ルポルタージュ絵画の可能性
- 2021年 3月 9日
- 評論・紹介・意見
- 絵画論髭郁彦
去年の12月20日に宇波彰先生にお借りした『日本のルポルタージュ・アート~絵描きがとらえたシャッター・チャンス~』(以後副題は省略する) と題された1988年に開催された展覧会の図録。私はこの図録を眺め、そこに書かれた解説文を読んでいる。そして、ルポルタージュ絵画という問題について何か書くべきであると、今、思った。先生は私が書き散らかしていた絵画論をいつも丁寧に読んでくださっていただけではなく、探究の方向性と広がりとに関して的確な批評をしてくださり、様々な助言をくださっていた。1月6日の先生の御逝去に多くの人は強い衝撃を受け、その突然の訃報に言葉を失った。だが、悲しみに包まれた日々は徐々に過ぎ去り、いつの間にか先生の四十九日も過ぎていった。『日本のルポルタージュ・アート』をご遺族の方にお返ししようとしたが、「父のために、もらってやって下さい」という言葉。その言葉に甘えてこの図録を頂いたが、じっくりと読む気分にはなかなかなれず、今日やっとページを開き、掲載された絵を見ながら解説文を読んだのだ。
1988年と言えば、三十年以上も前であるが、この展覧会には今も色褪せない重要な問題性があると私は直観的に思った。それは第一点目として、この展覧会が一般的なルポルタージュ絵画の定義を越えて、この絵画ジャンルを定義づけているという問題。第二点目は現実に起きた社会的に見て大きな出来事を絵画はどう捉え、どう描いていったかという問題。第三点目は、他の記号表現ではなく、絵画によって提示されるメッセージ性の問題。第四点目は、今述べた三つの視点を踏まえたルポルタージュ絵画の展開という大きく分ければ、以上の四点であるように考えられる。それゆえこのテクストでは今挙げた四つの点について記号横断的視点を中心に据えて、順次検討していこうと思う。
ルポルタージュ絵画とは?
国立近代美術館主任研究員の鈴木勝雄は、坪井秀人編『戦後日本を読みかえる②運動の時代』の「第2章「ルポルタージュ絵画」の変容と六全協のインパクト」の中で、このジャンルの絵画に対して、「それは一般的に、基地反対闘争や、労働争議など、一九五○年代の日本を揺るがした出来事や事件に取材し、現場で得た体験をもとに社会的な事象の本質を視覚的に記録した絵画を指す」と定義づけている。この定義は多くの美術研究家が納得するものであろう。それに基づけば、桂川寛の「小河内村」(1952:以後作品の後の数字は制作年である)、池田龍雄の「立川」(1953) 、中村宏の「砂川五番」(1955) といった作品は典型的なルポルタージュ絵画と述べることができ、「日本のルポルタージュ・アート」という展覧会においてもこれらの作品が展示されていたことが図録を見ればすぐに判明する。
だが、この展覧会において、ルポルタージュ絵画が一般的な定義とは別な角度から解釈、区分されていた点に注目する必要があると私には思われる。展覧会を主催した板橋区立美術館学芸員尾崎眞人は、図録の中で「〈国家〉としての〈歴史〉であろうが、〈社会〉としての〈記録〉であろうが、〈個人〉としての〈記憶〉であろうが、私たちが〈記録〉された絵画をみることは、決して〈過去〉への旅ではないはずである。〈現在〉と〈私たち〉を問いなおすための探訪である。〈現在〉とそこに置かれる〈私たち〉自身の確認作業であって欲しい。本来〈記録〉以外のものを語らぬ〈記録〉に、饒舌に語らせてしまうのは、私たち自身にほかならないのだから」(引用文中の「,」は「、」に変えている) と語り、ルポルタージュ・アートという言葉を使って、1950年代に起きた社会参加的絵画芸術運動をルポルタージュ・アートの一部とする視点が取られている。すなわち、ルポルタージュ絵画をより広い意味で考えようとする点が強調されているのである。この定義の拡大はルポルタージュ絵画の持つ特異性と複雑さを端的に示しているのではないだろうか (このことについての詳細な検討はここではこれ以上行わず、次のセクションで行う)。
ルポルタージュという語はフランス語の «reportage» を元にした外来語であるが、フランス語版ウィキペディアで、この語は「ルポルタージュとは直接的証言を重視し、物語る報道における一ジャンルである」と定義づけられている。つまり、問題となる事象を提示する語り手が直接的にその事象と向き合い、語るという点が強調されている報道方法であるのだ。ルポルタージュは1950年以前にも存在していたが、思想史との関係で言うならば、実存主義者、特に、ジャン=ポール・サルトルが社会参加 (engagement) の重要性を叫んでいたこの時代に、特に注目された表現ジャンルである。それに加えて、1940年代後半から1950年代はアジアで多くの国々が独立を果たし、また、植民地主義に抵抗する多くの戦争が起きた時代でもある。1946年に第一次インドシナ戦争が始まり、ベトナム独立のためのフランスとの戦いは1954年まで続く (その後、1965年にアメリカとのベトナム戦争 [第二次インドシナ戦争] が起き、1975年まで激しい戦いが続いた)。1947年にインドとパキスタンがイギリスから独立し、1949年にはオランダとの戦いに勝利したインドネシアが独立。同年には中華人民共和国も設立されている。そして、1950年に朝鮮戦争が起き1953年の休戦協定まで朝鮮半島で激戦が繰り返された。1952年、日本が占領軍統治下ら独立した。1953年にラオスとカンボジアがフランスから独立するが、ベトナム戦争に巻き込まれ、内戦状態が70年代まで続く。こうしたアジアの独立のための戦いと内戦は日本の人々に様々な側面で確実に影響を与え、ルポルタージュという表現様式の必要性が強く叫ばれたのである。
