ドイツ通信第162号 新型コロナ感染の中でドイツはどう変わるのか(10)
- 2020年 11月 7日
- 評論・紹介・意見
- T・K生
再びロックダウンのなかで
今日11月2日から、ドイツは2回目のロックダウンに入りました。期間は11月30日までの4週間です。正式には春のように全面的ではなく、「部分ロックダウン」ですが、それがもたらす影響は、計り知れないものがあると言われています。
3月から5月までのロックダウンを乗り切り、夏休みを謳歌して、それでなぜ、感染をストップし、減少することができず、第2波を迎えることになったのか、議論はここをめぐります。
統計的にこの経過を追ってみれば、4月2日の感染者数は6554人でピークを迎えます。それ以降、減少化傾向を示しながら規制が緩和され、7月から始まる夏休みを迎え、そして9月に入り感染の急速な広がりが始まりました。11月15日には6638人となり、これまでの最高を記録し、グラフの曲線は急上昇傾向を予測していきます。そして、10月30日には1万9,059人となりました。
南部ドイツと西部ドイツからの感染の波が、日毎に中央部を直撃し、さらに北部、東部ドイツを呑み込んでいこうとしている様子が、グラフィックから手に取るように伝えられてきます。それを見ながら市民は、「明日は、そしてその先は、どうなるのか?」??時間との闘争になります。しかし、その武器とは何か?と問い返したとき、ここで議論が分かれてきます。何故なら、各州よって感染状況が異なりますから、各州の政治利害が先行していきます。感染数の少ない州には、他のホットスポットの州からの訪問者、観光客を迎えたくありません。夏場のコロナ対策は、この点で意思一致と統一ができず、ドイツ全土はバラバラな状態に置かれました。そのなかで市民の社会・文化活動は、何が可能か?旅行の自由、個人の自由、自由な経済活動とは、どうあるべきか?
この問題を投げかけたのが、〈反コロナ規制〉運動の背景だっただろうと思われます。そこに反ユダヤ主義者、謀略論者、ファシストたちが勢力を動員してくることになります。
そして、10月から11月にかけてのこの1ヵ月間に、何が変わったのか? 何が、感染爆発の要因になったのか?
この議論を通してよく聞かれる意見は、以下のように要約できるのではないかと思います。
3月から5月には、市民の中に連帯を示す兆候が認められていたではないか。人が他人を配慮し、そうした社会の人間関係が、コロナ感染の拡大を阻止してきたはずだ。それができなくなり、個人の関係性が断絶されてしまったことが、2回目のロックダウンの決定的な根拠になり、今ここで、社会の連帯を作り上げることができるのかどうかが、死活問題になっている。
と。この「死活問題」を連れ合いは、「ドイツ(人)は、理解力をなくした!」と表現し、またメディアは、「ドイツはコロナのコントロールを喪失した!」と書きます。
以上の問題点を、この間の身近な経験から経過的に振り返ってみます。
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10月17日、私たちは友人と一緒にオペラ観劇に出かけました。コロナ感染が、私たちの街にも拡大しつつあるのがはっきりとわかり、また全ドイツでも警戒が呼びかけられていた時期に当たっていましたが、しかし、全体の25%の切符販売と、劇場のコロナ対策の下でオペラが開演されることが決まりました。
劇場の入り口ホールでは、訪問者のマスク着用が義務付けられていました。しかし、ホール内では着席すると同時に、大部分、90%以上がマスクを取り外し、大声で話しだします。あたかも文化に興味をもつ人間は、自説を大声で他人に聞かせなければならない、というように。それを見た連れ合いの言葉が、上記したところとなります。
2つの問題点を指摘しておきます。
1.ここに、権力(という用語を使っておきますが)から義務付けられれば、飼いならされた羊のように従うドイツ人の性格が浮き彫りにされています。
2.それは反面、そのタガが外れたとき、自主的な判断ができないで、自己のエゴを貫き通そうとする個人主義が全面に出てくることになり、市民間の対立を煽ります。
これが、連れ合いの言いたかったことです。それを見たとき、同じ環境のなかにありながら、まったく違った対応と反応をする人間の違いをまざまざと見せつけられた思いがしたものです。文化に強い興味をもちながらも、そうした人たちに遭遇することで、関心が削がれていきます。大声であたりかまわず話す自称「教養文化人」――別称「うぬぼれた物知り」は、それによってコロナ下の文化活動援助にはならないばかりか、文化の存在そのものを危機に陥れていることを知るべきで、それの理解できないところに一番の危険性があるというものです。
それまで、私たちはそうした密室・密集状況を意識的に避けてきただけに、余計に印象強く残っています。私たちの疑問は、なぜ市の行政(SPD市長)が、事前に適切な対応をとれなかったのかという点です。その後、1週間後に市は、ようやく〈観劇中のマスク着用義務〉を布告しました。
