エクリチュールの時間と色彩
- 2020年 11月 15日
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評論・紹介・意見
- オートフィクション髭郁彦
<髭郁彦:記号学>
ジャンルとテーマはミハイル・バフチンの対話理論の二大基本概念であるが、彼は『言説ジャンル』の中で、「話し手が語ろうと望むことは、何よりもまず、言説ジャンルの選択として実現される。この選択は言葉のやり取りの定められた範囲、テーマ的な必然性 (意味の対象)、対話者の構成的総体などの特異的機能によって決定される。その後、話し手のディスクール構想が自らの個人性や主観性をなくすることなく、選ばれたジャンルに順応し、適合し、定められたジャンルの形式の中で組み立てられ、発展していくのである」と語っている。ジャンルとテーマはテクスト構築において相互依存関係にある点をバフチンは重視したが、彼の主張が正しければ、ある著作のジャンルを探ることによって、その著作のテーマあるいは意味的な方向性を導くことが可能となるはずである。しかし、ある著作が常に特定の典型的なジャンルに区分できる訳ではない。混在されたジャンルの上に立脚した作品も存在する。その場合、作品はジャンルの安定した基盤を失い、新たなジャンルの構築に向かう点もバフチンは強調している。
何故ジャンルの問題に関するバフチンの理論を最初に提示したのか。それには以下のような理由がある。これから考察しようと思う林完枝の『青いと惑い』という作品が、オートフィクションというジャンルに属するテクストであるからである。オートフィクションについては後続するセクションで詳しく論じるが、伝統的なジャンル形式には属さない混在したジャンルの一形式と述べることができる。単純化すれば、自伝とフィクションとが融合されたジャンルの作品に対して命名されたジャンルであるが、『青いと惑い』はオートフィクションであっても、典型的なオートフィクションに属する作品としてしばしば言及されるマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』とは大きく異なる特質によって構成された作品である。それゆえ、ここではまずオートフィクションというジャンルの問題について検討しようと思う。
第二の考察視点としては林の作品の特殊性を探るためには、伝統的なテクスト分析概念に頼ることはできない。何故なら、彼女のテクストは様々な側面で多層的・多重的な構成体であり、この複合性を明らかにするために新たな考察視点が必要となるからである。林の作品を究明するためにはスラヴォイ・ジジェクが『斜めから見る:大衆文化を通してラカン理論へ』(鈴木晶訳:以後サブタイトルは書略する)の中で展開した「斜めから見る」という方法を用いる必要があると考えられる。この方法を通して、『青いと惑い』の持つアナモルフォーシス的な多元的テクスト構造を明確に提示できるように私には思われるからである。
第三の考察視点は第二の考察視点に基づくテクスト分析の結果を踏まえながら、『青いと惑い』のテクスト構造をより具体的に検討するために時間性という問題とエクリチュール内の色彩表現問題に絞って林の作品を見つめていこうと思う。この二つの問題を探究することで作品の中心軸が端的に理解できると考えられるからである。
以上の三つの視点を用いて、『青いと惑い』という複雑に錯綜した著作について考察していくが、最初に注記しなければならない点が一つある。ここで行われるテクスト解釈は林のテクストの意味構造を探るものではあるが、それは大文字の意味として機能するテーマを見つめようとするものではなく、ポリフォニックな対話空間の中で作品の主旋律に隠れた小さな声に耳を傾けようとするものである。それゆえ、私はテクスト全体の持つ大きな物語とは敢えて積極的には対峙せずに、『青いと惑い』の中にある消え入りそうないくつかの囁きに耳を傾けるつもりである。
オートフィクションというジャンル
オートフィクションというジャンルを最初に提唱したのはフランスの作家セルジュ・ドゥロフスキーである。彼はオートフィクションを自伝的な語りとフィクションとしての語りが混在した文学ジャンルとして定義づけている。このジャンルの典型的小説としては、先程も書いたようにプルーストの『失われた時を求めて』が挙げられるが、プルーストのこの作品は伝統的なジャンルの区分では自伝と小説というまったく異なるとされていたジャンルが溶け合わさった作品である。
