CCDの終焉と、戦後知識人の原罪、そして日本学術会議の発足――山本武利教授の著書に学ぶ――
- 2020年 11月 17日
- 評論・紹介・意見
- CCD岩田昌征日本学術会議
日本学術会議は昭和24年・1949年1月に発足した。令和2年・2020年の秋日本国政府は、学術会議の人文社会系学者に行政権力的圧力を正門から放って、骨の無い御用学者を育成しようと決意したかの如くに見える。
日本学術会議が発足した年の秋、それとは正反対の原理を有する権力組織がその活動を終了した。アメリカ占領軍による日本統治機構の一つ、CCD、すなわちCivil Censorship Detachment、民間検閲支隊、あるいは民間検閲局である。CCDは、マッカーサーが厚木飛行場に降り立った直後の昭和20年・1945年9月から昭和24年・1949年10月まで日本全国各地で密かにかつ着実に活動した。
山本武利著『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(岩波現代全書、平成25年・2013年)によって、CCD=民間検閲局について記す。CCDは、通信(郵便、電信・電話)の検閲と報道・文化(新聞、放送、出版、演劇、映画)の検閲を大量の日本人高学歴者を雇用して実行していた。例えば、昭和22年・1947年に8132人、そのうち6000人以上が郵便検閲に従事していた。昭和24年・1949年に5570人。その結果、アメリカ軍CCDは、郵便2億通、電報1億3600万通を開封し、英訳させて、日本社会の実情を把握していた。電話盗聴は80万回。20世紀前半が終わろうとする時代の通信の圧倒的主流は、電話ではなく、郵便・電報であったから、かかる数値のアンバランスは納得が行く。
検閲の組織者であるアメリカ占領軍の検閲目的は、日本軍国主義・日本民族主義の復活抑制と国際共産主義の浸透予防であった。検閲機関の前半は前者に、後半は後者に重点が置かれていた。
検閲の実行者である日本国民の部分集合、すなわち日本語の手紙文を英語に翻訳する能力の持主達、高学歴者達の検閲作業従事目的は、単純にして明解、時代の給与水準をはるかに超える給与であり、当時の日本常民がその入手に必死になって走りまわっていた食料その他の日用生活財の容易にして安価な取得であった。かくして、合計して、2万人から2万5千人の日本知識人がCCDで働いていた。
山本武利は記す、「CCD勤務の日本人の主力は、大学生や大学卒業まもない比較的若いエリート予備軍であった。彼らが江藤の本(『閉ざされた言語空間』文芸春秋、1989年:岩田)が出た1980年代末には社会のエリートとなっていたことは、想像に難くない。」(p.135)また、山本が注で紹介するクック小林やよいは、「日本人の翻訳官は40代、50代の人が多く、前職は『大学の教授が多いようでしたね。そのほかに貿易関係の方、外交官などが多かったとおもいます』と言う。」(索引・注の部p.22)
山本武利によれば、CCDで働いた日本知識人の圧倒的多数は、自分がかかわった信書開封・英訳の事実を黙して語らず、自分の経歴から抹消していると言う。たしかに、山本の依拠する材料を見ても、検閲実行者自身の生の声は五指に満たない。2万人余もいながら、そしてその実名リストも憲政資料室等で発見されているのに誰にもインタビューできていないようだ。生活のために他人の秘密をのぞいて売った者でも自分の秘密を守る人権はある。
私=岩田は、偶然にも自分のCCD体験をあっけらかんと暴露している書物に出会った。「ちきゅう座」で何年か前に紹介した覚えがあるが、再度ここで触れておきたい。工藤幸雄著『ぼくの翻訳人生』(中公新書、平成16年・2004年)がそれである。その第1章「言葉の自分史」に「CCD(民間検閲局)」なる一小節を設けて、次のように書く。「働き手のなかには、ぼくのような貧乏学生が多かった(大小の闇屋を除けば、一億総貧乏であり、おなかを空かせていた)。CCDには元英字新聞のジャーナリストや学者クラスの英語の達人もずらりといた。」(p.35)「のちのち、『なんだ同じ検閲局にいた仲間か』と笑い合った男に、多摩美術大学で同僚となった美術史家の佐々木靜一がある……。…、日本翻訳学院の同僚で、日本大学商学部の英語教師、武富紀雄(みちお)は、…、『佐々木さんとはCCDで同じデスクにいた』と話が出て、ひどく懐かしがり、早稲田の先輩、佐々木教授を…彼の自宅に招いた。その機会に三人で呑みながら中央郵便局のアルバイト時代を語り合った。」(p.36)
