国軍によるクーデタの愚挙
- 2021年 2月 3日
- 評論・紹介・意見
- ミャンマー野上俊明
<クーデタの帰結>
かつて軍政時代、非常識はこの国の常識と観念していましたが、国軍最高司令官みずから直前にクーデタを否定しておきながらクーデタを決行したのには、驚きあきれました。情勢の展開をみていると、アメリカのトランプ前大統領がしかけた不正選挙非難から議会への直接行動への一連の動きをなぞっているようにも見えます。11月にNLDの圧勝と国軍系USDPの惨敗に終わった総選挙(476議席中NLD396、国軍系USDP33議席)について、選挙管理委員会や内外の選挙監視団がおおむね公正に行われたとしていたにもかかわらず、国軍は不正投票が860万人分(有権者数3200万人)にのぼると非難し、政府に適切に対処するよう求めていました。このまま2月1日に新議会が開催されてしまえば、総選挙の結果を追認し確定することになるので、その直前に行動を起こしたのです。
今回のクーデタは、国軍自らが作成した2008年憲法の規定にも反するものです。それによれば、国家緊急非常事態宣言を発令する権限を有するのは、大統領のみです。大統領の宣言を受けて、はじめて軍民トップからなる「国防治安評議委員会」が開催され、そこでの決定で国軍総司令官への全権委譲が可能となるのです。国軍側は、「公正で自由な選挙を行い、そこで勝利した政党に政権を委譲する」としていますが、過去の茶番劇をまた繰り返すつもりでいます。国軍自身が20年近くかけて構築した2008年憲法の枠組みを自ら破壊するという愚を冒して、いったい国軍の臨時政府にどのような正当性の根拠があるというのでしょうか。またほんとうに確かな見通しをもって決行されたクーデタだったのでしょうか。
おそらく「国防治安評議委員会」は、今後「軍事評議会」的な執行機関に移行し軍政を敷いていくのでしょう。しかし軍政の将来見通しは、どう考えてもきわめて暗いものとならざるをえません。にもかかわらずあえてクーデタを決行したのは、このまま文民化が進めば、やがて現行憲法は改正されてシビリアン・コントロールが確立され、国軍は政治・経済・社会のあらゆる分野に張り巡らした権益ネットワークを失うかもしれないという危機感や焦燥感があったのでしょう。さらにはもし西側諸国からの制裁があったとしても、対中国包囲戦略の上からそれほど厳しいものにはなるまい。 西側からの援助や交易が縮小しても、中国・インドやアセアン諸国、日本・韓国との通商関係が維持されれば、やっていける、そう踏んだのでしょう。しかしそれはミャンマーの「カンボジア」化への道、つまり中国の衛星国、従属国となる道だとだれしもが危惧するところです。
軍政の持続可能性という点では、以前にもまして難題が多いことは明らかです。
① 経済改革=自由市場経済の確立の困難さ。産軍複合体制やネポティズムが深く根を張るなかでの自由化は、国軍とクローニー(政商)にとって自己破壊を意味します。近代化・自由化と国軍の権益保護は利益相反の関係にあり、経済改革はとん挫する運命にあります。
② 本格的な農工業の近代化には、国民の同意と協力、教育水準のレベルアップが必要です。権威主義の体質を一番強く持つ国軍が、近代化のイニシアチブをとるのは難しいでしょう。
③ 経済成長のカギを握るとされる外資導入の停滞は、電力などのインフラ未整備のためです。インフラ整備には膨大な資金が必要とされる以上、中国への依存を深めるしかなく、行き過ぎれば債務奴隷化の危険すら伴います。中国への従属は国民のプライドを傷つけ、アウンサン将軍の抵抗精神が呼び覚まされ、本格的な軍政打倒の闘いが始まるかもしれません。
④ 近代化の果実である冨の公平な分配を求める世論は、強まるでしょう。鎖国状態が解け※、国内外移動が活発化すれば、他国や他階級との比較が容易になり、貧困に甘んじる受動的精神は薄れていくでしょう。富の再分配システムとして社会保障制度を求める声は強まるでしょう。
※今はどうか知りませんが、軍政時代は日本の県に当たる州や管区を越えるごとに、関所よろしく厳しい身分証チェックが行われていました。
もうひとつの問題は、国際世論の監視があり外資導入の必要性からも、かつてのような残酷で全面的な抑圧体制はとりにくいことです。しかし国軍には開明的な統治をおこなった経験がないだけに、中途半端な施政は早晩破綻を見せる可能性が高いのです。
<スーチー政権と民主化>
スーチー女史が先導した国軍との融和政策の失敗は明らかです。自分の国際的名声を犠牲にして―ノーベル平和賞以外のほとんどの栄誉賞は、剥奪されました―国際舞台で国軍のロヒンギャ・ジェノサイドをかばって見せ恩を売ったにもかかわらず、見事裏切られました。ここではスーチー政権の施策全般ではなく、国民の民主化運動への組織化という観点からみたスーチー政権の負の遺産を手短に検証してみます。
