生命の根源としての血の流れ
- 2020年 12月 15日
- 評論・紹介・意見
- 戦争画月岡芳年髭郁彦
11月18日から来年の1月24日まで、さいたま市のうらわ美術館で「芳年―激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」という展覧会が開催されている。詩人の野口米次郎が『六大浮世絵師』の中で「最後の浮世絵師」と呼んだ月岡芳年。江戸川乱歩が「残虐への郷愁」と、三島由紀夫が「飽くなき血の嗜慾」と述べ、彼の描いた血みどろ絵を偏愛したことはよく知られている。また、永井荷風が「明治に於ける江戸浮世絵最終の悌なり」と語り、称賛した美人画を描いた芳年。彼の作品を見るために私はこの展覧会に向かったのだが、芳年の作品全てに強く惹かれた訳ではなかった。私が見つめたいと思ったものは、戦争絵を描いた画家としての彼の作品であった。
私は二年前に「藤田嗣治あるいは戦争画の巨匠」という拙論を書いた。その中で藤田の 「アッツ島玉砕」(1943:以後、作品の後に書かれた数字は制作年である)、「血戦ガダルカナル」(1944)、「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945) といった戦争画には芳年の血みどろ絵や戦争絵の影響が少なからず存在しているのではないかという仮説を提示したが、この仮説をもっと厳密に、多角的視点から見つめていく必要性を感じていた。今回の展覧会はこの検討を行うために絶好の機会を与えてくれると思われたのである。
それゆえ、ここで検討する問題は芳年の作品のみに焦点を当てたものでも、芳年の浮世絵全体を対象とするものでもない。日本の戦争画を俯瞰した場合の芳年の作品の位置というものの考察と、芳年の錦絵と藤田の後期戦争画と呼び得る作品とを比較することにあるのである。
戦争絵
戦争絵は戦争画の一種であるが、戊辰戦争から日清戦争までの時期、錦絵によって描かれた戦争画である。芳年の作品には上野戦争に参戦した彰義隊の武士たちや西南戦争錦絵での西郷軍と明治政府軍兵士の戦いを描いた戦争絵が多数ある。それ以前にも、彼は前近代の合戦の様子を描いた歴史画を描いているが、それは近代戦が展開する戦場の風景を描写したものではない。銃弾が飛び交い、大砲の轟音が鳴り響く戦場を、彼が描いたのは上野戦争の錦絵制作以降である。
芳年の戦争絵の構図は大きく二つに区分できるように私には思われる。一つは一人あるいは複数の軍人達が肖像画的に静態的に配置されたものであり、もう一つは兵士達が戦場で戦う姿が動態的に捉えられているものである。第一のものとしては、「大日本弁理大臣支那北京ニ於台湾事件議決之図」(1874)、「鹿児島暴徒肖像略伝」(1877)、「西郷隆盛幽霊冥奉書」(1878) などの作品が挙げられ、第二のものとして「台湾新聞:牡丹征伐石門進撃」(1874)、「鹿児嶌紀聞之内:副将村田討死之図」(1877)、「薩州鹿児島征伐記之内:賊徒之女隊勇戦之図」(1877) などの作品が挙げられる。こうした絵に見られる芳年の典型的な戦争絵のスタイルを概観し、その後の戦争画と比較すると、彼の用いたスタイルは芳年のみのスタイルとして終わったのものではなく、構図やテーマという観点で、その後の戦争画のスタイルにも継承されていったことに気づかされる。
第一のスタイルは、例えば、宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」(1942)、小磯良平の「カリジャティ会見図」(1942) 、安田靫彦「山本五十六元帥像」(1944) といった作品に継承された構図であることが理解できる。また、第二のスタイルは上述した藤田嗣治の作品のほかに、中村研一の「コタ・バル」(1942)、佐藤敬の「ニューギニア戦線:密林の死闘」(1943)、向井潤吉「水上部隊ミートキーナ奮戦」(1945) といった作品の中に影響関係を見ることができる。ダイナミズムが弱く、椅子に座り会談する両軍の兵士の構図、一人画面の中央に立つ指揮官の構図、あるいは、激しく動的に戦闘を繰り広げている構図は、旧日本軍が画家達に依頼した作戦記録画にも確かに受け継がれているものである。