1950年代のルポルタージュを武器として植民地主義や民衆を弾圧する権力者とペンで戦うという運動方向性は新聞、雑誌といったエクリチュールによる社会活動の大波を起こしただけではなく、写真、映画、更には、美術においても大きな波を引き起こしたのである。アンガージュマンによる芸術作品の創造は美術においても中心テーマの一つとなったのである。それゆえ、ルポルタージュ絵画の持つイデオロギー性と時代性という側面は、戦後の美術史の進展を考察する場合、欠くことのできない視点の一つとなったのである。だが、この視点に依拠せず、江戸時代の旅案内記図、明治・大正時代の災害を描いた絵、第二次世界大戦中の戦争記録画などもルポルタージュ・アートと見做し、区分していった点で、「日本のルポルタージュ・アート」という展覧会には特筆すべき問題提起があったのではないだろうか。
現実へ接近
如何なる視点を取るにしても、ルポルタージュ絵画を語る上で中心となる二つの側面がある。それはレアリズムとアンガージュマンという側面である。この二つの中核となる側面については詳しく考察しなければならない。
先ず、レアリズムあるいはレアリテ (réalité) に関しての検討を行おう。池田龍雄は展覧会図録『池田龍雄――アヴァンギャルドの軌跡』の中に再掲載された「絵画におけるルポルタージュの問題」(このテクストは、元々は1953年に発刊された『今日の美術』№2に掲載されていた) の中で、「(…) 新しいレアリテを追求しようとする者にとっては、閉ざされた世界――静止の状態でとらえた物質や、孤立した心理の世界はも早不毛の地である」という発言を行い、その方向性の中で、「(…) 作家が、歴史に対して積極的に参加し実践者の眼を以って、現実をより正確にとらえ更にそれを建設的、発展的な方向に向って描き出す為には先ずどうしても「ルポルタージュ」と云う事を第一に問題にせざるを得ない」という主張を行っている。世界との対峙としてレアリズムの必要性を、ルポルタージュ絵画を創作した作家たちは始原的なものであると考え、多くの社会問題が現実に横たわっている日本の町、仕事場、基地に向かい、そこで実際に抑圧、矛盾、権力、怒り、悲しみ、闘争、告発、抵抗を直視し、その実相を彼らの視点から見たレアリテとして絵画化していった。
ルポルタージュ絵画の作者にとっての問題は、今、ここにある対象の持つ現実の姿を如何に捉え、如何に表現するかであった。そこにあるものはオブジェの単なる記録化でもなければ、描写でもなかった。それは主体的な行為によって、主体的な社会参加の結果として、創造される作品であった。独立した自由な主体が、責任を持ち、社会に対して何らかの行動をなすこと、そこには第二の側面としてのアンガージュマンの問題が端的に表されている。サルトルが言うように、「われわれは自由の刑に処せられている」ならば、われわれはその刑に処せられた責任を担い、それぞれの主体の持つ務めを果たしていかなければならない。こうした現実性に対する問いへの一つの答えとして1950年代のルポルタージュ絵画は存在した点をわれわれは忘れてはならない。だが、アンガージュマンの方向性の中に共産主義イデオロギーへの共鳴があった点も忘れてはならない。先程指摘したアジア諸国の独立運動と植民地支配者との戦いといった国を二分するような大きな動乱だけではなく、1950年代、日本においてもアメリカの基地問題、炭鉱などの争議問題、公害問題などの社会矛盾が一挙に噴き出していた。そうした時代性の中、共産党指導の下で、アンガージュマンとしての芸術が叫ばれ、ルポルタージュ絵画運動はその先頭に立つものでもあったのだ。
このように考察していくと、ルポルタージュ絵画の持つ時代的特質がはっきりと浮かび上がってくる。しかしだからこそ、そうした時代的な枠を取り払って行われた「日本のルポルタージュ・アート」という展覧会が特異なものであることが理解できるのではないだろうか。ルポルタージュ絵画の持つ同時代性とルポルタージュ絵画の持つ単純なモニュメント性とは異なるメッセージ性。ルポルタージュ絵画の持つこの二つの側面は根本的な問題であるが、その分析は簡単なものではない。ここではその重要性を指摘するだけに留め、この二つの側面は最後のセクションで改めて詳しく検討することとする。
何故絵画によって表現するのか?