日本文学のジャンルには私小説というものが存在するが、西洋の文学ジャンルに私小説は存在しない。何故ならエミール・バンヴェニストや他の多くの言語学者が主張しているように西洋言語においては、物語世界の語りの時制とディスクールとしての語りの時制との区分が厳密になされており、日本の私小説のように物語かディスクールかがはっきりと判別できない語りは存在しないからである。また、私小説はオートフィクションとは異なり作者の人生の一部分しか作品に反映していない。この点でもオートフィクションとは大きく異なっている。
作者の人生全体と物語世界の混合はまさに『失われた時を求めて』のテクスト構成そのものと深く関係する問題であり、主人公のマルセルは作者自身の人生を担った「私」でもあれば、小説の主人公としての虚構世界の中心点である「私」でもある。ところが、『青いと惑い』のオートフィクション性はこうした融合性がまったく存在していない。この作品を構成する要素は小説、詩群、作品内の各構成部の解説というテクストであるが、そのそれぞれの部分が論証的には絡み合っていず、隣り合ったテクスト間の距離が大きく隔たっている。つまり、テクスト間の空隙が大きいために、テクスト的連続性を捉えることが極めて困難な構造となっているのである。
この差異は絵画ジャンルで譬えるならば、騙し絵とアナモルフォーシスの違いに相当するものであろう。プルーストの作品は小説に登場するマルセルがある方向から見れば実際のプルーストの姿になり、他のある方向から見ればフィクションの中の主人公の姿にもなる騙し絵として描かれた人物像と見做し得るものである。それに対して、林の作品ではブロックごとに分かれたそれぞれの作品の中で作者とフィクションの主人公が溶け合ってはいず、オートフィクション性やテクスト的連続性を掴むためには斜めから見るという特殊な見方をして初めてある像を捉えることができる作品、すなわち、ある連鎖が見えるようになる作品である。それはまさにアナモルフォーシスと呼び得る構造を持つテクストである。
『青いと惑い』がオートフィクションに属する根拠となるもの、それは「Autofiction: A Chronicle of My Struggles」というタイトルが付与されたこの本の各構成要素を解説するテクストが存在するからである。林は「オートフィクションとは、自伝と虚構 (autobiography-fiction) を意味する合成語である。(…)これまでなんとか書き続けることをやめなかったのは何故かと自問する。書くことしかできない、そんな覚悟あるが、処分しなかった原稿や残存する膨大な数のノートブックを再読してみると、自己検閲と自己韜晦に揺らぎながらの私の苦闘ぶりに他人事のよにただ感心する、その涙ぐましい努力をもはやただ肯定するほかない」と書いている。そしてこの言葉に続いて、作品を形作っているそれぞれの構成要素に関する短い解説が書かれてはいるが、作品全体の構造については何も語ってはいない。この解説箇所があるために、むしろディスクールの連鎖が不透明になっているような印象さえ受ける。更に、この解説部分の一つ前にある「INCOMPLETE」と名付けられた詩群が並ぶテクストも読者に大きな戸惑いを与える。この戸惑いによって、読者は正面からではなく、斜めからこの作品を見つめようと試みなければならなくなるのではないだろうか。
斜めから見る
ジジェクは『斜めから見る』の中で、ジャック・ラカンがセミネールの中でしばしば取り上げたハンス・ホルバインの「大使たち」について、「見学者がまっすぐに見ると、絵の下のほう、大使たちの足もとに、不定形の、細長い、「屹立した」染みが見える。この絵が提示されている部屋を出るとときに、もう一度だけ見てみようと振り返ってみると、なんとその染みは頭蓋骨の形になっている。かくして、その絵の真の意味――絵の残りの部分をみたしている現世の富、芸術品、知識などがいかに虚しいかということ――が明示される」と述べているが、この歪像表現法がアナモルフォーシスと呼ばれているものである。作品の見手は斜めから見ることで、この作品のテーマとして捉えられた意味とは全く別のテーマが浮き上がってくることに突然気づかされると共に、作品の隠された意味の意外性に驚かされる。ジジェクはそこにラカンの語っている「シニフィエなきシニフィアン」の問題が存在している点を指摘し、この表現方法が「意味の探究の深淵を開く」ことの重要性を強く主張している。
『青いと惑い』に話を戻そう。このオートフィクションは、先程も指摘したように、テーマ的な連続性を追うことがかなり困難な作品である。それぞれの小説は連続性を持ちながらも、断絶性が大きく、また、突如現れる詩群や作品解説といったテクストによって、読者が無理に一貫したテーマを見出そうと努めても、それは不安定で壊れやすいガラスの像を築くだけで、軽く指で押しただけでその像はバランスを崩し倒れ、粉々に砕け散ってしまう。それゆえ、読者は正面からこの作品を見つめるのではなく、斜めから見つめる必要性があるのだ。