作戦記録画のプロパガンダ性を考えた場合、芳年の錦絵にそうしたイデオロギー的側面がなかったことは疑い得ない事実であるが、ある歴史的な出来事をどのように提示するかという描き方に関しては、多くの影響があることが理解できる。肖像画の描写方法、停戦後の国際会議における代表者の配置、あるいは、躍動感が溢れ、見手を驚かせる構図といったものは芳年の錦絵の中にすでに存在していたものであり、その描き方を作戦記録画として戦争画を描いた画家達は発展的に受け継いでいる。特に芳年風の画面上のダイナミズム、それは元々芳年の師匠である歌川国芳の武者絵などに見られるダイナミズムであり、それを芳年が継承し、より力強さと、激しさを加えた描写方法である。こうした発展方向を見つめていくと、江戸後期の錦絵から、近代以降の戦争画が少なからず影響を受けたことがはっきりと了解できるが、この点に関するより詳しい考察を行う前に、次のセクションでは、芳年の絵画制作と深く関係する錦絵から発展した錦絵新聞という問題について検討していきたい。
錦絵新聞
江戸時代のかわら版から近代の情報装置である新聞への移行期、日本には錦絵新聞という情報メディアが存在していた。美術史家の木下直之と社会学者の吉見俊哉が編者である『ニュースの誕生:かわら版と新聞錦絵の情報世界』(以後、サブタイトルは省略する) の中に掲載されている「錦絵新聞とは何か」の中で歴史社会学者の土屋礼子は、「錦絵新聞とは、明治七年から十年頃まで多数発行された木版の多色刷り版画で、「新聞」すなわち、新しく聞き知った出来事=ニュースを伝える文章と、「錦絵」と呼ばれた浮世絵版画が合体した出版物である」と述べている。
この指摘にあるように情報メディアとしてのかわら版に代わり、新聞の大衆化を準備する時期に登場したものが錦絵新聞と位置付けることができるが、『ニュースの誕生』に掲載されている「ニュースという物語」の中で社会学者の佐藤健二は、「(…) 基本的には新聞は文字中心の単色メディアであった。それに対し、新聞が開いた情報世界の断片を引用しつつ、錦絵による多色刷という複製技術を駆使してつくられた新聞錦絵の色合いは、それ自体が新しいインパクトではなかったか」という考えを提示している。だが、この考えは事実を逆転して提示している主張ではないだろうか。インパクトのある錦絵があって、それにニュースが付随したのであって、その逆ではない。錦絵新聞が誕生した時代に、庶民が求めていたものはスキャンダルやゴシップであって、真面目なニュースではない。それは新聞の語るテーマではなく、かわら版の語るテーマである。それゆえ社会的に価値のある情報の一部分を切り取り、それを絵画化して庶民に示したものが錦絵新聞なのではなく、身近にある卑近な問題と錦絵とが組み合わされたものが錦絵新聞と述べ得るのである。
しかしながら、卑俗性があったからこそ、庶民は錦絵新聞を手に取り、買い求めた。この卑俗な語りがなかったならば、日本において新聞というメディアは発展しなかった。倫理的な良識のない猥雑な話題性と低級な教訓。それを彩る派手な色。更には絵の印象を倍加するために用いられた赤。佐藤は「新聞錦絵の新染料の赤によって強調された強い枠取りは、内容として伝えられた血なまぐさい事件の「血」の赤と共鳴しながら、その色自体がひとつのメッセージであった」と断言しているが、こうした錦絵新聞を率先して描いた画家が国芳門下の落合芳幾と芳年であった。血みどろ絵から錦絵新聞への展開は、情報産業の発達に即したものであり、写真によるリアリティーの探究が確立する前の時代、芳年の絵は兄弟子の芳幾の錦絵と共に高い需要があったのである。
血みどろ絵と戦争絵
拙論「藤田嗣治あるいは戦争画の巨匠」の中では、藤田の「アッツ島玉砕」、「血戦ガダルカナル」、「サイパン島同胞臣節を全うす」といった戦争画が血みどろ絵の系譜を引き継いでいるという論述を行ったが、その論旨には脆弱なものが少なからず存在していた。それゆえ、このセクションでは、この脆弱さを補強するための分析を行いたいと思う、