ドキュメンタリーとルポルタージュとの、更には、モニュメントとの差異は何かという問いは、レアリテをどう捉えるのかという問題を内包している。レアリテすなわち「現実」とは、一般的定義に従えば、「ある時、ある場所で起きた客観的な出来事」となるのではないだろうか。この定義を否定するつもりはないが、レアリテをこの世界で起きている客観的な事実と解釈しても、レアリテと対峙しているのは主体性を持ったわれわれ各人である以上、そこには必ず主体の影が投影されている。しかし、如何なる表現手段を用いるかによって、その主観性の投影レベルや客観化の強度といったものは大きく変化する。例えば、ドキュメンタリー映画は存在するがドキュメンタリー絵画やドキュメンタリー彫刻というものは存在しない、あるいは、存在することが困難である。ルポルタージュ絵画は存在するがルポルタージュ映画も、ルポルタージュ彫刻も存在しない、あるいは、存在することが困難である。また、彫刻はモニュメントになり得るが、絵画も、映画もモニュメントにはなり得ない、あるいは、そうなることが困難である。この問題は実は非常に大きな問題を孕んでいるのではないだろうか。
映画制作プロダクションのシグロが編集した『ドキュメンタリー映画の現場―土本典昭フィルモグラフィから―』の中で蓮實重彦は「ドキュメンタリーの難しさというものは、対象となるドキュメントそのものが、いわば社会的ないくつかの意義をすでに持ってしまっているということにあるわけです」という言葉を発しているが、社会的な意味がすでに決定しているものを対象として制作される芸術作品はドキュメンタリー映画に限ったことではない。ルポルタージュ絵画もそうであるし、ある種のモニュメントとしての彫刻もそうである。では、ドキュメンタリー、ルポルタージュ、モニュメントの大きな違いはなんであろうか。ルポルタージュに対してはすでに「ルポルタージュ絵画とは?」のセクションでその意味の検討を行い、出来事への直接的参加を通しての記録・伝達がその主要特徴である点を指摘した。では、ドキュメンタリーはどうであろうか。同時性という側面ではルポルタージュと共通するが、ドキュメンタリーは作り手が実際に起きた事件に参加する必要はなく、その現実を外から見つめるという側面が強いのではないだろうか。モニュメントには記録性があるが、記念という側面があるように、それは出来事に対する同時性の必要も、出来事への直接参加の必要もないものである。
こうした特質は如何なる表現手段を取って対象を描写するかという問題とも深く係わるものである。同時性、客観性を重視するならば写真や映画といった表現手段が適しており、同時性と直接参加の形象性を重視すれば絵画や版画などの表現形式が適しており、記念的な意味と歴史的意義を強調したい場合には彫像といった表現形式が適していると述べることができると考えられる。だがこの考えに従えば、「日本のルポルタージュ・アート」という展覧会のルポルタージュ絵画に対する解釈は異端のものとなる。
ルポルタージュ絵画の展開
ここでは先ず、「日本のルポルタージュ・アート」展においてルポルタージュ・アートとして提示された、江戸時代の旅案内記図、明治、大正の災害を描いた絵、第二次世界大戦中の戦争記録画といった作品が、ある出来事をどのように捉えていたかという点に関する探究を行っていきたい。今述べた作品群の中で、第一のものと第二のものは描き手が直接その出来事を見て、作品を作り上げたという点で出来事をルポルタージュしていると語ることが可能であるが、第三のものはルポルタージュと語ることができるであろうか。画家が実際に従軍し、戦場を描写した作戦記録画も存在してはいるが、宮本三郎の「山下、パーシバル両司令官会見図」(1942)、中村研一の「コタ・バル」(1942)、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」(1943) といった作戦記録画は画家が直接出来事を見て、描いたものではない。こうした絵をルポルタージュ・アートあるいはルポルタージュ絵画と呼び得る根拠を明確にしなければならない。