ーマニアの言語学者エウジェニオ・コセリウは『言語変化という問題―共時態、通時態、歴史―』において、「対象の存在のしかたとそれをわれわれがどう見るかという見方とを混同してはならない。抽象を「物体化」してならないことがはっきりしているのと同様に、二つの性質が常にあいともなって現れるからといって、その各々を別々に考察することができないということにはならないことも、また確かである。たとえば、ある対象の形と色とはともに存在するが、それぞれは独立の変数であり (…)、したがって両者は独立に研究することができる」(田中克彦訳)という興味深い発言を行っているが、コセリウが言っているように対象を捉える方法は一つではなく、また、対象を正面から見つめることと斜めから見ることが両立し得るという点に注目すべきなのである。
斜めから見ることでアナモルフォーシス的構造を掴むことは、『青いと惑い』のテクスト構造を壊すことなく、この作品の新たな考察方法を探究することである。更に、コセリウは『言語変化という問題』の中で、言語における体系と規範との差異について、「体系は、一言語の実現の理念上の諸形式、すなわち、この言語が必要とする創造の技術と基準とを擁しているのに対して、規範の方は、その技術を用い、基準に従って、すでに歴史的に実現された見本[モデル]を擁している」という指摘も行っているが、このことはラング内の問題に止まらず、テクスト構築の問題とも深く結びついている。とくに、文学ジャンルに関して言うならば、規範となるジャンルは常に変革し続け、規範を越え固有のジャンルとしての特質を拡大していく方向性も内包しているのだ。そうした方向性を持つものとして『青いと惑い』のオートフィクションを考えるべきであると思われるのである。
循環する時間性と色彩
このセクションでは斜めから見るという方法によって実際に『青いと惑い』のテクスト分析を行ってみようと思うが、ここでは二つの側面から分析を進める。この作品を詳細に分析するためにはこれから提示する二つの側面からの分析だけでは不十分であることは明らかであるが、私の今の能力ではこの二つの側面からの考察を行うだけが精いっぱいであることも確かなことである。それゆえ、ここでは『青いと惑い』のテクスト構成上の時間軸という側面 (マクロテクスト構造レベルでの分析)と、作品内に散りばめられた色彩表現、それも、「青」という色彩と関連する表現 (ミクロテクスト構造レベルの問題)について検討していきたい。
テクスト構成上の時間問題は作品の大きな構造と関連するが、バフチンが『言説ジャンル』の中で語っているように、ジャンルにはそれぞれの言表という単位での発話の型としての二次ジャンルと、複数の言表の連鎖によって構成されたテクストといった大きな単位の多数の言表の集合体である一次ジャンルが存在する。テクスト構造においても、テクストを作り上げる小さな要素 (一つ一つの言表や各章など)の持つミクロ構造と呼び得る構造と、テクスト全体の形態と係わるマクロレベル構造と呼び得る構造が存在している。それゆえ、まずは『青いと惑い』の時間に関するマクロ構造について考えてみたい。この作品は上述したように詩群や作品解説を含むが、その大多数が小説である15のテクストから構成されている。最初のテクストである「誰彼に沈む」という小説の舞台となる時代背景は1920年代後期で、物語の時間性が次第に下って行き、最後の章で再び1920年代後半に戻っていく。このミクロ構造レベルでの円環的時間構造は、作品全体のマクロレベルの構造とも照応している。ただし、作品全体は時間軸を遡ったり、下ったりしながら、時間軸を揺れ動き、途中で時間性を超えた詩群や解説文が挿入され、最後の「わがロビンソナーダ――共有しえぬ記憶」の終り部分で、1920代後半が描かれ、小説が閉じられている。つまりは時間軸をぐるぐる回りながらも、最終的には出発点の時代に戻っているのだ。正確に言うならば、この時間構造は円環と言うよりも、渦巻き状構造と言うべきものである。こうした物語構造は、オートフィクションというジャンルの中でも特異なものであるだけではなく、時間軸の揺れ動きは読者を物語空間に誘いながらも、その空間への埋没を中断させる機能も担っているように思われる。フィクションの時間軸に沿って進むことで、物語空間内で彷徨し、方向感感覚を失い、いつの間にか最初の場所に戻っている。作品の時間軸を見つめることで、このような物語構造が浮かび上がってくるのではないだろうか。