最初に、上記した藤田の後期戦争画と呼び得る作品群の特徴について再度検討する必要性があるだろう。これらの作品の特徴については、先ず、画面の光度の極端な暗さを挙げるべきだろう。次に、兵士たちが敵味入り乱れて激闘を繰り広げるシーンや、追い詰められた民衆の死の前に取る様々な行動を一つの画面に配置した作品には、動的な群像図を見ることができる。この二大特徴は芳年の錦絵と以下のような三つの共通点がある。最初のものは芳年の戦争絵に見られるような激しい動きを示す人物たちが画面全体に描写されている点である (1)。第二のものは銃剣や刀が頭上高く振りかざされ、あるいは、それらの武具を敵の体に真っすぐに突き刺さす光景が描写されている点である (2)。最後のものは多数の兵士や戦争に巻き込まれた一般市民がまさに今死に、死のうとしている瞬間が捉えられている点である (3)。
以上の共通点は芳年の錦絵から藤田が受け継いだ戦争画描写のための中核的要素であり、こうした要素は藤田の戦争画の典型的描写方法となっていき、他の戦争画家達にも強く影響を及ぼした戦争画の主要スタイルの一つとなったものである。だが、芳年の血みどろ絵と西南戦争などを描いた彼の戦争絵には大きな違いがある。それは以下の三点であるように思われる。第一のものとして、前者の作品では画面に描かれた人物は一人か二人であるものが主流であるのに対して後者では多数の人物が描かれている場合が極めて多いという点が挙げられる。第二のものとしては前者の登場人物の表情がデフォルメされ、強調されているのに対して、後者は登場人物が多く一人一人の表情は捉え辛い点が挙げられる。第三のものとしては、前者には真っ赤に流れる血が描かれているが、後者には流れ出る血は描かれていないという特徴がある。
こうした差異において特に注目すべき点は、美術史家の菅原真弓が『月岡芳年:幕末明治のはざま』の中で、「芳年の血みどろ絵の代表作「魁題百撰相」は、血が流れない血みどろ絵なのである」と指摘している点である。だが、この指摘は「魁題百撰相」に対してのみ語り得るのではなく、芳年の多くの戦争絵についても語り得るという点も付け加えなければならない。ここではこの点の重要性を強調するだけに止め、この問題に対する詳細な検討は次のセクションで行うこととする。
芳年の戦争絵と藤田の戦争画
前のセクションで提示した芳年の血みどろ絵及び戦争絵と藤田の戦争画との三つの共通部分のより詳しい分析を行おう。(1) の特色としては以下のようなことが考察できる。鎧を付けた馬上の武士といった人物像は近代戦では消え去っていったが、兵士たちが入り乱れて戦う構図は確かに近代戦を描いた戦争画においても継承されている。(2) の特色は芳年が国芳の武者絵などか受け継いだ特色であり、近代戦であっても日本軍の歩兵が持つ刀や銃剣は存在し、そうした武器の動きの描写は武者絵や戦争絵などから継承されたものである。(3) の特色は戦争をテーマとした絵画の根源的なドラマツルギーとして捉え得るものであると考えられる。
こうして検討した点の中で、戦争画の歴史的展開を考える上で浮かび上がってくるキーワードは、先程引用した菅原の指摘の中にあった「血が流れない血みどろ絵」という言葉であるように思われる。何故なら、戦争、死、血といったイメージ的な連続性だけではなく、そこには血を示すことなく血の流れを示すというパラダイムチェンジの問題が横たわっているように思われるからである。それゆえ、この問題を中心として、芳年の錦絵から受け継いだ藤田の後期戦争画の特色をより厳密に分析していきたい。
上述した藤田の戦争画にも赤い血の流れは見られない。だが、その画面は暗く、芳年の「魁題百撰相」シリーズの血みどろ絵や戦争絵のような光度の強い画面上で血が流れていないという描写方法とは、まったく異なる方法が用いられている。この違いは最大限に注視すべき問題である。何故なら、光の下で肉弾戦のシーンが展開され、確実に血が流れているはずなのに、画面には血が流れていないという描き方と、暗さによって血が流れているシーンを見つめることができないという状況とでは、イメージ空間の構築が大きく異なるからである。藤田の戦争画において画面の光度が極端に奪われていることによって、作品の見手はイメージの中で、描かれた兵士や市民の体から血が溢れ出る見えざる血の光景を想像することが可能になるのである。