今提示した作品は制作された当時は作戦記録画と呼ばれた作品である。その目的は旧日本陸海軍の参戦した戦場での情景を記録し、日本国民に知らせることにあった。そこにはドキュメンタリー性がある一方で、間接的情報を基にした出来事の再現という問題がある。譬え新聞記事であっても、出来事を完全に客観的に伝達したり、記録することは不可能である。ましてや芸術作品においては物語的虚構性が必ず内包されている。ルポルタージュ絵画は人間の手によって描写されたものであり、客観的な事実を示したものではない。そこには画家の創造性や象徴的表現性が必ず付与されている。池田龍雄の「スコップ」(1953)、村上義男の「L地区 (杭に抗し、内灘)」(1955)、利根山光人の「いけにえ (ダムシリーズ)」(1956) といった作品を見ればはっきりと理解できるように、これらの作品は具象画ではなく、抽象画であり、具体的な現実的形態によってテーマとなったオブジェが描かれてはいないが、ルポルタージュ絵画である。そうであるゆえに、出来事への直接参加がルポルタージュ絵画の第一条件であると見做されたと考えることもできるであろう。
だが、そうであるならば、例えば、1950年代に向井潤吉が戦後描いた民家の絵も、熊谷守一の庭にいた虫を描いた絵もルポルタージュ絵画になってしまうのではないだろうか。こうした向井や熊谷の絵になく、戦争記録画に存在するものは何であるかという問題はルポルタージュ絵画の根本性を考える上で核となり得るものである。何故なら、1950年代という時代性はルポルタージュ絵画の中心にある特質ではなく、更に、直接的体験も中心的な特質ではないと私には思われるからである。では、ルポルタージュ絵画の中核にあるものは何であろうか。それは描かれた出来事の社会的・歴史的な衝撃性や重要性と、それと向き合おうとする画家の意志にあると思われる。上記した向井や熊谷の絵は作家個人として、つまりは、私的な出来事としての重さはあっても、社会的・歴史的な重さはないと述べ得るのだ。これに対して、江戸時代の旅案内記図は社会的な何らかのニーズがあって描かれたものであり、明治・大正時代の災害を描いた絵は同時代的出来事の大きさがあり、第二次世界大戦中の戦争記録画は社会的・歴史的な出来事の重要性と社会的な強い要請があった作品であるゆえにルポルタージュ絵画と述べ得るのではないだろうか。そのように「日本のルポルタージュ・アート」という展覧会の主催者は考えたのであり、私もその考えに同意したい。
このテクストでは「日本のルポルタージュ・アート」という展覧会の図録の考察を基盤としながら、ルポルタージュ絵画の地平を拡大することで、このジャンルの絵画の根本的な特徴の探究を行ってきたが、最後に、現代におけるルポルタージュ絵画の可能性という問題について検討してみたい。
ルポルタージュ絵画は、上述したように社会的・歴史的な出来事と密着した絵画である。そこには同時代性とアンガージュマンという色彩が色濃く反映されているが、それが直接的ではないにしろ、画家がある出来事と向き合った体験的な告白が刻み込まれているのではないだろうか。ジョルジュ・バタイユは『生贄』の中で「体験には体験自体の如何ともしがたい一種の視点、それ自らの貪欲な動きが求める存在方向がある (…)」(生田耕作訳) と語っているが、ある出来事を表現するということはそこに必ず作者の主観的な意志の方向性が提示され、その出来事に対する画家の解釈が強く反映しているのである。それを実存 (existence) の方向性と述べることもできる。バタイユの考えに多大な影響を受けたジャン=リュック・ナンシーは『無為の共同体――哲学を問い直す分有の思考』において、「実存するということが意味しているのは、単に「存在する」ということではない。その逆だ。つまり、実存することが意味しているのは、存在者の直接的現前のうちには、あるいは存在者の内在性の中には存在しないということである。実存するということは、内在的ではないということであり、あるいは自己自身へと現前せず、一人では現前しないということなのだ」(西谷修、安原伸一朗訳) という指摘を行っている。この言葉は実存の持つ共存在性を、あるいは、他者との対峙によって、もしくはアンガージュマンによってのみ自らの存在を証明するその存在性をはっきりと語っている。この意味で、ルポルタージュ絵画は実存的な一つの価値ある表現手段なのである。
