2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(2)
- 2021年 2月 26日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
4.昭和天皇は、敗戦後、どんな短歌を詠んできたか
さきに、昭和天皇の太平洋戦争開戦時と「終戦」時の二つの「聖断」にかかる短歌を紹介しました。「身はいかになるとも」の思いで終戦の決断を下したと言いますが、こうした短歌は、あまりにも自己弁護的すぎて、当時発表されることが憚れたのでしょうか。1968年に出版された木下道雄『宮中見聞録』により公けになります。年表「天皇退位問題と極東軍事裁判の動向略年表(1945~1948)」に見るように、学者や大手新聞社の社説などでも天皇退位論議が盛んでしたし、東条英機らが逮捕され、極東軍事裁判が始まろうとし、憲法改正論議の行方も不透明でした。ただ、この時期に、つぎの2首が公表されています
⑥ 海の外の陸に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり
(1946年1月1日、新聞発表)
⑦ ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ(1946年1月22日 歌会始「松上雪」)
昭和天皇は、1946年1月1日の年頭詔書でいわゆる「人間宣言」をしていますが、「五か条御誓文」をもって、民主主義の根本とし、神の国を否定したものでもなく、天皇の神格を明確に否定したものではなく、自分が現人神ではないことを述べるにとどまるものでした。
⑥は、雪の降るきびしい冬の寒さに耐えて、いつも青々と成長する松のように、人々も雄々しくかくありたいとの解釈ができますが、アメリカのジョン・ダワーという歴史家は『敗北を抱きしめて』において、「忍耐の美しい姿を表す古典的なイメージ」を作り上げ、「(天皇の)反抗の意を絶妙に表現したものである」とした、うがった解釈をしています。しかし、その頃の天皇は、実に不安定な場にあって「抵抗」どころかではなかったのではないかと推察されます。
敗戦の翌年46年2月からは地方巡幸を開始します。その頃の短歌に、以下があります。
⑧ わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ(1946年10月30日宮内省発表)
⑨ たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町うつ槌の音も高くきこえて(1947年歌会始「あけぼの」)
⑩ ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり(1947年12月広島・中国地方視察)
出迎えてくれて嬉しい、復興が進んで頼もしい、と詠んでいますが、当時、小学生だった私の体験からも、一般の人々の暮らしの実態を知ろうともしなかったのではないかと思います。1946年5月には食糧メーデーも起きています。
⑩の広島訪問の歌は、被爆の実態を知らず、被爆者の思いには至らない、まるで明るく、軽快な「流行歌」のようにも思えます。後年の記者会見で「原爆は仕方なかった」と述べたことにも通ずるところがあります。
それでも、さまざまな行事や訪問先で、儀礼的に挨拶のような戦没者追悼や戦争追想のようなつぎのような短歌を詠み続けていました。
⑪ 年あまたへにけるけふものこされしうから思へばむねせまりくる(1962年日本遺族会創立十五周年)
⑫ 年あまたへにけるけふも国のため手きずおひたるますらを思ふ( 1962年 傷痍軍人うへを思ひて)
⑬ 戦をとどめえざりしくちをしさななそぢになる今もなほおもふ(1971年伊勢神宮参拝)ヨーロッパ旅行を前に旅な安全を祈りに
⑭ 戦果ててみそとせ近きになほうらむ人あるをわれはおもひかなしむ(1971年イギリス)
⑮ さはあれど多くの人はあたたかくむかへくれしをうれしと思ふ(1971年イギリス)
⑯ 戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ(1971年オランダ)
⑪⑫ 同じ年に、軍人遺族と傷痍軍人たちに向けて詠んだものですが、「年あまたへにけるけふも」と同じ上の句で始まる歌であったとは、まさに「ごあいさつ」にも思えてしまいます。「むねせまりくる」も、昭和天皇の常套句です。イギリスやオランダでは、かつて日本の捕虜になった人々やその遺族から、激しい抗議を受け、イギリスでは植樹した木を抜かれたり、オランダでは、卵を投げつけられたりしたとも報道されています。「おもひかなしむ」「深くつつしむ」と詠みながら、⑮のように、あたたかく迎えられ、厚く迎えてくれる人がいたからと、すぐに立ち直る軽さと無神経さに驚きもします。