色彩表現、それも「青」に関する色彩表現に関しては以下のような考察が可能である。先程も指摘したように『青いと惑い』の中には「青」あるいは「碧」という色彩、特に「青空」に関する色彩表現が散りばめられている。「誰彼に沈む」の「僕は南アフリカにいるときに空の高さ碧さに圧倒されつつ、灰色の雲が重く垂れこめるイギリスの空に思いを馳せる」という言表、「海の怪物、森の女王」の「倒れたブナの木の上方遥かに空いた空間、そこから太陽光が降りそそいできた。その空は眩いばかりに青く遠く突き抜けていた」という言表、「カメラータ」の「車窓の向こうで風景が流れてゆくすっきり晴れた美しい日、青空はじかにみれば目にしみる」という言表、「わがロビンソナーダ――共有しえぬ記憶」の「見上げるとはるか上方に教会の十字架、そのさらに上方、青空の中に白い機体、それもまた十字のかたちをしていた」という言表などで語られている青空に対する描写はテクストを青という色彩に色付けているとさえ述べ得るものであり、それは作品の中のミクロテーマを構成していると考えることも可能である。だが、その色彩は水晶玉に空の色が映り、青く染まった世界ではないだろうか。それはすぐに崩れそうな危ない平衡感覚を何とか保とうとする虚構の我と現実の我とが繰り広げるシーソーゲームである。そんな印象を抱かせる表現である。アンバランスさ。それはこの作品の時間構造である渦巻き性とも類縁性を持ちながら、作品自身の持つ儚さや脆さを語ってはいるように私には思われる。
オートフィクションの作品でなくとも、多くの文学テクストにおいて、物語構成が単純に組み立てられることなどは殆どない。ミクロレベルでも、マクロレベルでもテクスト展開は複雑に組み合わされた要素間の連続性を通して実現されるものである。だが、上述したように『青いと惑い』の作品構造を分析していくと、この作品の重層決定的特質が理解できる。それもその重層性は単に多くの層が積み重ねられることによって作品が構築されているといったものではなく、多くの層が浸透し、侵入し、侵食し、混在した多層性を有している。その特質を支えるものがテクスト内の時間軸の渦巻き状構造であるように思われる。作品内の時間軸はテクスト展開に従って揺れ動き、それにより読者は時間の渦の流れの中に投げ出される。しかしながら、作品の細部にある青い空だけは鮮明に時間を超えてテクスト内の確固とした位置に投錨される。こうした解釈は無謀であろうか。
複数のテクストから構成されているということは多くの声を作品内に閉じ込め、反響させることである。そこには多くの声、つまりはポリフォニーが響き渡っている。『青いと惑い』のポリフォニー性を考えてみよう。そこにあるものは清浄な複数の響きが重なり合うハーモニーが形作られているといったものではない。テクスト連鎖の展開と共に、一つまた一つと作品の地平上に声が到来し、声が声を呼び、声が声を覆う。そして、声が声を求め、声が声を消し、声と声が溶け合う。ポリフォニーのレベルも、その表現方法も一つではない。林のこの作品のポリフォニー性を語ることは容易なことではないが、テクスト間の断絶によって見えなくなった連続性をどう捉えるかかによって、ポリフォニー性は確実に変化する。しかし、そのポリフォニー性がどのようなものであったとしても、そこにあるものは時間的な空洞性を埋めるための声の層の重なり合いのように感じられる。
林は作品内の自己解説部分で、「私は自分の書いたものを読み返すとき、多数の引用にばかり気づく。私の読書遍歴や私の記憶力のバイヤスに気づく。フィクションでありドキュメント、そして蒐集と回収である」と語っているが、それは先行する多くのテクストとの対話的な関係性への表明である。だが、あるテクストの対話空間は、先行するテクストだけでなく、これから書かれるテクストとの対話空間の開示をも内包するものである。マクロテクストとしての可能性は常に開かれている。それゆえ、林のこの作品もマクロテクストとしての対話空間を歴史展開の中で、疑いなく開かれたものである。
物語空間の可能性は雄大なものだ。一つの物語は他の物語呼び寄せ、同化し、反発し、拡大し、縮小しながらも新たなテクスト構築に向けて前進する。しかしながら、私は林の作品を考察しながら、テクスト自身の持つ構造、文体、間テクスト性とは別な一つの声が、突然、エクリチュールの波間から聞こえてきたと感じた。その声は、「この本の中で、あなたの好きなテクストを一つだけ選んでください」と語っていた。それは幻聴かもしれない。だが、私はこの本の中で引用されていた «Uncertainty is your ally»という言葉を信じたいと思ったのだ。テクストの向こうにある新たな世界に出発するために。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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