実存というタームを導入することで、ルポルタージュ絵画はその地平を広げ、1950年代の時代精神の範疇を超えて、その意味空間を多方向に増長させることができる。それゆえ、この側面を強調すれば、「日本のルポルタージュ・アート」という展覧会の意義が明確に理解できる。だが、「実存」というタームが時代的に大きく後退した現代において、この側面を強調するだけではルポルタージュ絵画を再評価する意義は小さいのではないだろうか。ルポルタージュ絵画の現代的な可能性を探るためには、更なる探究視点が必要である。その可能性を切り開いて行くための基本概念となるタームとは何であろうか。それはヴァルター・ベンヤミンの考えを発展させたジョルジュ・ディディ=ユベルマンが主張した「アナクロニズム (anachronisme)」というタームではないだろうか。この概念語は一般的な用語としての「時代錯誤」という意味ではなく、時間軸を超えたアウラの展開における弁証法的イメージを持つものという意味である。ディディ=ユベルマンは『時間の前で:美術史とイメージのアナクロニズム』の中で、「(…) 過去は拒絶されるべきものでも、再生させるべきものでもなく、もっぱらアナクロニズムとして再帰するものなのである」(小野康男、三小田祥久訳) と述べ、更に、「イメージは、まず、時間の結晶である。ベンヤミンが書いているように「〈むかし〉」が「〈今〉と閃光のうちに出会い、星座を形成する」稲妻のような衝撃の形態、構築されていると同時に燃えさかる形態なのである」とも述べている。アナクロニズムという概念を導入することで、ルポルタージュ絵画は単に1950年代の美術運動という側面から解放され、その地平線を大きく広げ、今という時代と連結する。そして、それは「日本のルポルタージュ・アート」という展覧会の正当性を強く確認するものでもある。
同時代的な側面や記録としての側面からのみからルポルタージュ絵画を捉えるならば、ルポルタージュ絵画は過去の一時代の芸術運動という意味しか持ち得ないものとなってしまう。しかし、それではルポルタージュ絵画を創作した画家達が叫んだ実存的なアンガージュマンの精神はすでに終焉したものとなってしまう。そうした決定済みのものとしてこのジャンルの絵画を見るのではなく、新たな可能性を秘めたものとしてその意味を歴史の流れの中から救い出すというヴァルター・ベンヤミン的な試みという側面から見た場合、ルポルタージュ絵画のアウラが輝きだすのではないだろうか。何故なら、ディディ=ユベルマンが言うように「イメージと同様、時間も形式と形式なきものがつくるウロボロスの結び目のなかでもがいているのである」からだ。目の前にあるルポルタージュ絵画をわれわれが熟視するとき、それは死んだイメージではなく、時間性を超えたイメージとなる。そのイメージは決定済みのものではなく、現在と向き合ったものであるゆえに、われわれは今、ここで、その作品との対話関係を作り上げることが可能となるのだ。
私は「日本のルポルタージュ・アート」の図録の一ページ一ページをゆっくりと順番に開いていく。向井潤吉の「影〈中国蘇州上空にて〉」(1938) の中に描かれている街に写る不気味な機影。井上長三郎の「東京裁判」(1948) の骸骨の集まりのように見える被告人達。池田龍雄の「捨てられた魚〈第五福竜丸事件〉」(1954) の放射能に汚染されたグロテスクな沢山の魚。中村宏の「砂川五番」(1955) の激しく抵抗する住民の顔に刻まれた怒りと悲しみの表情。そこに描かれたものがその時、そこにあった事実として私に訴えかけてくる。私はその問いに答えるために、図録の作品を見つめ、今、ここでの対話を続ける。この行為の中にはポリフォニーが存在する。それは時間の前でのイメージのポリフォニーである。そして、それは時間を超えるアナクロニズムとしてのポリフォニーでもある。そして私は時間を超えた対話性について語ったバフチンの言葉に従いたいと思った。私は図録を閉じ、目を瞑り、そこにあった作品を思い浮かべながら、それらの作品と無言の対話を再び始めた。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10627:210309〕
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