テオドーア・W・アドルノ『ヴァーグナー試論』より「ファンタスマゴリー」
- 2021年 3月 20日
- スタディルーム
- 高橋順一
*これは早稲田大学教授・高橋順一氏の3月10日の最終講義を編集し、許可を得て掲載したものです。そのために準備された論文『転回点―「三・一一以後」の世界と<市民社会の弁証法>の行方 ―』が下敷きになっています。
講義の総タイトルは「アドルノ・マルクス・ヴァーグナー -<近代(モデルネ)>の根源史」です
第一部
(1)テオドーア・W・アドルノ『ヴァーグナー試論』(高橋順一訳 作品社)より
Ⅵ章「ファンタスマゴリー」
(2)同書解説「仮象と仮象を内破するもの アドルノのヴァーグナー認識」より
「3.ファンタスマゴリーと神話」
「4.ヴァーグナーにおいて救われるもの」
(後出の高橋順一『転回点』に加筆訂正の上収録した版)
第二部
高橋順一『転回点 ― 「三・一一以後」の世界と<市民社会の弁証法>の行方 ― 』より
(1)全体目次
(2)「今あらためてマルクスを問い直すことの意味」
(3)第二部イントロダクション「今あらためてアドルノ・マルクス・ニーチェを問う」
(4)「あとがき」
第一部
テオドーア・W・アドルノ『ヴァーグナー試論』より「ファンタスマゴリー」
*以下は、前知識として、岩本茂(神戸学院大学現代社会学部教授)が書かれて、ネット上で公開されているモノから抜粋した「ファンタスマゴリー」の説明です。ご参考までに。(編集部)
≪『パサージュ論』という有名な著書のある社会学者のベンヤミンの「ファンタスマゴリー」という概念が面白いかもしれません。もともとは「幻灯機」という意味です。パサージュというのは19世紀にパリにできた商店街のことですが、そこに並べられている商品は独特の輝きをまとって人々の欲望を刺激します。たとえがらくたであっても「アンティーク」としてものすごく価値があるかのように見える。そういう幻想空間をベンヤミンは「ファンタスマゴリー」と呼びました。≫
3.ファンタスマゴリーと神話
「ファンタスマゴリー」と題された『試論』のⅥ章は、アドルノ自身がいっているようにこの著作のもっとも中心的な内容を含んでいる。その冒頭においてアドルノは、ヴァーグナーにおけるファンタスマゴリーの起源を、「生産物」としての芸術作品が自らの生産過程を隠蔽することによって「自らを産出するもの」となることに求める。こうしたヴァーグナーの「表現形成の原則」が、ヴァーグナーにおける「導音」(和声的解決状態を導くための過渡的な音進行で和声の響きの不安定性を含む)と「半音」の優位として現われるとアドルノが指摘しているのは興味深い(43)。
現代フランスの哲学者フィリップ・ラクー=ラバルトはそのヴァーグナー論に「虚構(ムジカ)の(・)音楽(フィクタ)」という表題(44)を付している。この「虚構の音楽」という言葉は、歴史的には中世のムジカ・ノーヴァ以降現われる半音階的手法をさすとともに、像(イメージ)の持つ視覚的効果に囚われているために「虚構」化していったオペラ作品の性格を表わしてもいる(45)。このことは、もともと「魔法幻灯」という視覚媒体が語源となっているファンタスマゴリーの要素と半音階的手法がヴァーグナーのなかで深く結びついていることの意味を明らかにする上で極めて示唆的である。
周知のようにヴァーグナーにおける「導音」と「半音」の使用は、『ニーベルングの指環』において完成される無限旋律の手法、すなわち作品全体が個々の部分における終止(カデンツ)を含むことなく最後まで切れ目なしに続く音楽の流れによって構成されるという「表現形成の原則」に直結している。この無限旋律の性格が、生産過程において働く不連続的な諸要素や諸条件を隠蔽し、作品全体に「自らを産出するもの」という「虚構」、すなわちファンタスマゴリーとしての外観を与えているのである。このことがヴァーグナーにおける「仮象」の完成を意味することはいうまでもない。「仮象の完成は同時に、絶対的な現われの領域において構成されながらも、現実の模倣であることを決して断念しないという独特な性格(スイ・ゲネリス)を伴なった現実的なものとしての芸術作品の幻影的な性格の完成に他ならない。ヴァーグナーのオペラには、ショーペンハウアーが『悪しき商品の外面』と名づけた目眩ましへの傾向が存在する。すなわちファンタスマゴリー(魔法幻灯)への傾向である」(46)。
