2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(1)
- 2021年 2月 25日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
2月19日の当ブログに書きましたように、「女たちの戦争と平和資料館」(wam)主催の<天皇制を考える>シリーズの三回目として、西早稲田のAVACO教会の一室で開催されました。予約制で定員40人ほどの方が参加してくださいました。参加の皆さんはそれぞれの分野で活動されている方々なので緊張しました。事前には、wamの担当のYさんにはいろいろご教示いただきながら、なんとか当日を迎えました。資料などの準備で、明治以降の歴代の天皇・皇后の短歌から、報告に必要な短歌の80余首を選びました。歌会始に関するデータを表にしたり、年表を作成したりは、これまでの拙著出版にあたってもやってきた作業ではありましたが、いま、また、新しいデータを補い、あらためて新しい事実を知ることも多々あって、厄介ではありましたが、楽しい一面もありました。
また、代替わりこそなかったのですが、1945年敗戦前後の明治・大正・昭和天皇及び各皇后の短歌の在り様をたどり、昭和から平成、平成から令和という代替わりを目の当たりにした者として、マス・メディア、現代の短歌ジャーナリズムや現代歌人の対応を振り返ることにもなり、新聞や雑誌の記事のファイルを持ち出しては、話の内容をまとめるのに苦労をしました。配布したい資料はどんどん増え、読み上げ原稿もなかなか削れませんでした。
予定の90分に収まるか、どうか。コロナ対策で、間に休憩をとるということで、どの辺で区切るのか、気はもめましたが、何とか、時間的には収まりました。
さて、その中身はとなると、個人的には、短歌からは、なるべく離れないようにしながら、レジメのなかの「おわりに~”リベラル派”識者の護憲と天皇制」の問題について、参加者の声も聴きたいなと思っていたのですが、思うように時間が取れませんでした。以下、私の話の一部ながら、どうしても伝えたかったいくつかを、書き留めておきたいと思います。レジメの順序とは若干異なっています。
1.この30年の歌壇と天皇制
まず冒頭で、次の雑誌の特集と図書をあげて、この30年間の歌壇の基盤にほとんど変革がみられなかったこと、そして、あたらしい元号「令和」が萬葉集から採られ、大いに盛り上がっていたことなどを指摘しました。
1989年1月『短歌』臨時増刊「天皇陛下と昭和」
2019年1月『短歌研究』「平成の大御歌と御歌」
2919年3月『象徴のうた』永田和宏 文芸春秋
2.昭和天皇は平和主義者だったか
昭和天皇の死去報道の中で、例えば、つぎの①がさまざまなメディアで取り上げられ、太平洋戦争「開戦」には慎重であったことが、繰り返されました。同時に、②をもって「終戦」の決断をしたということが強調され、昭和天皇は平和主義者だったとのイメージが増幅されました。
① 峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
(1942年歌会始「連峰雲」)
② 爆撃にたふれゆく民の上おもひいくさとめけり身はいかならむとも
(木下道雄『宮中見聞録』1968年で公開)
①についてその典型的な解説といえば、
岡野弘彦:長い間、歌会始の選者と御用掛を務めた歌人
「太平洋戦争がはじまり、戦時中の昭和十七年のお題<連峰雲>の御製では、戦争が早く終わって平和になるようにとお望みになっていた」「しかし時勢は陛下のお気持ちとは逆の方向に進み、十二月一日には内閣と統帥部との一致した結論として陛下も開戦やむを得ないとなさった」(昭和天皇歌集『おほうなばら』解題 1990)
下馬郁郎(=半藤一利):昭和史研究、元『文芸春秋』編集長
「沈痛きわまりない感情の表白というべきか。そして陛下が、あの激越な戦争中、ただ祈りつづけてこられたことに気付かせられる。陛下にとっての「昭和史」とは、ことごとに志に反し、ひたすら祈念の時代であったということなのだろうか」(「御製にみる陛下の“平和への祈り”」『文芸春秋』1989年3月号)
また昭和十年代の昭和天皇の短歌を評して
保阪正康:「昭和十年代の天皇の祈りの歌から、平和主義者であったことは一目瞭然です。天皇は相手により言葉を使い分けますが、歌の中ではほんとうの気持ちを詠まれているということです」
(『よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年』(辺見じゅんとの対談) 文春新書 2012年2月)
昭和史の第一人者と言われる半藤、保阪の二人が「御製」で歴史を語っていることに、あらためて驚きました。
3.昭和、平成の天皇が詠んだ沖縄
また、昭和天皇晩年の歌で、つぎの一首がよく引用されます。1987年10月、沖縄での国民体育大会に病気のため出かけられなくなったことを歌い、皇太子夫妻が代わりに参加し、「おことば」を代読しています。そして、この歌も「昭和天皇は、沖縄訪問の責任が果たせなかったという特別の思いを持ち、沖縄の人々への思いやり」を示した歌だと、保阪正康も先の本で語っていますが、この「思いやり」の部分を平成の天皇夫妻が受け継いだと思われます。
