ドイツ通信第143号 新型コロナ感染の中でドイツはどう変わるのか(12)
- 2020年 12月 15日
- 評論・紹介・意見
- T・K生
先週の水曜日、12月2日に定期的な中央政府と州の合同会議がもたれ、ロックダウンが1月10日まで延長されることが決定されました。ドイツの対コロナ・サラミ戦術です。コマ切れに先延ばしし、その行きつく先はと問いただせば、最後は手元には何も残らず、自らの手と指を切り落としていく以外には何もない姿が想像され、それを思えば背筋が寒くなります。
ドイツのコロナ感染は、そこまできています。ここで拡大を止めなければ、コロナの暴走が起きても何んら不思議でない状況を迎えました。
夏から秋にかけての全ドイツの一週間のPCR検査数は、約150万です(注)。それがテスト結果を調べる試験室のオーバーワークを招いていることは既報の通りですが、加えて感染経路がつかめないことにより、現在、検査数を減らす方向に議論は向かいつつあります。
問題は次のところにあります。検査数を減らしながら、しかし、ロックダウンの中で新規の感染者数が横這いから、ここ10日ほど前からは増加傾向を示し始めていることです。
この事実が語るのは、一つは、二回目の(部分)ロックダウンが何らの効果も奏しなかったという痛苦な現実です。それが、先週の決定の引き金になっていると判断できるのです。当初はロックダウンの様子を見て、クリスマス前に対策の再検討という合意がありましたが、そこまで時間が許してくれなかった――即ち引き延ばしが不可能になったことです。
RKI所長の口調を借りて表現すれば、〈コロナは時間も、場所も選ばない〉のです。
(注)通信163号に「15万件」との誤記がありました。「150万件」に訂正します。
ここに認められるもう一つの重要な点は、ドイツの中央―州のコロナ対策がそれを真摯に認めることなく、再びコマ切れのロックダウン引き延ばしに踏み込んだことです。市民が動揺し、無展望の中で不安、不信、怒りが日常生活の中に蓄積していきます。精神的にどこまで持ちこたえられるのか、また、現状を克服できる適切な対案が出されるのか、行き先は狭められてきています。
これをもう少し現実的に振り返れば、中央のコロナ対策本部が規制強化を主張しながら、各州の反発の中で妥協の産物として出されてきたこれまでの対策案は、結局は、言ってみればドイツの絨毯が各州の所々からコロナによって蝕まれ、今にもボロボロに引き裂かれていくような状況を迎えていると表現できるでしょうか。そこに、前途はありません。取り繕いは、最早、手遅れです。では、どうすべきか? 絨毯を取り換えるしかないでしょう。これが、私の個人的な意見です。
実は、この瀬戸際でのワクチン接種ということになります。メディアの表現を使えば、「武器」が手に入ったことになります。政治家からは、どこか楽観的な見解が聞かれるようになりました。この楽観性は、戦時中に窮境に陥った戦況を突破するために、「秘密兵器」の開発が進められ、そこに戦況打開の最後の展望がかけられた情況が連想させられます。
社会的な共通基盤が壊れ、他方で、しかも40%近くの市民は即時の接種へためらいを見せているというアンケート調査が出されていることから考えれば、さらにこれに10%近くの自覚的なワクチン接種反対グループが加われば、「武器」の効用も制限されてきます。
一言で、全人口の約50%の接種では、何も変わらないのです。これまでの社会関係への規制、公衆衛生規則は、引き続き堅持されなければならないことを意味します。最終的にそれをドイツ市民、そして世界の市民が、できるかどうかが、決定的であるように思われます。それが、いうなれば私たちの「武器」ということでしょう。
そこで緊急に出されてきている対案は、夜間の外出禁止令です。バーデン・ビュルテンブルク州(首相・緑の党)のマンハイムでは、12月4日から22日まで、午後9時から翌朝5時までの外出が禁止されました。伝わってくるところでは、大きな抵抗は聞かれず、高率の感染数に直面して、むしろ市民の大半が受け入れているようです。