普通選挙権を施行するすべての国についてもいえることですが、11月のミャンマーの総選挙でのNLDの圧勝は、たしかに民意を映し出してはいますが、しかし諸勢力相互の真の政治的力関係を反映するものではありません。市民社会が未成熟で諸個人が家族以外の社会的紐帯を持たない場合、つまり諸個人がアトム化されていて社会的連帯が形成されていなければ、票数は政治的力の指標には必ずしもならないのです――依然ミャンマーにおいてハードに組織された機関は40万人に上る国軍のみですし、文民官僚機構もその影響下にあります。したがって普通選挙権が施行されたとしても、それはルソーがイギリスの代議制民主主義を批判して述べた「投票日だけの自由」状態にあるのだといえます。票数を政治的力に変えるには、触媒が必要です。有権者の、政党をはじめとする各種中間団体への組織化がそれにあたります。個人が一私人のままでは力になりません。個人は各種の団体(非政治的,文化芸術的団体含め)に所属することにより、討議と決定に参加して自然のうちに政治的な訓練を受けます。広い意味での政治に参加することによって、個人の意志は陶冶され集団的な意志へ、個人の特殊的利害は一般的利害へと高まっていくでしょう。そういう意味でとりわけ重要なのは、英語のアソシエ―ションにあたる自発的な結社形成です。ところがミャンマー国民は植民地支配と軍部独裁の150年のあいだに、村落であれ都市であれ徹底的に自発的組織化の芽を摘まれ、権力や権威に容易に拝跪する受動的な精神を身に着けさせられました。アウンサン将軍が外国勢力(日本軍国主義!)に独立運動の援助の手を求めたことは、民衆のなかに埋め込まれた受動的な精神を克服することがいかに困難だったかを示しています(イギリスの弾圧機構もよく機能していた)。
2012年以降わずかに開いた民主化へのドアをいかにこじ開け,押し広げ全開にするのか、それはNLDの政治的・組織的戦略にかかっていました。半世紀に及ぶ軍政が蓄積した力に対抗するには、国民の精神的成長と政治的団結のための組織化が不可欠であるのですが、統治者になってからのスーチー女史は若者をはじめとした民主化勢力の組織化にさほど関心を示しませんでした。いやそれどころか、民衆運動の自発的な組織化と発言力の強化を疎ましく思うそぶりさえみせました。この人は政治が分かっていない、そんな印象さえもちました。
「愚民の上に苛政あり」とは、福沢諭吉の有名なことばです。諭吉は封建的な統治の本質は、「由らしむべし、知らしむべからず」の愚民化政策にあるとみて、偏狭で臆病で自己中心的な民衆意識を剔抉し批判することをためらいませんでした。そして圧制のもとで愚昧化した精神状態を打破しなければ、近代社会の扉は開かれないとして、一大民衆啓蒙の書「学問のすゝめ」を著したのです。同じことですが、圧制に慣らされた国民の精神的な矮小性、依存性を打破すべく、自己啓発の書として「学問のすゝめ」を世に送ったのです。それは近代日本社会の担い手として、「独立自尊」の人間類型の創出をめざすものでした。発行部数だけからいうと、当時の国民の十人に一人がこの書を手にした格好になります。出版の成功は諭吉に慶應義塾のための財政的基盤をあたえたのですが、それは諭吉らの啓蒙活動の国民への浸透度を表してもいます。
ミャンマーにおいて必要なのは、国民がカリスマ的権威者への精神的依存から抜け出し、自分自身で考え決定するように仕向ける啓蒙化戦略でした。2010年代の初め、NLDが合法化された初期の頃は、バゴーなどヤンゴンの近郊都市の学校で人権教育の試みがなされ、一定の成果が上がったという報告もなされていました。しかしそれも思い付き以上の事業にならなかった。市民社会における社会教育的イニシアチブも後退していきました。そのうちNLD統治のためにむしろ権威主義を利用し助長した感があります。さらに政権党になってからは、民主主義にとって地の塩というべき言論の自由に対しスーチー女史は冷たかった。少なくない活動家や学生がまっとうな政権批判や政治家批判をして牢獄に投ぜられる事態が生じ始めました。また政権トップとしての説明責任を極力サボタージュし、国民に判断させるための情報を提示したり、自らの思いを伝えたりすることにきわめて不熱心でした。歴代ビルマ王朝、イギリスの植民地支配、独立後十五年にも満たない不安定な文民政府を経て軍政五十年と、過去数百年にも及ぶであろう精神的奴隷化の圧力のもとにビルマ国民はおかれてきました。そのなかで培われた仏教的信仰の裏返しとして、ムスリム嫌いIslamophobie、排外主義Xenophobieや人種差別意識が国民の意識の深層に深く根を下ろしていたのです。スーチー女史のこの問題への対処の仕方は、まるでミイラとリがミイラになったごとく、最後にはムスリム嫌いを思わせるかのごときふるまいをしました。
スーチー女史はクーデタ直前に側近に渡した国民への声明書において、軍の支配に心から抵抗するよう呼びかけています。もちろんそれはそれで正しいことですが、ただ遅きに失した感があります。2012年にNLDは合法的活動に入りましたが、それはそもそも国民運動の成果として勝ち取ったものではありませんでした。いわば国軍からの施しものであり、その意味で、いうことを聞かなければ、いつでも取り上げるぞという条件を含んだものでした。スーチー女史の国軍との融和政策は、そうした彼我の力関係を考慮して立てられたものでしたが、陣営内で情勢や戦略が熟議され強い合意の上で発せられたものではなかっただけに、結果として国民の精神的武装解除を招き、抵抗する勇気を弛緩させてしまいました。
年齢からいって、スーチー女史が雌伏の期間を経て、ふたたび国政の舵取りに復帰する可能性は小さいでしょう。しかもスーチー女史に続くと思われた「88世代」を、スーチー女史は政権から遠ざけました。
自分の思う通りの政権運営をするには、実績がありみな一家言あるかつての学生リーダーたちは疎ましかったのでしょう。独裁的傾向のある指導者のもとではいつもそうなのですが、次世代の指導者が育っていないのです。その空白をだれが埋めるのか。いずれにせよ、ミャンマーの民主化運動は、スーチー治政の失敗の本質を解明し教訓化しつつ、軍政への抵抗を再組織するところから再出発する以外にはないのです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10523:210203〕
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