その血は血みどろ絵に描かれた生々しく、滴り落ちる真っ赤な血ではない。現実には見えないが想像の世界で流れる鮮やかな赤い血である。実際の絵の中に示されていない欠如としての血の流れは、作品の見手に何を喚起させるであろうか。イメージの血の流れは、戦場で死に行く人々の神聖さを呼び起こすものではないだろうか。藤田の初期戦争画や他の画家達が制作した作戦記録画にはなかったもの、それはこうした欠如によって神的な何かを喚起させる効果を持つ絵画作品制作方法であったのではなかっただろうか。この核心的な問題性については、次のセクションでより細かく考察を行いたいと思う。
藤田の戦争画の中の欠落と置き換え
ジャック・ラカンは『精神病(上)』(小出浩之ほか訳) の中で、エミール・バンヴェニストの主張を援用しながら、「(…) 相矛盾する二つの事を同時に示す語があるなどということは、シニフィアンの体系の中では考えられないということです。語が存在する場合には、語はかならず対立よりなる対によって形成され、それ自体の中で対の両端を一つにすることはできません。しかし、シニフィカションのことになれば、問題は別です」と述べ、ラテン語において「高い(altus)井戸」が「深い井戸」を表す例や、ドイツ語において「最後の審判」は「最も若い審判(jungstes Gericht)」を表す例などを提示している。記号体系内では形と意味とが一体化しているが、すなわち、ソシュールが主張しているように、シニフィアンとシニフィエが分かち難く結びついているが、具体的なコンテクストや状況内にある記号のシニフィアンにとっては、シニフィエが中心的な問題になるのではなく、記号内の意味を超えた意義と呼び得るシニフィカションが問題となるのである。このことは言語記号だけに関係するものではない。あらゆる記号について述べ得ることである。意味のレベルは一義的ではない。記号の使用されるコンテクストや状況が変われば、記号体系内で作動する意味が通常の意味を逸脱して、新たな意味を生み出すのだ。
ここで芳年の血みどろ絵及び戦争絵から藤田の戦争画が継承したものについてもう一度考えてみよう。上記した藤田の戦争画の三作品はいずれも血が流れていない血みどろ絵という芳年の血みどろ絵の系譜に連なるものであることはすでに指摘したが、この血が描かれていないことによる血の流れの喚起という問題は、われわれのイメージのパラディグマティックな展開の広大さを示しているのではないだろうか。ないことによってある何かを表すことは、ゼロ記号の持つ喚起力を表しているように私には思われる。だが、藤田の絵の持つ血の欠如はその殺戮場面にあるはずの血を見手に呼び起こすことで、何か別な何かをこれらの戦争画に付与しているのではないだろうか。
ジークムント・フロイトは『精神分析学入門』の中で夢の作業には凝集と移動と翻訳という三つの操作があると主張しているが、このフロイトが夢の作業として指摘した三つの働きは夢の作業としてのみ作動するものではない。記号操作によって形成されるあらゆる活動において作動するものである。凝集は欠落や省略や融合によって、移動は置き換えや比喩的働きによって、翻訳はテーマの映像化によって記号の働きを一般的な法則とは別方向の活動を導くことが可能である。
先程挙げたラカンの言葉に従えば、あるシニフィアンがあるシニフィエに固く結合しているのではなく、そのシニフィアンが結びつくはずだったシニフィエを超えて、シニフィカションに向かうのである。それはシニフィアンの深淵に潜む意味である。藤田の戦争画について言うならば、血が流れていない血みどろの図は、血が流れない血みどろの姿を表すゆえに、それは現実の出来事を超越するものとなる。芳年の血が流れていない戦争絵は藤田においては更に深いイメージの深海に沈潜し、血の流れを見せない暗い画面が神的な様相を帯びるものとなっているのではないだろうか。