これには別の面が隠されているように思います。規制強化の可能性へ向けた一つの〈狼煙〉であることです。一都市が夜間外出禁止に踏み込んで、他の反応を伺うという目的もあるように思われるのです。中央と州の不統一と対立、このジレンマを誰かが、どこかで突破しなければならないからです。事実、私たちのヘッセン州では、12月7日に州首相(CDU)が、先手を打つ形でこの点に言及していました。後は時間の問題です。
一般的な現状描写になりました。ここで私たちの日常に視線を戻し、以上の問題を具体的に考えてみます。
情報が飛び交い、錯綜しています。労働現場と規制の板挟みになり、議論する機会も限られてきているからでしょうか。ロックダウンに入ってから私たちの家には、連れ合いの同僚が何人も定期的に出入りしています。現状を話し、そして普通の日常生活を維持するために、多面的に情報を収集し、一つ一つ納得いくように議論する必要のあることを痛感するからでしょう。
「今年は、風邪の患者が少ないようだ」と不思議そうな同僚。しかし、「それはマスクをしているからだ」と連れ合いには一目瞭然のことですが、「こんなことが、医者でさえ理解できない」と愚痴をこぼします。新しい事象を理解しようとする思考回路が、どこかでブロックされているか、失くしているドイツの現状を指摘します。
ここで分かる―分からない、理解する―理解できないかが問題ではなく、それを議論することの重要性ということです。それによって相互に新しい認識が得られれば、私たちの〈武器〉が、また一つ増えたことになります。
これを別の社会的な観点から見てみます。
墓地の散策が、11月のロックダウン以降のトレンドになっているといわれます。人間の社会関係が制限され、それによって行動の自由が狭められます。家を訪れる人数も少なくなり、人と話す機会が減り、どこで、誰と、何を話せばいいかが精神的に重要な意味を持ってきます。また、意見の違いもはっきりしてきます。討論に入れば収拾がつかず、人心の荒れていくのに気まずい思いをするだけです。ここで人は、内面の静謐を求めるのでしょう。人のいない静かな墓地を散策し、偶然見つけた著名な人たち、あるいは親族の墓石の前に立って会話を交わしているのだろうと想像します。墓石からは、誰も語りかけてくれません。しかし、会話を続けながら、コロナ禍のなかでの自分を発見しようとしているのだと、私は理解しています。
次に、クリスマス直前の産業の動向に目を向けてみます。
11月のロックダウンで被った営業損害への政府からの補償額は、前年同期売り上げの75%(注)という確認ですが、政府からの送金が滞り年末年始まで持ちこたえられるかどうか、経営者からは不安の声が聴かれます。
ロックダウンが年を越し1月、2月まで続けば、政府の財政がはたしてどこまで持ちこたえることができるのかが、巷で話し出されてきました。見通しのつかない状況を迎えたことを意味します。
(注)通信162号に「収益」との誤記がありました。「売上高」に訂正します。
産業界からの抵抗は、ドイツ経済は維持されなければならないという一点につきます。これは理解できるところです。
しかし他方で、年間売り上げの4分の1をクリスマス大売出しで実現してきたというデパートでは、今年は買い物客の足が遠のいているという報告が出されています。さらに、感染の危険性も指摘されています。
ここに三つの要素が指摘されるでしょう。
1.強化されたロックダウンに入れば、経済は停止して、経済が崩壊する。
2.部分ロックアウトでは、感染数が低下することがなく、逆に上昇傾向を示している。
3.損害補償への財政負担が、持ちこたえられない。
〈経済性=有益性〉と〈人間の生命〉と〈国家財政〉が、秤にかけられている現実が見えてきます。ジレンマという意味は、それらをどう救うことができるのかという点での動揺にあると思われます。
VW(フォルクスワーゲン)、メルセデス、また他の車両製造工場で仕事をしている何人かの友人に、現場の状況を聞いてみました。