③ 思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たむつとめありしを(1987年)
しかし、昭和天皇には、沖縄についての重大な二つの「負の遺産」もありました。すなわち、
・1945年3~6月まで、本土決戦の前提として、沖縄地上戦を続行させた、多大な犠牲者、県民の4人に一人、20万人の犠牲者を出したこと
・1947年9月、御用掛、寺崎英成を通じて、GHQに琉球諸島の占領継続を長期租借の二国間条約によるという内容の文書(「天皇メッセージ」「沖縄メッセージ」)を渡していたこと(進藤栄一の論文で明るみに。『世界』41979年月号)
そこで、平成の天皇夫妻は、皇太子時代5回、天皇時代6回、合わせた11回訪問し、その都度、短歌を詠み、「おことば」を残しています。他の都道府県訪問に比して突出している数字です。沖縄訪問一覧をご覧ください。
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なぜこれほどまでに沖縄にこだわるのかといえば、上記、昭和天皇の負の遺産を、少しでも減らしていきたいという思いがあったことは確かですが、沖縄の基地に対する政府の対応は、県民にとっては屈辱の連鎖でしたし、民意に反して、固定化し、強化されているのが現状です。平成の天皇夫妻の短歌や「おことば」では、犠牲者への慰霊や鎮魂が繰り返されますが、それは、夫妻の個人的な心情があったとしても、沖縄県民への慰撫や懐柔の役割を果たし、政府の沖縄への対応の欠陥を補完していると思えるのです。
平成の天皇と皇后の沖縄を詠んだ短歌を多く残しています。国立戦没者墓苑、平和の礎、平和祈念堂には幾度も、福祉施設などを訪ねていますが、その中の2首だけについて、その背景を伝えておきたいと思います。
④ 広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ 戦世ぬ事
(ファルガルユチタキ タチュルグスィクヤマ チムヌシヌバラヌ イクサユヌタトゥ)
(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)
⑤ 時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ
(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)
④は、1975年7月、皇太子夫妻は、海洋博のため、はじめて沖縄を訪ねますが、その時に、本島の本部港から船で30分ほどの伊江島に立ち寄っています。
伊江島は45年4月16日、米軍が上陸し、島民の二人に一人が亡くなるという激戦地で、敗戦後は、最も早く、まさに銃剣とブルドーザーで島民は追い払われ、島の60%が米軍の軍用地となり、現在も35%が基地となっている島で、オスプレイの訓練などに使用しています。この歌は57577の短歌ではなく、沖縄特有の8886を基調とする歌、天皇が一人で学んだという琉歌です。島の中央にあるグスクヤマの中腹に、「御來村記念碑」とこの琉歌の歌碑が並んで、76年に建てられています。しかし、私たちが出かけたときは、島の生まれだという、案内の運転手は、「天皇の歌碑なんて、あったかね」とそっけなく、「ああ、あった、これですかね」という反応でした。いまはリゾートの島、百合の島、人口よりも牛の数の方が多い伊江牛の島として有名だとのことでした。
⑤は、2004年1月、宮古島の南静園という国立ハンセン病療養所を訪ねたときの皇后の歌です。沖縄には、もう一つ本島の北部に屋我地島、今では橋でつながっていますが、沖縄愛楽園という国立ハンセン病療養所があります。ここに訪ねた折も、療養中の人々と親しく懇談したり、握手をしたりして、歓迎され、沖縄の民謡を歌って見送ってくれたという一連の動向が美しい物語として報じられていました。 戦前に建てられた、全国で13ある国立ハンセン病療養所の二つが沖縄にあるわけですから、米軍基地を押し付けられている構造にも共通するところです。私たちが愛楽園を訪ねたとき、構内の案内図には、「御歌碑」が示されているのですが、なかなか見つかりません。戦前に、貞明皇后が、全国の療養所に、下賜金とともに送った「つれづれの友となりても慰めよいくことかたきわれにかはりて」という歌は、ハンセン病者の強制隔離政策のプロパガンダとして、「皇恩」の象徴でもあったのです。「御歌碑」をあきらめて、広い構内を見学しているうちに、運動場のような草原につきあたった、その広場の隅に、何かが見えると、近づいてみると、破れかかった青いビニールシートの覆われた、大きな横長の岩があったのです。透けたシートの間から、なんと「つれづれ・・・」の文字が読め、横倒しになった「御歌碑」とわかりました。私には衝撃的な一瞬でした。資料室の展示で、敗戦直後、「御歌碑」は海に投げ込まれたとはありましたから、1970年代、再建された歌碑のはずです。シートの破れ具合から、こうした状況になってかなり年月が経っているようにも見え、私たちが訪ねた2017年2月、一つ現実を目の当たりにした思いでした。(続く)
初出:「内野光子のブログ」2021.2.25より許可を得て転載
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