リハビリ日記Ⅳ 35 36
- 2020年 10月 5日
- カルチャー
- 阿部浪子
35 高橋泰邦のアドバイス
クリエイトへ買い物に行く。途中に、日の差さない空き地がある。青いアサガオの花がすずしげに咲いている。ムラサキツユクサも一面に咲いている。そばに政党の掲示板が立っている。「野党協議で新しい政治の旗を 5%にもどして景気回復を」。やっと、遅足でここまで来られた。あと半分だ。
9月16日。新しい内閣が発足する。翌朝、インターネットを開けた。就任の大臣たちの記念撮影。よく見れば、みなさん人相がよろしくない。1列目中央が「国民のために働く内閣」のトップの顔か。貧相だ。菅は、7年8か月もつづいた前政権の重要ポストにいた人なのに、総括も反省もないまま、総理大臣の座によこすべりした。せこい男である。 あなたのいう「国民」のなかに、弱者、貧困者は含まれているのですか。
上川もいる。3度目の法務大臣登板だ。オウム真理教の教祖たち死刑囚13人の死刑を執行した上川だ。いま、何を思いどう考えているのだろう。「死刑だいすきおんな」と、辺見庸のブログに書かれてもしようがない。
志木の松本直史さんから絵はがきがとどく。松本さんは、拙文「リハビリ日記」をいつもていねいに読んで、心のこもった感想を送ってくれる。〈文学から政治まで、厳しく優しい文章に励まされます〉という。うれしい。わたしも、松本さんの手紙に意欲をかきたてられている。
松本さんは、慶応大を卒業した。文学のこころざしは高く、勉強家だ。日本文学から外国文学まで読んでいる。影書房の社主で、編集者の松本昌次が講師をつとめていた読書会に参加している。個人的にも松本昌次に師事していたが、松本昌次は昨年なくなった。
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高橋泰邦は、翻訳家、小説家である。海洋文学を開いたことで知られる。若いころ、わたしは、文章の勉強がしたくて翻訳学校にかよい講義をうけた。学校は、東京信濃町の慶応病院の前をとおり千駄ヶ谷へむかう途中にあった。出版社の上階の小教室で、活躍中の英米文学の翻訳家が授業を担当した。講師たちの1人に高橋先生がいた。学生のなかには、ちょっと手を加えればプロとして通用する、と評価された女性がいた。
高橋泰邦はおおらかで、気さくな人だった。ほかに、口調がはきはきした掛川恭子。初期の職業翻訳家だという最高齢の中村能三。毎時間、色ちがいのオリジナルシャツで登場した山下諭一。ポケットからとりだした、しわくちゃのハンカチで顔をふいた柳瀬尚紀。
ほかにも講師はいたが、わたしは、とりわけ高橋泰邦のアドバイスに惹かれた。〈1つ物・事をじっくり観察して、くわしく日記帳・ノートに書きつけていきなさい〉。たんに、事実と経験を書きとめるのではない。説明とはちがう、描写のふでが上達していくことを、高橋先生はいおうとしたのだと思う。以来ずっと、わたしは実行してきた。
翻訳家は日本語と格闘する。その真摯な姿にあこがれをいだいたのだが、翻訳家になろうなぞと思ったことはない。研究者のおもしろみのない文章は書きたくなかったのである。
36 平林たい子の作家への道
秋の青い空は、高く澄んでいる。とても気持がいい。きょうは、友人のあつこさんと会食する日だ。あつこさんは、若いころ小学校の教師をしていた。
和食店のやなぎは、自宅から歩いて行くには遠い。ここは不便な所だ。
1080円のランチを注文する。独りぼそぼそ、粗食の日々をすごしているので、友人との外食は格別たのしい。しばし、後遺症の憂鬱もわすれる。味噌汁、茶碗蒸し、ちらし寿司、焼き肉。そして、別注文のわらびもち。ごちそうを味わいつつ食べる。おいしかった。
食後、あつこさんがバッグから1枚の写真をとりだした。見れば、同窓会の写真。出席者26人。かみやひでゆきくんはすぐにわかった。態度のでっかい、おじさんもおばさんもいる。みな変わった。それぞれ、ひとにはわかりえない人生ドラマをすごしてきたのだ。半分以上の人が、誰なのか不明だった。
帰りは遠鉄タクシーに乗る。美女のドライバーだ。めずらしい。当社の女性ドライバーの数は1割だという。子育てと両立させるため、労働時間の自由なこの職業を選択したと、彼女は話す。いろんな人と話ができるのがたのしい、とも。しっかりした女性だ。わたしたちの母校、新津中学校の後輩だということが、降りるまぎわにわかった。
翌日は体操の日だ。デイサービスYAMADAに行く。毎回いくつかのトレーニングをこなす。〈次はかっしゃですよ〉こうき先生が指示する。わたしは、待ってましたとばかり、わくわくする。滑車にとりつけたロープを両の手にもって、交互に上げたり下げたりする。せっかちに運動しては効果がない。ゆっくりとおこなえば両腕にちからがこもる。10分間おこなう。好きな種目だ。この施設に通所して1年6か月。効果を実感している。
S病院に入院しているときのこと。理学療法士のT先生が、五十肩も治療してくれた。先生の大きな手がわが右腕をがばと押さえる。猛烈に痛かった。悲鳴がでるくらい。となりのベッドから松島先生が〈がんばってね〉と声をかける。
五十肩?は30代に発症した。懸賞に応募する50枚の原稿をふとい万年筆で書いてきた。脱稿したとたん、右腕があがりにくくなったのである。痛みはない。これ以上はあがらず、いつもいやな感じだった。T先生のていねいな施術は、たしかに効果的だった。
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作家の平林たい子は、戦時下の闘病生活のなかで短歌を詠んでいる。その何首かを歌人の晋樹隆彦さんに見せたことがある。〈たい子はクレバーだね〉という。どういうことか。わたしはずっと考えてきた。たい子は短歌を器用に作るが、それは短歌の実力とはちがう
と、晋樹さんはいいたかったのかもしれない。
たい子は専門家ではないが、短歌の素養はあった。諏訪高女時代、歌人の土屋文明にアララギ派の短歌について学んでいる。平林文学の簡けいな文体にその影響は現れていよう。
拙著『人物書誌体系11平林たい子』(日外アソシエート)所収の「著作目録」を見てほしい。たい子は小説、エッセイ、評論と、さまざまな分野で活躍していることがわかる。新聞、雑誌、著書と、発表媒体もおおい。わたしは、たい子の作品群を国会図書館などで何か月もかけて調べたのだが、あのころのしんどい経験は2度としたくない。しかし、平林作品の全容がつかめたのだから、貴重な経験をしたのだと思う。
たい子の作品群は、簡けいな文体、リアルな描写、鋭い観察眼、そして生活実感も詰まっていておもしろい。
たい子は早熟な人だった。小学校高学年で作家をこころざす。放課後、義兄の蔵書をむさぼり読んだ。上京後は、原稿を林芙美子とともに、ちびた下駄をはいて雑誌社にもちこんだ。帰宅すると、その原稿はすでにもどっていたという。たい子の挑戦は、「残品」(改題「嘲る」)が「大阪朝日新聞」の懸賞小説に当選するまでつづいた。
わたしは、6人の女性作家の伝記的作家論を書いている。その経過で思った。6人はともに文学をこころざしながら、結果的に差がついたのはどうしてなのかと。文学史に名をとどめているのは、たい子と鷹野つぎと川上喜久子である。
もちろん、6人には才能のちがいもあったろうが、1つには、作家への道のりにおける、意識や情熱にちがいがあったのではないか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0935:201005〕
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