このテクストを終える前に、ここで分析した藤田の戦争画を別の視点から考察してみたい。その視点はスラヴォイ・ジジェクが提唱した「斜めから見る」という方法である。ジジェクは『斜めから見る:大衆文化を通してラカン理論へ』(鈴木晶訳:以後副題は省略する) の中で、絵画において、正面からではなく別な角度から見た時に現れる像であるアナモルフォーシスの重要性に対する言及を行い、考察対象を別な角度から見ることで開示される潜在的な意味の大きさについて強調している。こうした別な角度からの検討によって考察対象を明確化する方法をここでも行ってみたい。
このテクストでは芳年の血みどろ絵及び戦争絵と藤田の後期戦争画との比較を行ったが、これだけでは見えてこない二人の絵画作品を更によりよく分析するための媒介項としてアイヌ文様というまったく異なる視覚芸術作品をここで導入したい。アイヌ文様については、11月29日にNHKの日曜美術館で放映された「アイヌ文様の秘密:カムイの里を行く」の中で、この文様が川の水の流れを表す形であるという仮説が述べられていたが、この仮説はアイヌの生活史を無視し、一般化し過ぎた主張のように私には思われた。自然の中の川の水の流れはアイヌの世界だけに存在するものではなく、どの民族の世界にも存在する。そのどこにでもある光景を記号化したものがアイヌ文様であるならば、それはあまりにも平板で厚みのない、生々しさの欠片もない記号がこの文様であるということになってしまう。だが、それでは番組でも紹介していた獲物となった動物を解体するために用いられるマキリの柄に何故文様が刻まれるかという理由が理解できない。アイヌ文様は狩の獲物から滴り落ち流れる血を表しているように私には思われる。その生々しさを記号化することによって昇華し、生命の源である血の流れを生活の用具に刻み込んでいるように思われるのだ。記号化することによって、ドロドロとした卑俗さは消え失せ、抽象化によって血の穢れは消去されながらも、アイヌの歴史と生活が刻印されたもの、それがアイヌ文様ではないだろうか。
このアイヌ文様とすでに分析した芳年の血みどろ絵及び戦争絵と藤田の後期戦争画との比較を行おう。芳年の血みどろ絵は真っ赤な血の流れを画面の中心に押し出すことによって見手に強烈なインパクトを与え、その視線を釘付けにさせた。だが、彼の戦争絵では血が流れない血みどろ絵を描くことで、血を流し死んで行く作中人物の悲劇性が色濃く反映される作品となっている。こうした効果を更に深化させた藤田は、彼の後期戦争画において、画面の光度を極度に暗くして、激烈な殺戮場面を描きながらも、戦闘によって死に行く人々の血の流れを見せないことで、画面の動きとは反対の生の血を排除し、欠落させることによって、作品の登場人物の行為の偉大さを強調し、そこに神聖な色合いを付加していった。もしも、藤田の絵がアイヌ文様のように完全に記号化したものであったならば、血生臭さは失われるが、それと共に神聖さも抽象化作用と共に消え去ってしまったのではないだろうか。ゼロ記号の持つ喚起力の強大さが驚くべき意味を生み出すことを藤田は知っていたのではないだろうか。
ジジェクは『斜めから見る』の中で、ラカンの「善」と「悪」に対するテーゼを「<善> の背後には根源的な <悪> があり、<善> とは「<悪> の別名」である。<悪> は特定の「病的な」位置をもたないのである」と解釈し、更に、「<物自体 das Ding> が淫らな形でわれわれに取り憑き、事物の通常の進行を乱す外傷的な異物として機能しているおかげで、われわれ自身を統一し、特定の現世的対象への「病的な」愛着から逃れることができるのである」主張している。このことは藤田の後期戦争画に対しても述べ得ることではないだろうか。芳年、藤田、アイヌ文様というまったく異なると思われた三つのカテゴリー(作品)を斜めから見つめることで、藤田の後期戦争画が求めた隠されたテーマが浮かび上がってくる。芳年、藤田、アイヌ文様という不連続であると思われる作品を、斜めから順番に見つめていくことによって見つけ出すことができる連続性が存在する。私はそう確信した。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10370:201215〕
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