読んじゃらんない書類
- 2020年 11月 22日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
知り合いからのメールにMIT Technology Reviewに掲載された記事だ、見てみろとurlが書いてあった。
https://docs.google.com/document/d/1fB5pysccOHvxphpTmCG_TGdytavMmc1cUumn8m0pwzo/edit
何をいってきたのかとurlをコピペして検索したら、「FAQs on Protecting Yourself from COVID-19 Aerosol Transmission」がでてきた。
MIT出の画像処理のアルゴリズム屋で優秀な技術屋だが、黒人だから要らぬ苦労もしてきているのだろう、丁寧すぎる言葉の節々に感じるものがある。同じ画像処理でメシを喰っていたこともあって畏敬の念がある。メールをもらって返事をしないわけにもいかないが、返信するとなると、コメントの一つや二つ付けなければならない。
FAQまでつけた大げさな書類、何をいまさらと思いながら目を通していった。辞書を引きながら読んでいって疲れた。なんでこんなに長いんだとページ数をみたら、五十七ページもある。Brookings InstitutionやNew York Timesの特集で三〇ページを超えるものもあるが、ニュースの類はだいたい四ページ程度、長くても七、八ページまでで、なかには二ページにも満たないそっけないものもある。十ページをちょっと超えたぐらいまでなら、しっかり読んでいってもたいした負担にはならないが、二十ページを超えるとつらくなる。
MIT Technical Reviewは初めてじゃないから驚きゃしないが、読まなきゃならないところなどあるとも思えない五十七ページ。一〇ページを超えたあたりからは、はっきりしない単語がでてきても調べもせずに読み飛ばしていった。一応目は通した。義理は果たしたが、そもそもこんな長ったらしいもの、いったい誰が読むんだ? 誰に読んでもらいたいと思って書いたのかと考えだして、だんだん腹がたってきた。
偉い学者さんが集まって、政治屋や単純な人たちから上げ足を取られるようなことのないように細心の注意をはらってまとめたものだろうが、専門でもなければきちんとした人でもこんな大層なもの読みやしない。
読み終わる前に、知り合いへのコメントは決まってしまった。
「誰に読んでもろうと思って書いたものなのか?こんな長ったらしいレポート、読むのに苦労するのはオレだけじゃないだろう。かなりの数のアメリカ人だって読みやしないだろうし、ましてやあちこちで騒いでいる対策を無視というのか馬鹿にしているトランプ支持者が読むとは思えない。なかには読まなきゃと思っても、読めない人たちもいるんじゃないか」
「学術的にきちんと整理するのはいいが、そんなことに時間と労力をかけるより、どうやって自分たちが考えている対策を一般大衆に伝えられるのかを考えた方がいいって、言ってやってくれ」
「コロナウィルスの感染拡大が続いているなかで、専門家連中が先々もし責任云々を言われたときに、きちんとFQAまで用意して対策を公知してるじゃないですかという保身のために書いたもんじゃないのか。誰のためでもない、自分たちのためのもので、読んでもらおうなんて気持ち端からないんじゃないかの?」
日本でも似たようなものだと思うが、アメリカの会社でそこそこの立場になると、あっちこっちの顔を立てながらも、自分と自分の部隊の都合を正当化すべく政治的なExecutive reportをださなければならないことがある。
エライさんになると、毎日決断してサインしなければならないことに追いまくられる。かなりことでも流していくしかない。熟慮に熟慮を重ねてなんて、よほどのことでもなければしようもない。きちんとしなければと思っても、する時間がない。
忙しいエライさん、そこらのマネージャが書いてきたものなど、一瞥でなにを言ってきたのかはっきりしてなきゃ、読みやしない。サインをしてもらえなければ仕事にならないから、なんとしてもするっと読んで、はいサインという書類をつくる術を身につけなければならない。このするっと読めるがExecutive reportの絶対必要条件で、要の得ないExecutive reportは自分と自分の部下の将来を暗いものにする。下手すりゃレイオフが待っている。
サインは、これでよしと息を止めて手で書かなければならないが、日本にはハンコという便利なものがある。ハンコは、誰が押してもわかりゃしないという表にはだせない気持ちの抜け道があって、すぐそこには「めくら判」がある。忙しさにかまけてなんてのは体いい言い訳で、書類を持ってきたヤツの話を聞いて、中身を見ることもなくポンとハンコを押して一件落着が仕事のエライさんもいる。
そうなると読むに読めない、しばしどうにでも読める、ときには読み手を煙にまくことを目的とした上申書まででてくる。なかには御前会議の議事録を整理しただけの書類(どこでどう間違ったのか、それを稟議書と呼んでいる)の承認依頼なんてものまである。先達から後進へと引き継がれる組織の文化を体現した書類にハンコと記録の残らない口頭説明で、何かの時には、どこかで詰め腹切らせて組織防衛。見た目の意思決定の生産性は高いが、誰が何をどう決めたのかはっきりしないなんてことが、なんの疑問もなく繰り返される。なんどか仕事で目にして、そんなことをいったいいつまでやってんだろうと呆れたことがある。アメリカの会社でレイオフ覚悟の仕事をしてきた者の目には異様としかいいようがない。
忙しい人に手間をかけずに分かってもらわなきゃという書類もあれば、読まれることを、知られることを前提としない書類もある。目にするのは書類だが、その書類を生み出している文化には「息を止めての」サインと「めくら判の」ハンコの違いがあるような気がする。
2020/10/12
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10305:201122〕
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