「大丈夫か?」という私の質問に例外なく返ってきた回答は、三交代制を導入することによって職場の作業員数を減らし、加えて作業員相互の十分な間隔を取っているというものでした。作業中は、マスク着用も義務付けられているといいます。
「三交代制で体調に変化はないか?」とさらに聞けば、「ない。安心して仕事ができる」と答え、夜間勤務を含む三交代制には手当てがつきますから、「収入面でのメリットがある」といって笑っていました。
では、どこが感染場所になっているのか。現在、メディアで公に伝えられてくるところを整理すると、
1.難民キャンプ
2.精肉工場
3.学校
4.老人ホーム、介護センター
が、私の知りうる主なところです。しかし、4.に関しては明解な報道はなく、暗喩するような表現が気になります。私たちが当該家族、友人、関係者から入手している施設の情報と、あまりにもかけ離れているからです。なぜ事実を事実として報道して、社会全体での解決策を立てられないのかというのが、大きな疑問として残ります。報道統制ではないでしょうが、情報管理に近い不吉な感触がしてなりません。同じことは、3.の学校についてもいえます。情報の歯切れが悪いです。
そこで考えられるのは、難民キャンプと精肉工場は植民地主義的な無残で、過酷な生活・労働条件での外国人の感染が特徴です。他方、学校と老人ホーム・介護センターは、世界に誇るドイツの教育・保健制度でのドイツ人の感染ですから、ここが崩壊すれば間違いなく社会の蝶番が外れてしまい、政治の社会統制が効かなくなります。それを避けるための情報操作では、と勘ぐってしまいます。あながち的外れではないと思うのですが。タブー化されて「聖域化」されているのです。
だから1.と2.のセンセーショナルな報道と、即座のキャンプ、工場の閉鎖、外出禁止が可能になり、しかし3.と4.に関しては、周りの反応を伺いながら二の足を踏んでしまうのです。
こうして政府反対運動が、外国人(労働者)とエリートに向けられることになります。この時、運動理論に合理性、正当性があるかどうかなどはどうでもよく、反政府を煽り民族・人種主義的であればあるほど「過激化」していくことになります。
シュトゥットガルトで始まった〈反コロナ規制〉運動は、この間週末になれば各都市で数千、数万人規模で定期的に取り組まれてきました。その頂点は、11月7日(土)のライプツィッヒです。1万6千人の集会とデモ申請が上級行政裁判所から許可され、当日は2万人以上が結集してきたといわれます。他の報道では2万2千人とも報道され、さらに、ライプツィッヒ大学の調査グループの集計では4万5千人と発表され、運動に衰えを見せないばかりか、コロナ感染第2波の中で今後の動向に政治不安と危険性が覆いかぶさってきます。
当日、圧倒された警備部隊は通りと広場を埋め尽くす集会参加者の数を前に、また警備当局の適切な方針が出されない中で、どう対応していいかわからず狼狽する姿が映像に映し出されていました。
この運動に新しい兆候が見られます。
11月14日カールスルーエの集会場。11歳の少女が演壇に立ち、(コロナ規制により―筆者注)自分の誕生日を友達と一緒に祝えなかった悲しみを、ナチの追跡を逃れ、身を隠し、後にKZ(強制収容所)で虐殺されたアンネ・フランクの生涯になぞらえる発言をします。
11月21日ハノーバーの集会場。カッセル出身と自称する20歳代と思える女性が演壇に立ち、自分の抵抗運動を「白ばら」運動でナチに虐殺されたソフィー・ショルと比較しています。
数か月前から抗議行動に取り組み、訴えをして、デモに行ってビラを配り、そして集会を申請していれば、「ソフィー・ショルのような気持ちになる」と発言します。
両者に共通しているのは、ナチ支配―ホロコーストの歴史と闘うのではなく、ナチによる犠牲者―ユダヤ人とナチ抵抗者を〈反コロナ規制〉運動参加者と同列に置き、それによって犠牲者を嘲弄し、ホロコーストの歴史を相対化していることです。それがしかも、10-20歳代の若い世代から発せられていることを知れば、コロナ感染との闘争の中で反ユダヤ主義、差別・選別、ナショナリズム、人種主義に対する、特に子供、青少年への歴史的な政治教育の必要なことが明らかになってきます。〈コロナ感染と学校教育〉の重要なテーマに据えられなければならないでしょう。オンライン授業だけが、現在の教育問題ではないように思います。