昭和天皇の短歌が平和への願いや戦争への思いを込めたものとして強調され、繰り返されることは、すでに戦争を知らない世代をはじめ、天皇や天皇の短歌、短歌そのものへの関心がない人々にもたらされる効果は微々たるものかもしれませんが、皇室イベントの折々に、種々のメディアにより繰り返されることによるアナウンス効果は無視できないのではないか、と思われます。その意味で、メディアの果たす役割は大きいと言わざるを得ません。
5.昭和天皇に戦争責任はなかったのか
短歌からは少し離れますが、そもそも、昭和天皇には、大日本帝国憲法下においては、第3条天皇は神聖にして侵すべからず、とあるのだから、どんな責任をも負う必要がない、あるいは、天皇は、軍部からの正確な情報が届いておらず、軍部に利用されていたにすぎないから戦争責任はないという俗説も流布されていますが、それらの説に、従来から実証的に反論する研究者は、決して少なくはありません。
たとえば、山田朗は、旧憲法11条天皇は陸海軍を統帥する、とあって制度的に「大元帥」であって、軍部の言いなりになっていたわけではなく、軍事の知識も東郷平八郎仕込みで豊かであったし、数々の具体的な作戦計画や内容に深く介入、関与していたと、数々の例で実証しています。
私たちにもわかりやすい例でいえば、つぎのいずれの場合も、天皇の意思であったことはすでに認知されていることだと思います。
・1936年 2・26事件では、反乱軍の鎮圧と軍事裁判による処刑
・1945年3月以降の沖縄戦における地上戦とその続行
また、死去報道の折、敗戦と終戦の二つの聖断をもって、昭和天皇は平和主義者だったというイメージが醸成されましたが、「戦争責任がない」という証として、いくつかの方法がとられていることもわかってきました。
一つは、次のようなエピソードが繰り返されてきたことです。
・太平洋戦争直前の1941年9月6日の御前会議でつぎのような明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風立 ちさわぐらむ」を読み上げた
・1945年敗戦直後、昭和天皇が、疎開地の明仁皇太子にあてた手紙に「日本が負けたのは軍人が跋扈したからで、終戦を決断したのは三種の神器をまもり、国民を守るため」との主旨を綴っていた
また、つぎのような、天皇の身近な人物の日記やメモの公開により、戦争への反省や退位の意向を漏らしていたことをもって、免責を示唆するようなこともあります。しかし、それはあくまでも個人の日記であり、メモのであって、しかも天皇の発言は「伝聞」であり、記録者の「恣意」も働いていることを前提にしなければならないのではないでしょうか。
・1937年近衛内閣時代の閣僚、敗戦時は内大臣だった、天皇の側近中の側近だった木戸幸一による『木戸幸一日記』(東大出版会 1966年)
・外交官から政治家となり、リベラルと称せられ、敗戦後片山哲内閣の後を継いで首相となった芦田均の『芦田均日記』(岩波書店 1986年)
・初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」(毎日新聞2019年8月19日ほか)
・マッカーサーと昭和天皇との会談通訳の人たちの日記(朝日新聞2002年8月5日)
そして、昭和天皇は、結局、結果的には、退位もしませんでしたし、戦争責任発言もありませんでした。のちの記者会見で、戦争責任問題を「文学上の言葉のアヤ」と称して、スルーし、原爆投下は「仕方なかった」とさえ語っていました。
それでは、なぜそのようなことが可能であったかといえば、GHQは、天皇の戦争責任を問うよりは、当初の方針通り、天皇の敗戦後の処遇については作戦が練られていて、象徴天皇制の構想、天皇を中心とする傀儡政権構想などのもと、「退位」より「在位」をとり、スムーズな統治を狙い、極東軍事裁判で、無罪潔白を確定する必要があると考えたのだと思います。こうしたGHQの方針と天皇制を残したい日本の思惑が一致して、昭和天皇の戦争責任を曖昧にすることによって、国家の戦争責任をも曖昧にし、歴史認識をゆがめてきたことになるのではないでしょうか。
初出:「内野光子のブログ」2021.2.26より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/02/post-4455ac.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10588:210226〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。