状況判断の誤り、後手後手に回る市政の対応、市政の情報活動とコミュニケーションの欠落、その中で切り裂かれていく市民の存在が、ここから読み取れます。市民間の対立は大きくなるばかりです。これが、住民20万人の町の出来事だとすれば、ドイツ全体ではその規模も大きくなってきます。
それにふれる前に、どうでもいいことかもしれませんが、ドイツ?ヨーロッパの〈風俗文化〉というようなものについて簡単に書いておきます。私には気になるところですから。
〈見て(sehen)、見られる(gesehen)〉と表現される文化の在り様です。海岸で、街中そしてレストラン、劇場で、要は人目につく場所での人々の視線の向けられ方です。どんな着こなしをし、どう振舞うのか、それを見て、見られることの興味ですから、頭のてっぺんから足の先まで各自はかなり意識的に気を配ることになります。
かいつまんで言えばこういうことです。外国を旅行されてすぐ気づかれると思いますが、日当たりのよいカフェーの前に一列に並んで座っている客が、通りを行きかう人たちに視線を向け、それを話題にし、そして逆に通行人からみられることに自己満足を感じるというのが、ヨーロッパに一つの文化として定着しているように思うのです。ナルシズムの一種でしょうが、それが、〈見て、見られる〉と表現される文化を成り立たせ、社交場の楽しみにもなっていると言えるでしょう。
それゆえに、マスクを着用するということが彼(女)たちの文化にそぐわないことになります。別の角度から見れば、文化が「エリート」化されているのがわかります。冷静に考えれば時代掛かりの代物ですが、そういう底意識が現在まで引き継がれてきていることの一つの証というべきでしょう。これに私たちは大変疲れ、反発してしまうのです。コロナ禍でこうした現象が顕著になり、「価値評価」の議論に発展してきています。私たちが守るべき「価値」とは何か?
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ここで、地方都市を離れて視線をドイツ全般に移すことにします。
9月から10月にかけてバイエルン州では、無料のPCR検査が一斉に実施されました。夏休みを「リスク地域」指定された諸国で過ごし、帰ってくる旅行者の感染経路を遮断するためです。バイエルン州首相は、ドイツの中で規制強硬派を代表し、ドイツ全体への対コロナ対策モデルを提供したいという野望を持っていますから、単独の取り組みとなりました。
賛否両論がありました。2つの意見を以下に要約してみます。
1.感染者を一人残らず洗い出し、感染経路を断つ。それと同時に、無症状の感染者を発見することによって予防対策に役立てる。
2.検査は、その時点での陰・陽性結果を提供するのみで、感染有無の長期的な保障にはならない。
ここにジレンマが見られます。実は、このジレンマが、ドイツの医療及び病院制度の負担になってきます。
莫大な資金と人材が投入されて、その結果は、旅行者による感染拡散の危険性が確認されていないという報告が、コロナ対策本部のRKI(ローベルト・コッホ・ウイルス研究所)から出され、ひとまず安心感が持たれました。
その一方では、数千の検査データーが混乱し、結果が出されるまで数日、数週間近くかかることも稀ではなくなりました。結果が伝えられるまでの期間、検査を受けた人たちの行動経過を把握できていたのかが、今度は問われることになり、結論は、それができず、手放しの状態でした。
同じことが、全ドイツでも見られます。10月に入って感染数の急増と同時に、PCR検査が週に平均100万件以上実施されるようになっています。それが感染者数に反映してくることは、誰も否定しないところですが、今度は検査の試験室がオーバーワークになり、検査結果の出るのが遅れてきます。
首相メルケルの記者会見では、感染経路の4分の3が追跡できなかったといいます。この状況をメディアは、「ドイツはコロナのコントロールを喪失した」と表現しました。
一方でコントロールを集中、拡散していけば、他方で受け入れ態勢が追いつかなくなり、現場は混乱してきます。全体のバランスとシステムが確立されてこなかったこれまでのコロナ対策の欠点で、これは何よりも、また、連邦制の弱点ともいえます。そこで市民のなかに無関心、無頓着な意識が生まれてくることは否定できないことだと思われるのです。
もう一つの重要な問題点は、この時、感染拡大(ホット・スポット)と死亡率の高い「リスク・グループ」と指定されてきた人たち、例えば老人ホームに住む人たちは、「隔離」されたままで家族・親族との面会等の社会活動も阻まれ、ホーム全体の適切な安全体制は、各施設任せになっていたように思われます。
これを私は、社会全体の安全を確保するために、「リスク・グループ」を「隔離」するドイツのコロナ戦略だと理解していますが、ここでニュージーランド首相の言葉が思い出されます。
