辺見庸Ⅴ―わたしの気になる人⑮
- 2020年 11月 16日
- カルチャー
辺見庸がツイッターからもどってきた。ひさしぶりに読むブログに、わたしはいささか興奮したのだった。辺見庸の怒りが炸裂している。登場人物の顔が鮮やかに浮上している。文章は立っていて生き生きとしている。おもしろい。
近ごろ、辺見庸の『自動起床装置』(新風舎文庫)を読んだ。1991年の芥川賞受賞作である。140枚の小説だ。この文庫のための「あとがき」に、辺見庸はこう書いている。「『あの程度なら俺にも書ける』といい放つ者のいや多かったこと」と。受賞後、辺見庸の当時の勤務先、共同通信社の同僚たちが放ったせりふだろうか。しかし、彼らがどんなに息巻こうと、それはやっかみというもの。やはり、辺見庸でなければ書けない作品だ。筆力、表現力がすぐれている。人間がリアルに描けている。ちょっぴりもの哀しさもおぼえたが、わたしは笑った。下腹が痛くなるほど、何度も。2019年秋に刊行された『純粋な幸福』(毎日新聞出版)では、1度も笑わなかった。
『自動起床装置』から『純粋な幸福』へ。28年が経過する。その中間に位置する『自分自身への審問』(毎日新聞社)のなかで、辺見庸はこんな疑問を述べている。「新しい価値観」は人を「魂の安息」へ導いているのか、と。「魂の安息」こそ、辺見庸が一貫して追いつづける、重要なテーマではないか。『自動起床装置』を読みながら、わたしは、「魂の安息」という言葉をあらためて噛みしめたのだった。
それにつけ、辺見庸は、さまざまな「反人間的な結果をもたらすもの」と、しゅうねくたたかう。激しくも、鋭い対峙の精神こそ、辺見庸とその文学を魅力あるものにしている、ライトモチーフではないか。
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新風舎文庫の『自動起床装置』は、2005年に刊行された。「自動起床装置」「迷い旅」「特別対談 新聞言語と小説言語の狭間で 日野啓三×辺見庸」「あとがき」、そして「解説」(中村信也)が収録されている。
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聡と満は、同い年のアルバイト仲間だ。通信社の宿泊センターで、零時5分から「起こし屋」をしている。仮眠中の記者など宿直者を希望の時間に起こしてまわるのが任務だが、仕事内容はなかなか難しい。ドラマは「ぼく」満の眼をとおして進行していく。
郷田さんは外報部のデスクだ。すこぶる寝起きのわるい人である。「郷田さん、時間ですけど」満は声量をいくぶんあげて呼んでみた。起きやしない。手が無意識にのびて郷田さんのいかつい肩にふれていた。かれは反応した。「クソッ、この野郎」とダミ声で叫ぶ。いきなり、郷田さんは左こぶしをくりだしてきたのだ。満の左ももにあたる。痛い。満は控え室に逃げかえる。
先輩、聡の出番だ。聡は郷田さんの顔に顔をよせる。生々しすぎるほど近づいていく。接吻の姿勢だ。「ごうだ、さーん、ごうだー、さーん」女のような甘い声になっている。「うん、うん、起きるよ、うん」ゴツゴツした郷田さんの上体が急にまるみを帯びて、満の眼には見えた。声も屈託がないのだった。
ディテールがおもしろい。見てはいけないものを見たようで、読者はドキドキする。人は、自身の寝姿を知らない。いびきも、寝言も、歯ぎしりも、鼻息も、うなり声も、気づいていない。しかし「眠りの世界ではいろいろなことが起きる」「辛くて、狂おしくて、他 愛なくて、突飛で、情けな」いすべてのことが。だから、起こし屋の起こし方も多様なのだ。その戦術がおかしいやら、せつないやら。
ユーモアのある細部描写だ。笑いがこみあげてくる。辺見庸は、読者のうけをねらったわけではなかろう。しぜんに笑いをさそう。この笑いこそ、小説「自動起床装置」をけん引する重要なちからになっていないか。
最近、「特高顔」が話題になった。辺見庸がブログで、菅首相の顔を表現したものだが、辺見庸は、人の顔への執着がかなりつよい作家のようだ。登場人物の顔が鮮明に描かれる。「鼻がツンと尖っていて涼しい面立ちをしている」聡。「分厚い皮膚の下に灰汁(あく)が
ドロドロ流れている」郷田さん。人間を描きわけるその視点が、顔なのだ。辺見文学のこ
の特徴は、処女作に源流がありそうだ。処女作には、その書き手の可能性の穂先がでそろっていると、わたしは思う。
