リハビリ日記Ⅳ 39 40
- 2020年 12月 9日
- カルチャー
- 阿部浪子
39 平林たい子の『林芙美子』
黄色いチョウが低空をひらりひらり舞っている。晩秋の昼下がりだ。隣家の白いサザンカの花が、今年も咲いた。無垢な白い花びらにピンク色の花びらが混じっている。日を追って、ピンク色が全体に広がっていく。
クリエイトで、食パンとバターとジャムなどを買う。昨夕、ふと、作家の小坂多喜子の話を思いだしたのだった。〈百合子さんの家で、バターをぬった食パンにジャムをのせたのをごちそうになったわ。栄養がいいから、百合子さんの脚は太かった。顔もピンク色でした〉作家の宮本百合子のことだ。貧しいプロレタリア作家たちのなかで、とりわけ百合子は恵まれていたのである。
レジにならぶ列の背後から、わたしを呼ぶ声がした。見れば西隣のりえこさん。いっしょに帰ろう。きょうは気圧のせいか、患足の具合がわるい。しかし、りえこさんは先に帰っていった。
背中にかばんをしょって、両手につえと布袋。とぼとぼと歩いていく。と、前方から猛スピードの自転車が近づいてくる。あっ!りえこさんの真剣な表情に、わたしはハッとした。愛猫のくろちゃんを家において、すぐに引きかえしてきた、というのだ。そうなのか。胸がじーんと熱くなる。他人のために一生懸命になる。なかなかできないことではないか。わが背中がぐんとかるくなった。しみじみ、うれしい1日だった。
11月中旬。拙文「辺見庸Ⅴ―わたしの気になる人⑮」が、ネットのサイト、ちきゅう座から配信された。辺見さんが1991年に芥川賞を受賞した小説にかんする、わが作品論だ。テキストは新風舎文庫の『自動起床装置』である。興味のあるかたは、どうぞ読んでみてください。
『自動起床装置』を読みおえて、わたしは、S病院に入院していたときのことを思いだした。病室は女4人。小説にあるとおり、人は睡眠中の自分のことはいっさいわからない。しかも、寝姿は人さまざまなのだ。しかし、患者のなりたさんは同室者の寝姿を非難するのだった。うるさいと。女の暴力には心がふるえた。
朝7時30分になると、2人の療法士が当日の授業時間を知らせにくる。理学療法士、T先生のあったかい声とおおきな目に接して、わたしはほっとする。〈昼飯がたのしみですね。きょうは何だろう〉S病院の食事は、わくわくするほど、おいしかった。
*
東京都養育院(老人ホーム)に作家の八木秋子をたずねた。何回も会っていると、秋子は〈あんたに門外不出の話をしましょ〉と、にこにこする。「女人藝術」の仕事で、九州方面へ作家の林芙美子とともに旅をした。夜の宿屋で、芙美子がいきなり接吻してきたというのだ。わたしは、この話を「信濃毎日新聞」に書いた。その後ずっと、芙美子のとっぴで、常識しらずの行為を不可解に思ってきたのだった。
秋子はそのとき、こうも回想した。〈林さんの接吻は、口臭がひどかった〉〈いまごろ旦那がさびしくて首をつってるかもしれないっていうの〉〈ともかく、林さんはつかまえどころのない人でしたね〉と。
作家の平林たい子に『林芙美子』(新潮社)がある。芙美子が「いかに生き、貧乏し、恋をし、文学を制作したか」を書いた伝記だ。芙美子の生い立ちから作家として活躍するまでの道程が追跡される。たい子にとって芙美子は、わかいころ苦労をともにした間柄だ。どうしても書きたかった、宿願の伝記にちがいない。
たい子は本書のなかに書く。幼少時代の芙美子は、テキ屋の義父と自由奔放な母ととも
に関西・四国・九州の、木賃宿から木賃宿をわたりあるく。貧乏だった。故郷はないにひとしく、その間に芙美子の人格は形成され、社会的アウトサイダーの意識も育ったと、たい子は推察する。しつけも世間体も礼儀作法も貞操の教えもない。「普通の女性とは異邦人ほどちがう習慣や、考え方や、暮らしぶり」が身についたのだとも。だから「他人の違和感を催す行動も多かった」という。
