パニックこそが命を救う――東日本大震災の教訓
- 2021年 3月 12日
- 評論・紹介・意見
- 東日本大震災森田成也
東日本大震災10年目にあたって、先日、NHKで「津波避難」に関する興味深い番組が放映されていた。
https://www3.nhk.or.jp/…/20210309/k10012903971000.html
非常に印象的だったのは、当時、現地にいたほとんどの人が津波が迫りつつあったのに、パニックのようなものを引き起こさず、逆にきわめて強力な平常性バイアスに支配され、そのせいで大勢が津波に飲み込まれてしまったことだ。
当時、避難所近くで動画を撮っていた人がいて、その動画もテレビで一部流れていたが、そこに映っていた人はみんなのんびりとした様子で、叫んでいる人もいなければ、走っている人さえいなかった。「やあ、久しぶり」みたいなあいさつを交わしているほどだった。
よく映画などで、大災害の時には人々がパニックを引き起こして大変な事態になるというように描いているが、実際はその逆なのだ。ほとんどの人はパニックになどならない。むしろ強力な平常性バイアスに支配されて、日常を続けようとする。NHKの番組では、死亡率が高かったクラスターとして、自分で店を営んでいる人が挙げられていた。自営業の人は店を放り出して避難所に行くことをせず、地震で散乱した品物を片付けているうちに逃げ遅れたのだ。パニック映画は、人々が集団パニックを引き起こすことをもっぱら否定的に描くので、なおさらこの種の平常性バイアスを強化することにつながっている。
そうした中で、多くの人の命を助ける役割を果たしたのが、「率先避難者」と呼ばれている人たちだ。状況がやばいと何となく感じて、周りに声をかけながら率先して避難を開始した彼ら・彼女らは、いわばある種の「抑制されたパニック」を実践した人なのだ。とくに、ある小学校の校長先生(女性)は、たくさんの児童を連れて近くの小高い山へと避難を開始した。それを見た人々や保護者もそれにつられて避難を始めた。それがしだいに連鎖していって、最終的に数百人の命が助かった。NHKの番組ではこれを「避難のカスケード(滝)」と呼んでいる。
つまり、災害時において必要なのは、パニックにならないことではなく、むしろパニックになることなのだ。本当に危機が迫っているのに、必死になって走ったり叫んだりすることができないことこそが、深刻な問題なのだ。とくに日本人は、そういうこと(人と違うことをすること、大げさに振る舞うこと)を恥ずかしいと思うように小さいころから教育され、深く内面化している。そのため、暴漢に襲われた時でさえ大声を出すことができない。よくドラマなどで、暴漢に襲われた女性が「キャー助けて!」と声を上げるシーンがあるが、大声を出すこと自体がそんなに簡単なことではないのだ。
災害を想定して避難訓練をすることも重要だが、もっと必要なのは、何らかの危機に直面して、とっさに「パニックになる」訓練、すなわち、平常性バイアスを自覚的に断ち切り、スイッチを「危機モード」に切り替える訓練なのだ。それは日ごろの自覚なしには、したがって訓練なしには不可能である。「大声を出す」ことさえ、意識的に自分の中にある強力な抑制を解除することなしにはできないのであり、したがって訓練なしにはできない。
このことは大きな社会問題についても言える。地球温暖化に関して、グレタ・トゥーンベリさんが「自分の家が火事になっているかのように行動しなければならない」と言ったのはそういうことだ。誰もが平常性バイアスに支配されているうちに、大洪水がやってきて、すべての人を飲み込んでいく。そうならないうちに、パニックになってくださいとグレタさんは大人たちに警告している。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10636:210312〕
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