「最も危険にさらされているグループ――年配者、免疫の弱い人たちを守るために、短期間、日常生活を犠牲にしなければならない」(労働党首相ジャシンダ・アーダーン)
確かに、ニュージーランドの経験を直接他の国に導入することが不可能なのは、ウイルス学専門家の言う通りですが、社会を見つめる正反対の視線は学ぶべきだと思うのです。アーダーン首相は、毎日、定期的に市民に対コロナ対策をアピールし、市民とのコミュニケーションをつくり上げてきたといわれます。「首相は、どこにいるのか?」とメディアに書かれるドイツとの違いを思い知らされます。市民自身が、間違いなくそれを望んでいたはずです。
現状は、ドイツの「クラスター戦略」が破産したことを証明しています。その最大の根拠は、感染率が減少した夏休みの期間に、この老人ホーム等の「リスク・グループ」を感染から守るための対コロナ戦略とコンセプトを立てられなかったことにあります。あまりにも目先の対応に追われすぎ、長期的な展望と戦略が欠けていました。
医療、病院、ホーム施設で働く人たち、そして住人への徹底した一斉検査が行われていれば、10月以降の状況は、もっと違ったものになっただろうというのが私たちの論点です。何故なら、施設での感染は、外部訪問者からではなく、施設内のコンタクトを介して拡大している形跡が認められるからです。それと外部訪問者への検査等々、自由な行動への可能性は、まだまだあるだろうと思うのですが。
その結果、何が10月に引き起こされたのかというのが、次の問題点です。
RKIは同じく、ホテル、飛行機、電車、ス―パー等による感染は認められないと報告していました。
それを聞いて安心しながらも、しかしこうした場所での人の移動は、現実的には追跡検査が不可能ですから、旅行、移動、宿泊にいたずらな不安をもたせ、観光産業に打撃を与えないための政治判断が働いているのかも、と一抹の猜疑が頭をよぎりました。
私の街、カッセルを例に取り上げて10月の感染爆発からロックダウンまでの経緯を素描してみます。
「クラスター感染」は、プライベートな領域で発生しています。
1.結婚式(250名の招待客)
2.パーティー(ホーム、ストリート、地下)
3.難民キャンプ
この何れも避けられたはずです。ここでは難民キャンプの例を取り上げます。キャンプで健康、公衆衛生面の仕事を担当している医者が、事前に感染の問題点を指摘し市の行政に改善を要求、提案しますが、しかし市は無視し、あろうことかこの医者に緘口令を布き、人との接触を禁止しました。その間、感染はキャンプ内外に拡大していきました。
それを聞いた連れ合いは、自分の体験から「難民向けドイツ語授業と同じことが起きている」と、怒りで語気を強めていました。
一つ言えることは、難民問題からコロナ感染まで、政治の構造は何も変わっていないということです。
首相メルケルは10月の中旬から、何回となくTVで市民にアピールし、コロナ規則を遵守するよう強く訴えていました。それは正しいでしょう。市民の自主的な取り組みと自己規律がなければ、〈規制〉は意味をもたないからです。80%のドイツ市民が、コロナ規制に賛成・同調しているというアンケート調査結果も出されています。
しかし、全体的な戦略がなく、その場限り・一時的な対応は、先に見たようにただただ現場に混乱をもたらしてきただけです。さらに今の状況がいつまで続くかもはっきりとした展望がありません。精神的な疲れと将来への不安は、市民の中に現実への冷淡でニヒルな態度を生み出します。それが、1)と2)に見られるような無頓着で無関心な振る舞いを導き出すのでしょう。
では、「正しい」アピールが、なぜ正反対の反応を引き出すのかと問うとき、首相メルケルそしてコロナ対策本部の一番の問題点が見えてきます。アピールに続いて、「深刻な現状」を数字とともに解説し、このまま進めば、楽しみにしているクリスマスもできなくなるというようなシナリオが描かれます。
一種のショック療法なのです。別の言い方をすれば、〈それができなければ、あんたの責任だよ〉という論理がまかり通っていることです。これは何も私個人の曲解ではなく、メディアも取り上げているところです。
ここから若い人たちの間に、「だったら、パーティーをして今を楽しめばいいだろう!」と結論が引き出されます。人を動かすのは、倫理とモラルだけではありません。規制された生活条件のなかで、何が社会活動として可能かを発信・提案しなければならないのです。規制があるけれども、人は可能なことを最大限引き出し、それによってコロナ流行に対応できることをこそ訴えなければならず、それこそが政治指導というものだと思います。〈自由〉と〈規制された世界〉との二元論ではなく、それを扇動するのが米大統領のトランプを筆頭にポピュリスト、そして極右派の勢力だとすれば、人間の自由の可能性を追求していくことによって、自由を制限する条件を克服・止揚していかなければならないのだと考えています。この間の教訓です。
