、「始めること」そのものの意味の広がりに向かって展開していくものとして捉えられる。
言語と行為
ポッド=ボンヌヴィルは、彼の最初の哲学的研究はイギリスの日常言語学派に関するものであったと、この本の最初の部分に書いているが、言語と行為という問題は今も変わらずに彼の主要探究テーマの一つであると見做し得る。だが、この二つの問題は別々に問われるものではなく、密接に結びついたものである。この本の原題である“Recommencer(再び始める[こと])”も行為の問題であるだけではなく、言語の問題でもあるからである。
ジョン・A・オースチンは有名な言語行為論の中で、遂行文 (あるいは、遂行的言表) について語っている。言表には「あの犬は走っている」や「彼は仕事を失った」のような、真偽値が確定可能な言表がある。この種の言表をオースチンは確認文 (あるいは、確認的言表) と呼んでいる。それに対して、「この猫をミーと名づける」や「私はあなたに明日会うと約束する」といった言表は、言葉に語ることで初めて行為が成立するものである。オースチンはこうした言表を遂行文と呼んだ。この発見は語ることだけでも実践的行為となり得ることを示したという意味で、哲学的レベルだけではなく、言語学的レベルにおいても画期的な発見であった。
「始まる」や「終える」という語について考えてみよう。こうした語は、確かに、「命名する」や「約束する」という語のように、ある主体が語ることによって初めて行為が開始されるとは限らないものである。何故なら、ある主体が何らかの行為とは意識せずに、ある行為を開始することが可能だからである。だが、ある主体がある行為を開始する場合に、「始める」と語ることなしにその行為を行っている間、その行為の開始は動作主体に常に意識されているだろうか。「~を始める」と言語化される以前に動作主体はその動作の開始を自覚できていない場合が多々存在しているのではないだろうか。「再開する」に対しても同様のことが述べ得る。今考察したことを要約すれば、「~を始める」や「~を再開する」という言表は準遂行文であると捉え得る言表であると結論付けられる。このことは、ポッド=ボンヌヴィルの「(…) 出来事の継起は一つの時系列の流れの中に位置づけられることが認められ、その背景になる大きな一連のプロセスの中で、それぞれの始まりは相対的になる」という発言とも重なる。つまり、ある行為は言葉を用いて判断することによって、その行為の始まりや再開が確認されるのである。それゆえ、「再開する」という行為は言語問題と深く係わる行為であるのだ。
ディスクールの中の連続性と変更性
私が「ディスクールの中の連続性と変更性」という問題に興味を抱いたのは、パリ第5大学で、哲学者・言語学者・記号学者のフレデリック・フランソワの講義を聞いた後であった。フランソワは言語学の探究問題を、彼の師であるアンドレ・マルティネのように文というカテゴリーを越えないものという限定をつけず、言語学にバフチン理論を導入しながら、対話という大きな枠組みの中で考察しようとした。
バフチンの対話理論における二大中心概念はテーマとジャンルであるが、フランソワは同じテーマが語られていても、語りのレベルや視点が変化する場合があり、そうした語りのチェンジを世界変化と命名した。目の前にある絵と想像上の絵とは同じ絵というカテゴリーに属しているが、同じコード化は行われていない。それと同様に対話内でも同じテーマが語られていても、対話者は常に同じコード化によってテーマを語ってはいない。世界変化によってテーマが展開する場合が多々存在するのである。「再開する」ということはフランソワの概念を導入すれば、テーマは同一であるが、世界変化が起きている状況であると考えることができるのではないだろうか。
ポッド=ボンヌヴィルは連続性と変更性に対するフランソワのこの重要な指摘と直接関連する考察を行っていないが、「もし、私が再び始めることができる条件が、前のことが終わっていることであるなら、つまり、それは過去の出来事の永遠の流れの中にはっきりした違いを作り出すことであり、自分自身の記憶の中に区切りをつけることであるのだが、同時に認めなくてはならないのは過去の主体も私、あるいは私たち自身であったことで、二つの時間が同じ歴史に属することである」と述べ、更にこのことに関して、「つまり、二つの層が重なって存在しており、一つの層は断続しているが、もう一つの層には連続が認められるということである」と述べている。この発言は非常に興味深いものである。この指摘の中にはフランソワのディスクール理論に通底する考えが存在するからである。