こうしたアドルノのヴァーグナーにおけるファンタスマゴリーの起源に関する認識は、すでに触れたアドルノのヴァーグナー認識における音楽の優先という性格をはっきりと裏づけている。上記の引用の直後でアドルノは次のようにいう。「このことがヴァーグナーにおける和声とオーケストラの響きの優位の根拠となっている」(47)。ヴァーグナーの作品から繰り返し現われ出てくる「大規模なファンタスマゴリー」は、つねに「音というへと関係づけられている」(48)のである。ではこのことは、より具体的にヴァーグナーの作品のどのような性格へとつながっていくのか。
それは、『タンホイザー』の「ヴェーヌスベルクの音楽」におけるヴェーヌスの「遠くから聞こえる優しい歌声が促す」という言葉にあるようなファンタスマゴリーと響きの交錯につながっていくのである。アドルノはそれを、「新ドイツ楽派はシュレーカーにおいて楽派として自己解体してしまうまで音響上の目眩ましとしての『遠くからの響き』という考え方に固執してきた。その響きは、音楽を空間化することで停止させ、ちょうど遠くの町や隊商を間近な自然の光景に移し変えて慰めを与えてくれる蜃気楼(ファタ・モルガーナ)のように近さと遠さをまやかしに満ちたかたちで交差させながら、社会モデルを模写という魔法によって自然それ自体へと変身させてしまう」(49)といっている。そしてアドルノは、こうしたファンタスマゴリーと響きの交錯を、彼の微視的まなざしを通してヴァーグナーの作品のなかに跡づけていく。
(1)『タンホイザー』におけるファンタスマゴリー
アドルノがまず目を向けるのは、すでに触れたように「ヴェーヌスベルクの音楽」である。この場面は、『タンホイザー』の序曲(パリ版では序曲とバッカナール)に続く第一幕第一場、第二場にあたる部分で、かつての恋人エリーザベト、さらには聖母マリアに象徴されるキリスト教的聖愛(アガペー)の世界であるヴァルトブルクを捨てて、異教的性愛(エロス)の女神ヴェーヌス(ヴィーナス=アフロディティ。『ニーベルングの指環』序夜『ラインの黄金』に登場する美と健康の女神フライアとも対応する)の棲むヴェーヌスベルクの世界に赴いたタンホイザーが、ヴェーヌスとのエロスの快楽の日々に倦み疲れてふたたびキリスト教的聖愛の世界へ戻ることを思い立つというストーリーからなっている。だが一見すると単純なキリスト教護教論のように見えるそうしたストーリーの構成からのみ、この場面の持つ意味および性格をくみ尽くすことは出来ない。
アドルノのまなざしは、この場面の音楽の技法的性格に注がれる。「ヴェーヌスベルクの音楽(『タンホイザー』)の持つファンタスマゴリー的な性格は技術的なカテゴリーによって規定することが出来る」(50)。この場面に充溢しているのは、たとえばボードレールの「人口楽園」のイメージなどと共通する麻薬的な快楽と官能の魅惑である。ただヴァーグナーのこの作品においてはその効果が世紀末的なデカダンスを賞揚するためにではなく、今述べたようなこの場面の表面的な筋立てを密かに裏切るかたちで、じつはキリスト教道徳の不健全さ、虚偽を暴き出すために用いられている点に注目すべきである。つまりこの「ヴェーヌスベルク」の場面におけるキリスト教的聖愛の肯定性/異教的性愛の否定性の対比というストーリー構成の底には、建て前としての道徳秩序が支配する世界の不健全さ、虚偽に満ちた表層を抉ることによって見えてくる、エロス的欲望に彩られた深層の世界の自然性、本然性を顕わにさせるというヴァーグナーの表現上の意図が隠されているのである。このことはこの場面の音楽にもっともよく現われている。