さらにたい子は、芙美子の才能はそんな放浪生活のなかで磨かれた、というのである。
秋子は芙美子より8歳、年長だ。アナーキストで、男っぽかったかもしれない。芙美子は、秋子の情がほしくてたまらず、衝動的に接吻したのだろうか。わからない。ただ、『林芙美子』読了後、わが脳裏には、芙美子のうれしがる顔と、秋子のアッ気にとられた顔が想いうかぶのだった。
40 たい子の芙美子伝
今年もまた烈風の季節がやってきた。今後3か月間を思うと、からだが縮こまる。
友人のあつこさんが自転車で、文庫本2冊をとどけてくれた。辺見庸さんの『自分自身への審問』(角川文庫)と『青い花』(岩波現代文庫)。1584円。あつこさんは、浜松駅ビル内の谷島屋まで行ってくれたのだ。自家製の、ホウレンソウ・ミカン・ウメぼしもいただく。ウメぼしは夫のたくひでさんの手作りだと知って、感動もひとしおだった。
社民党党首で議員の福島瑞穂は、知っているだろうか。11月16日早朝、東京渋谷区内のバス停で起きた事件を。屋根つきのバス停のベンチで深夜から早朝まで休んでいた、64歳の路上生活者が、46歳の男にとつぜんなぐり殺されたという。女性の所持金は8円。悲惨だ。貧窮は自己責任ではない。彼女は派遣会社の社員だったが、今春から失業。半年間、どんなに苦しい思いですごしていたろう。特別定額給付金はうけとったのか。
社民党は、社会民主主義をかかげる唯一の政党だという。ならば福島は、路頭にまよう貧者・弱者によりそう誠意をもっているはず。貧者・弱者をすくうのは政治の責任だ。
女の社会的・職業的地位は、いまだ低い。女の自殺者が多くなっている。福島には、労働者・女性の現実を真剣に直視してほしい。
わたしがいつも思うのは、福島が服装にかまけていることだ。高価なスーツは高給とりだから着用できるもの。一般女性の服装とはかけはなれている。福島は気づいているのか。
リハビリ教室に行く。柔道整復師、山田先生の指導で、定期の測定テストをうけた。歩行の速度と片足立ちの回数。先月より進歩はない。足がふらついた。
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平林たい子は、林芙美子には「他人の違和感を催す行動が多かった」と、『林芙美子』(新潮社)のなかに書いている。たしかに、八木秋子も作家の川上喜久子もその点を指摘した。
作家の宇野千代は、芙美子の「漢口一番乗り」の有頂天ぶりを猛批判する。戦時中、内閣情報部から派遣された従軍作家たちのなかで芙美子は、まっさきに漢口入城をはたした。
ただ、「女人像」同人の内田生枝が、戦後の食糧事情のとぼしいとき、〈芙美子の家で、生卵をかけたまっ白いご飯をごちそうになった〉と、感激していた。内田は小説家を志して芙美子の家を訪ねたのだった。
たい子はさらにいう。「芙美子さんが婦人作家に仕事を渡さないために、一人で小説をどしどし引受けて」いたようだと。自分は妨害されなかったが「若い作家には脅威であったろう」とも。芙美子は、自由奔放な母から独り立ちして、自身を理性的に育てることをしなかったのか。たい子の若い作家たちへの配慮のほうが、ふつうの感覚である。
たい子は芙美子伝を、友人で作家の円地文子の辛らつな言葉で結んでいる。「林さんは幸福な人ですね」「実際の人より小説の方がずっとよろしい」と。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0956:201209〕
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