首相メルケルのアピールだけでは物足りません。次に、コロナ対策本部の武器は何かといえば、以下の2つです。
1.他のEU諸国と比べて、まだ十分な重症感染者受け入れ能力のあるドイツの医療体制
2.ワクチン開発
両者は表裏の関係にあります。ナショナルな国民統合であるとともに、国際連帯のもとでの対コロナ戦略ではなく、言ってみれば〈America Great〉のドイツ版です。
「ワクチンが開発されるまで」の時間稼ぎが、政治家、ウイルス研究者からも言われるように現在のコロナ規制の本質を規定している要素で、製薬会社へは各国の莫大な先行投資が行われ、ワクチンの青田買いが、すでに始まっています。
その状況を見せられ、聞かされれば、〈連帯〉ではなく〈争奪戦〉の意識がもちあがってくるのは、はたして私だけでしょうか。〈争奪戦〉――それは裏を返せば〈自己の生き残り戦〉でしかなく、他人の屍の上を駆け抜けていくしか道は残されていません。
トイレットペーパー、スパゲティー、小麦粉の買いあさり行為などは実に見苦しい光景ですが、加速がつけばそれをストップすることが不可能になるという一例です。
そして、11月2日からのロックダウン入りです。
ここまでに至る経過を一人の著名なウイルス学者は、次のように表現しました。要約してみます。
荷物を満載した貨物自動車が、ちょうど、坂道を下に向かって走っているようなもので、加速がつけばもう操作が不可能になり、このままでは大事故につながりかねない。それを阻止するために、今、ブレーキをかける必要が出てきている。
そこで、誰がブレーキをかけるのかということです。この時、EU ・ユーロ危機と、ギリシャ経済危機が思い浮かべられました。当時の財務大臣ショイブレ(CDU)が、メルケルの危機対策に対して、以下のように表現していました。
(メルケルのしていることは―筆者注)素人がスキーをするのと同じで、転べば雪崩が起き、雪だるま式に大惨事を迎えかねない。
メルケルは10月に入ってから週に1回の割で記者会見、TV でアピールを繰り返していました。車の運転手に例えれば、〈週末ドライバー〉になるでしょうか。そのドライバーが、はたして加速して適切な操作の効かなくなっている貨物車をコントロールして、平地に導いていくことができるのか?
メディアは、「ストレス・テスト」と書きました。
判断の素材は、ロックダウン自身のなかにあるように思われます。
ここではレストラン、バー等飲食産業を例に取ってみます。コロナ規制の現状を見るためのいい機会だと思い、いくつかの飲食店に出向いていきました。
指定通り顧客名簿を記入させるところと、無視しているところ、と様々です。また、机の相互間隔を取っているところと、ないところ。従業員がマスクを着用しているところと、していないところ等々、統一されていません。
この顧客名簿ですが、義務づけであっても客が「ミッキーマウス」(本当にあった例です)と記入すれば、感染経路を追跡する可能性が閉ざされてしまいます。
一方で細心の注意と配慮を施した経営と、規制実施に無頓着、無視する経営とに分かれています。
ここにも典型的に「理解力を失くした」世界と、「コントロールを失くした」世界の2つを見ることができますが、それは何よりも人間のコロナ禍での生活・意識態様を示しているものだと思われます。その意味からも、今回のロックダウンの必要性は理解できるところです。
こうして各自は、「ストレス・テスト」を受けることになりました。
長々と書きましたが、最後に、目先の対策ではなく、長期的な展望を持った対コロナ戦略の確立に向けた議論で重要と思われるポイントに関して、簡単に私の意見を書いてみます。何が〈個人の自由〉の発展に必要かという問題です。
ホテル、レストラン産業から見れば、ロックダウンによる収入損失を、2019年11月を基準に収益の75%が、政府から補償(援助)されることが決まっています。(注)
(注)従業員50名以下の会社が該当します。それ以上は、60%
しかし、経営者、産業側からは、別の声が聞かれます。各テーブルに遮蔽版を立て社会的な対人関係の間隔を確保し、衛生規則を遵守するために多大の努力と資金が投資されました。経営・産業界の発言は、単なるマーケッティング用の売り言葉ではありません。その経営努力は、傍目でも認められる事実です。そして言います。
私たちは、引き続き働きたいのです。
と。これへの回答を見つけ出すことが、「ストレス・テスト」の課題になるように思われてなりません。そしてそれが、対コロナ戦略のキー・ポイントになることは間違いないでしょう。一言でいえば、「社会の価値」ということです。
〈正当なアピール〉に続いて市民が求めているのは、これへの政治指導の指針です。
(つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10266:201107〕
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