以下は、12月8日付の日刊新聞(注)からの現在ドイツのコロナ感染状況を示すグラフィックです。
(注)Frankfurter Rundschau Dienstag. 8. Dezember 2020
この間、気になっていたことがあります。東ドイツでは、夏まで極めて感染者数が低率で移動していました。しかし、秋口から突然、感染爆発が引き起こされ、特にチェコと国境を接するザクセン州東及び東南地域で、グラフィックにみられるような青黒い色でマークされているところは、住民10万人当たりの感染者数が300人を超える町々となります。現状は400-500人以上のところが増えてきています。
当初は、夏休みの観光シーズンで旅行者移動によるものかなと何気なく考えていましたが、腑に落ちません。
何回も何回も記されている町々の名前を繰り返しているうちに、ドイツ連邦議会選挙、州議会選挙においてメディアで頻繁に取り上げられていた町名であることに気付きました。AfDが20%、30%以上の得票率を獲得し、第一党になっている選挙区もあります。
そのAfDは、〈反コロナ規制〉反対運動を自派の重要な社会的な大衆基盤として取り組むことを政治目的に掲げています。組織戦略の要に位置している運動です。
そこでの感染爆発ですから、これはあくまで私の個人的な推測の域を出ませんが、AfD及び〈反コロナ規制〉運動と全く無関係とはいえないように思うのですが。
きわめて危険な政治的発言でしょうが、言われるべきことは言わなければならないように考えています。
若い二人の女性がコロナ規制について語るのなら、第一にこの〈反コロナ規制〉運動が有する反ユダヤ主義、民族主義、極右・ナチ主義を批判し、それと闘うことによってナチ支配―ホロコーストの歴史の意味を学べるはずです。
9月から11月にかけてパリ(9月25日、10月17日)、ニース(10月29日)そしてウイーン(11月2日)と立て続けに連続したISメンバー(同調者)によるユダヤ人に対するテロが引き起こされました。10月17日には、授業で週刊カリカチュア新聞「シャルリー・エブド」(Charlie Hebdo)の〈表現の自由〉を擁護した先生が、家に向かう途中でテロ襲撃に会い、斬首されています。
昨年10 月9日、ユダヤ教の最も重要な祭日(贖罪の日―Jom Kippur)が祝われていたハレのシナゴーグが極右主義者によって襲撃され、それからちょうど1年後のユダヤ人を目標にしたテロ・殺人襲撃です。
9月2日には、2015年1月7日「シャルリー・エブド」新聞本社テロ襲撃事件の公判が始まっています。それに合わせた反ユダヤ主義の活動であることは明らかです。
状況は、そこまで来ています。
下の写真は、11月の初めにそんな緊迫する状況に思いをはせながら、埃と排気ガスで汚された「つまずきの石」を清掃し、磨いてきた時の写真です。この時期になると年に一度の手入れ作業が取り組まれていて、これが私たちの歴史と現在への対話作業といっていいかと思います。歴史を忘れないで、継承するための重要な活動だと自認しています。腰をかがめて周辺を綺麗にしていると、近くにある幼稚園の先生が、「子どもたちが、歴史を考えるいいきっかけになります」と話しかけてこられました。
コロナ禍の中で子ども、青少年への教育面からのアピールとサポートの必要性は、強調されてもしすぎることはないように考えます。
コロナ感染との闘争とは何か? (つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10368:201215〕
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