再開するということに話を戻そう。ディスクール展開において連続する要素がある一方で、変更する要素も存在する。もしも、その両方の要素がディスクール展開において混在していないならば、つまりは、あらゆる要素が連続するものであったり、あらゆる要素が変化し続けるものであるならば、再開ということはあり得ない。連続する何らかの要素と変更する何らかの要素が存在するゆえに、再開という問題を問うことができるのである。フランソワのディスクール理論をモデルにするならば、再開という事象の二重性が具体的に理解できるのではないだろうか。
反省すること
現代において、再開という問題について熟考することは、西洋哲学の反省という伝統に沿って考察を始めることでもある。しかしそれは我一人が熟考することで真理に行き着くといったデカルト的な反省の道を繰り返すことでも、壮大な観念体系に基づく弁証法的思考を展開しようとするドイツ観念論の理論を強化しようとすることでもない。そこにはバフチン的な対話性が存在している。それゆえ、再開することは西洋哲学の理性主義、主体性の優位、合理性の尊重といった伝統を継承しながらも、他者との関係性を問い直す作業の開始も意味するのである。
ポッド=ボンヌヴィルはサミュエル・ベケットの「言葉が存在する限り口に出す。[…]それらの言葉が私を見つけるまで」という言葉を引用しながら、「(…) 結局のところ、大切なことは、いかに再び始めることの受け身[的]な主体であることをやめる術を知る[か]ということにあるのだ (…)。つまり大切なことは再び始めることの積極的な主体になることだ」([ ]内は著者補足) と語っているが、この言葉をデカルト的、ドイツ観念論的な主体の再構築というように捉えてはならないだろう。問題はディスクールの連続性と変更性をベースとして対話関係が構築されるように、哲学的思索の再開という行為の中にも対話的なものを導入しなければならないということなのである。
われわれは確かにジャック・ラカンの考えに従えば、ラングという大文字の他者に支配されている。そうした視点から、受け身性や被支配性を強調することも可能であるが、それよりも言語活動の相互作用という点を強調すべきではないだろうか。何故なら、ミハイル・バフチンが言うように、われわれは誰のものでもない言葉や、返答を求めない言葉を語っているのではなく、誰かに向けて、誰かのために話しているからである。それは言語行為が他者の存在を前提とした相互作用に基づく行為であることを示している。再開することが、ディスクールと深く係わる行為であるならば、その行為は必然的に対話的であり、我一人によって成り立つものではないことを示しているのである。
だが、再開することは単に相互作用と係わるのではない点にも注意を払う必要がある。相互性は支配と被支配といった関係の中にも、売り手と買い手といった関係の中にも存在するが、ポッド=ボンヌヴィルが主張している再開という問題は、政治的な、経済的な事柄にだけ係わるものではない。支えると支えられる、愛すると愛される、教えると教えられるなど他者との多様な関係の中で展開するものとして、再開の意味が問われているのだ。それは、アントニオ・ネグリやマイケル・ハートの用語に従うならば、マルチチュードの実践の中で展開する行為として考察されるべきものとして提示されているのである。
新たな社会参加への道
実存主義者たちは、かつて、アンガージュマンという用語によって社会参加の必要性を説いたが、この用語には個々人の主体的な社会参加という様相が色濃く反映されているように私には思われる。この概念の中心は行為者である各主体であって、社会は抽象的な参加の場であるという意味合いが強調された用語であるように思われるのだ。だが、われわれが参加しようとする共同体は一元的に抽象化できない多様性を有している。それゆえ、ネグリやハートはマルチチュードという言葉によって、われわれが今生きている社会の複雑に絡み合った様相を表現しようとしたのではないだろうか。