「お百姓さんが愛人かだれかに宛てた手紙に記した名文句が忘れられない。検閲の仕事中、デスクに回ってきた(エンピツ書きだった)拙い文字の郵便物には、こう書かれていた。『去年、帰りたつばくろが、また苗代を見に来ます。肥たごかついで帰る道、たとえ二里が三里でも、決して厭いはせぬけれど、この道ふたり通(かよ)ったと、思えば涙が滲みます…』――あの農民詩人は、慕う女性と結ばれ、幸せな生涯を送っただろうか。」(pp.36-37)
山本著に当時日本女子大学の学生だった横山陽子が平成5年・1993年に発表した文章が紹介されている。その末尾にこうある。「今になって私が敢えてこのことを口にするのは、人々の知らないうちにこのようなことが行われる。これも戦争というものの一面であることを人々に知ってもらいたいと思うからである。そのことが“いつか来た道”をもう一度歩む愚をふせぐことの一つに繋がると思うからである。」「戦後の皆がなりふりかまうひまもなかった時代に、若すぎた私だったとは言うものの、そういう仕事に就いてきたこと、毎日三百通もの郵便物に目を通し、つまりそんなにたくさんのひとの信書の秘密をおかしたことを、お詫びしたいと思うからである。」(p.134)
工藤幸雄と横山陽子の文章を比較して考えてみると、信書開封・英訳という知識人にしか出来ない精神的犯罪性行為を全く恥じない人と恥じて恥じて口を開かずに死ねなかった人とがこの事実を自ら語ったと言うことになる。2万余人の99.9パーセントの人達は、恥じるが故に死ぬまで口を閉ざしていたと言うことであろう。と同時に知的世界から口を開かねばならぬとの圧力や要請がそれほど強く存在しなかったのであろう。同門同業への武士の情けか。
私=岩田は、信書開封・英訳とその実行者の沈黙、そしてかかる精神性犯罪行為の社会科学的解明の不足と社会思想的究明の不在を戦後日本知識人の原罪ではないかと思う。諸他の社会集団・社会階層の不始末を事実に忠実にきびしく追及しながら、自分達の同業同門の犯した精神性犯罪行為に関しては、江藤や山本武利の研究しか存在しない。不思議だ。例えば、丸山眞男の日本思想論の主要素材となり、主要主題となっていて当然の事件だ。そうなっていない所に戦後知識人の原罪がある。
令和2年秋に始まった日本国政府の日本学術会議人文社会科学系学者に対する雷撃は、人文社会インテリゲンチャならば当然かかえているはずの原罪意識の希薄ないし不在を突いて来たのではないか。諸氏の先輩・先生達がアメリカ占領軍にはそれですませてきたのだから、諸氏もまた日本国政府の立派な御用学者になってくれてもよいのではないかね、と言う脅迫というより一種の誘惑であろう。
あえて記しておく。工藤幸雄多摩美術大学教授は、1980年8月に勃発したポーランド労働者階級の大ストライキを支援するために、「ポーランド資料センター」の共同設立者となり、1981年から1991年まで『ポーランド月報』を発行しつづけた。
ポーランド労働者の自主管理労働組合「連帯」を要とする反体制運動がポーランドのスターリン主義系社会主義を打倒し、運動内のネオリベラリズム派知識人が政権を掌握し、ネオリベラリズム指向の経済社会改革、いわゆる「ショック療法」によって、「連帯」運動の主力であった重化学工業労働者階級がぞくぞくと解雇・失職・失住し始めた丁度その時、「ポーランド資料センター」と『ポーランド月報』は、何故か、その使命を果たしたと活動終了を宣言した。若かりし工藤幸雄が働いたCCDの検閲目的である「反軍国主義と反共産主義」に矛盾しない。米軍の信書検閲には協力するが、ヤルゼルスキ将軍の統一労働者党ポーランド政府のそれには断固抗議すると言う訳だ。
日本インテレクチュアルは、原罪を忘却の闇から想い起し、日本常民に心から思想的に謝罪し、日本常民の岩盤に立脚しつつ、御用学者への誘惑をはねつけるであろう。「底津岩根に宮柱太しり」である。
最後に、私=岩田の念頭に浮かぶ「御用学者」像を述べておく。
政治は必ず弁護論と批判論を必要とする。国策の枠組みをなす社会思想と根拠をなす事実認識とに関して、自己の能動的精神活動が両者を共有するに至る者は、弁護論者であって、恥ずることはない。
自己の積極的精神活動が両者を、あるいはいずれかを共有できなくなった者は、批判論者となって、恐れることはない。
そして、自己の精神活動を国策の範囲にとどめ、作文にいそしむだけの者は、御用学者と言われ、健康な政権からはうとまれるが、病的な政府から頼りにされる。
令和2年11月14日(土)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10291:201117〕
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