もう1点、注目すべきは、人の肉声・音にかんする観察だ。辺見庸は、直喩と隠喩でたくみに表現する。寝ている人の発する音声は「まるで工事中の騒音だ」という。感覚が全開した比喩表現も、辺見文学の著しい特徴ではないか。
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聡と満は起こし屋続行中。ところが、あるうわさがセンター内にもちあがる。社がアルバイトにたよらず起床自動化を導入するというのだ。「ほんとうなら、いけないことだよ」聡は反対する。満はその機械を見たがる。「みーちゃんのしごとも、ぼくらのも機械にはやれないと思うんだ」「自動覚醒機なんかに慣れたらもう大変だよ。起こし屋という不合理の方がまだずっとましなんだよ」みーちゃんは、聡の恋人で、按摩マッサージ指圧師。「肉マンのように」「すべてホッコリまるい」「手は肉厚」の女性だ。
ここは見逃せない場面である。小説のテーマになっている。辺見庸は、満ではなく聡に、自身の考えと思いをいわせているのだ。「睡眠を破壊しようとする機械」は、人から「魂の安息」をうばい「反人間的な結果をもたらすもの」だ、と。
登場人物はいずれも、輪郭がはっきりしている。大学生の聡は地味だが、とりわけ魅力的に描かれる。眠りと植物のかかわりに関心をいだき、機械よりも人間の手の可能性を信じる。心やさしい、あったかい男性だ。
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「自動起床装置」の試験運用が通達される。機械が展示された。「こりゃ、ただの袋じゃねえか」郷田さんがいう。「ゴムびき布袋、太めの蛇腹ホース、無表情の金属箱、ありふれ
たタイマー」布団の下で、6秒間隔の上下運動が5分間連続してから、送風機が自動的に
停止する。
試験運用ののち、聡はめっきり無口になっている。複雑に傷ついていたのだ。
満と聡は、機械の最初の試用者になる。「あいつの起こし方ときたら、とつぜんの地殻変動のような恐怖があるね」「不安だよ」と、聡がいう。
社内モニターのアンケート結果が発表される。「起床感覚」は15人中2人だけが「不快」。「装置の絶対的信頼感」も「信頼できない」は2人だけ。アンケートからは、深刻な重みが伝わってこない。満が聡の思いをさきどりしていう。5つの設問は「機械が人間を揺り動かして起こしていいのかという大事な点を問うていない」と。
聡だけが、事の重大性を感じている。
人はみな、付和雷同しつつ物事に慣らされていくのだ。
導入が正式に決まる。聡と満は、起こし屋のアルバイトを辞めるのだった。
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辺見庸は、1989年から90年まで、ベトナムで通信社の特派員生活をおくっていた。帰国すると第一次湾岸戦争が勃発。外報部デスクは超多忙になる。連夜、宿直室の自動起床装置に起こされていた、というのだ。西側の世界による経済制裁下にあったベトナムは、貧窮をきわめ、停電、断水は毎度のこと。辺見庸は、ホテルのベッドで眠ってばかりいた。大地に吸いこまれるようにすやすやと。想念の世界とたたかっていた、とも「あとがき」のなかに書く。
宿直室ではじめて自動起床装置と出会う。人の「睡眠を破壊しようとする機械」ベトナム帰りの辺見庸は、つよく反応した。未体験の内部衝迫は、書かなければならない、という思いに辺見庸をかきたてたのだった。
おりしも湾岸戦争。戦争とマシーンは、関係ないようだけれど、「合理的暴力」という点では同質なのだと、辺見庸は「あとがき」のなかに書く。さらに、「すべてを一律に機能的に効率的に生産的に同一規格で推し進めよう」という米国基準の流れを予感した、とも。
「特別対談」のなかでは、辺見庸は文学観などを述べていておもしろい。作家の日野啓三にこう語りかけている。「新聞の情報は即日死ぬ。ところが小説は長寿ですね」と。芥川賞受賞直後の辺見庸の発言だ。
小説「自動起床装置」は、発表後29年が経過した。しかし、読後の感動は大きい。魅力は少しも衰えていない。読みごたえは充分にある。今にしみじみ訴えかけてくるものがある。これも、辺見庸のすぐれた表現力、文章力に尽きると、わたしは思うのだ。くわえて、辺見庸の先見の明にあらためて注目したい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0945:201116〕
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