われわれは自分たちが今生きている社会や世界を安易に均質化できないと同様に、そうした社会や世界に働きかける主体の存在性も安易に均質化できない。われわれが生存しているここには様々な他者が存在し、その他者と向き合うことなしには何かの行為を再開することなどは不可能である。われわれが何らかの事象について反省する時、多くの場合、われわれは自分自身の主体をクローズアップしながら、その事象を見つめてしまう。だが、ディスクール展開がその基盤に対話性を有している以上、内的対話性を内包するディスクール展開を通して実践される反省という行為には、必然的に他者との対話関係の構築が前提とされている。それも、そこで展開される対話関係は一義的なものではなく、様々な他者との多様な関係性を背景としたものである。ここで問題となるのは、まさに、マルチチュードである。
ポスト新型コロナウィルス時代に「再開すること」は、哲学・思想界にのみ関連する問題なのではなく、あらゆる分野を横断するキーワードとなっていくのではないだろうか。それはマルチチュードを基盤としたアンガージュマンであり、それは60年代に実存主義者が求めた社会参加とは基本的に異なるものである。ポッド=ボンヌヴィルは『もう一度…やり直しのための思索』の訳者あとがきに掲載されている村上が行ったインタビューの中で、「(…) 終りの終りについて無限に説明するよりも、私たちはどのような政治行動の種類を取ることが可能なのでしょうか?この問いかけは私の倫理的な問いかけからそれほど隔たっていないことにお気づきでしょう。どちらの場合も、問いかけの本質は失望することなく、いかに今日、明晰であり得るか、ということを知ることにあります」と語っているが、この言葉の中には西洋哲学の伝統を尊重しながらも、新たな道を力強く踏みしめようとする彼の基本姿勢がはっきりと提示されている。
この姿勢を彼は「recommencer (再び始めること)」という単語で要約した。対話の中にはポリフォニーの声が響き渡っている。その響きはわれわれを突き動かす導きの声となり、われわれはその声に自らの声も重ね合おうとする。それゆえ、マルチチュードは対話の上に成り立った多様な動き、相互作用である。ポッド=ボンヌヴィルはこのことを『もう一度…やり直しのための思索』の中で、われわれに明確に語りかけたのである。
この書評を終える前に、この貴重な本を翻訳した村上に感謝しつつも、翻訳の問題点を一つだけ指摘しておく必要がある。邦訳のp.100からp.101にある、「(…) プルーストは『失われた時を求めて』を、半過去形を使って主観的に書いた」という文章の中にある「半過去形」は「複合過去形」の誤記であろう。フランス語の過去形は様々なものが存在するが、主要なものは複合過去形と単純過去形と半過去形である。最初のものと二番目のものは継続相のない一時的な過去形であり、三番目のものは継続相のある過去形である。最初のものと二番目のものとは、最初のものが語り手を中心にした主観的な語りの過去形であり、二番目のものが語り手から独立した客観的な語りの過去形であるという差異が存在する。半過去形は主観的な語りにおいても、客観的な語りにおいても用いられる過去形である。それゆえ、この箇所の訳は「複合過去形」でなければおかしい。この箇所は早急に修正されるべきである。
こうした問題点があるにも拘らず、この本はわれわれにとって大きな意味のある問いを投げかけている。それは「再開することは何か?」という問いであると共に、「認識するとは何か?」という問いでもある。ポッド=ボンヌヴィルの提示したこの二重の問いは、ポスト新型コロナウィルス時代にわれわれが真摯な態度で問わなければならない核心的な問いである。ポッド=ボンヌヴィルと共にもう一度問いかけよう。問いかけを再開しよう。未知の目に見えない脅威がわれわれを包み込んでいる現在であるからこそ、われわれは再び問いを開始すべきなのだ。この再開は自分一人の中で完結するものではなく、様々な他者に投げかけられる問いであり、その問いはポリフォニーとなって世界に響くだろう。それゆえ、この本はこの世界に生きるすべての人々に向けた対話の書なのである。
初出:宇波彰現代哲学研究所ブログより許可を得て転載
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-364.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10165:201004〕
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