たとえば序曲の導入モティーフである「巡礼の合唱」の旋律 ―― それはいうまでもなく肯定されるべきキリスト教世界を象徴している ―― の鈍重さ、生気のなさと比べるとき、「ヴェーヌスベルク」の場面の音楽的モティーフの中心となっている「ヴェーヌス讃歌」の旋律の、情熱に満ち躍動的かつ溌剌とした印象は、ヴァーグナーが少なくとも音楽的には明らかにこの「ヴェーヌス讃歌」に象徴される異教的性愛の世界の側に加担していること示している。アドルノは、こうした「ヴェーヌスベルクの音楽」の持つ性格をファンタスマゴリーとしての性格として捉えた上で、そうしたファンタスマゴリーがもたらされる技法上のポイントについて解析を進めていく。
(2)縮小化
アドルノがこの場面の音楽の中心的な要素として見ているのは「縮小化(Verkleinerung)」である。「全体を支配しているのは、遠くから聴こえる音のイメージである縮小化されたフォルテである」(51)。より具体的にいえば、この「縮小化」は、もっともアルカイックな楽器であるピッコロフルートを中心とした「木管楽器の軽みを帯びた音」(52)によって表現される。そしてアドルノは、こうした「縮小化」が「鏡」としての作用をもたらしていると指摘する。「ヴェーヌスベルクはタンホイザーにとって縮小化されたかたちで現われる。それは、今でもときどき遊園地や郊外の寄席(カバレット)で見かけるあのタナグラ劇場の鏡装置を思い起させる。タンホイザーは、異教的な先史時代という遠さに根ざすバッカナールを自分自身の肉体という夢の舞台に映し出すのだ」(53)。
「縮小化」がもたらす「鏡」の作用は、近さとしての世界、すなわち今‐ここにある現実の世界のただ中に遠さとしての太古の世界を引き寄せる。近さとしての世界が近代に、遠さとしての太古の世界が神話(ミメーシス)に対応していることはいうまでもない。つまりこの近さと遠さの関係は、キリスト教的聖愛の世界と異教的性愛の世界の関係を、建て前とはまったく逆に、虚偽が支配する現実世界(近代)と真正なる自然=本然性が立ち現われるユートピア的世界(先史的ミメーシスとしての神話)との関係として捉えようとしているのである。とはいえこのユートピア的世界が今-ここという現実世界にとっては虚構にすぎないことは明白である。だからこそこのような近さのただ中へと引き寄せられた遠さのうちには、言い換えれば近さの経験へと、遠のいてしまっていた神話的・始原的な生の経験の質が回帰してくることのうちには、その虚構性に伴うファンタスマゴリーが必然的に宿されることになる。
こうしたファンタスマゴリーの性格をアドルノはさらに、「ヴェーヌスベルクの音楽」において和声進行の基盤としての「低声部の楽器が欠落している」(54)事実のうちに、あるいは『ローエングリン』の第一幕への前奏曲の冒頭における「和声進行の中断」(55)のうちに見ようとする。アドルノが見ようとしているのは次のような事態である。
「時間の静止状態とファンタスマゴリーによる自然の完全な隠蔽は、それゆえ星辰によって保証される時間以外のいかなる時間も知らない太古(アルカイック)を思い起こすことと結びつけられて考察される。時間の契機は、あの決定的な生産過程の契機となる。この契機を通してファンタスマゴリーは、永遠を演じるふりをしながら相手を欺くのである。時間のなかで日々や月々が一つの瞬間へと流れ込みひとつになるとき、時間は日々や月々の代わりに、瞬間を同時に持続として表現出来るようになる」(56)。
遠さとしてのアルカイックな始源の回帰的な現前、そこにおける「時間の静止」を通じた「永遠化」の仮象の現われが、継ぎ目のない完全に連続する全体性として受けとめられる美的仮象のあり方と重ねあわされるとき、ファンタスマゴリーは完璧なものになる。そう考えるならば、先に言及した「縮小化」という事態は、時間のモナド化として捉えることが出来るだろう。すなわち「縮小化」を通じて時間の経過が瞬間性へと接近してゆき、ついにはそこにほとんど時間性の構造を超出してしまうような時間なき時間(永遠の今)が現前するという事態、いわば瞬間性のうちに全体性と永遠性が凝縮され内包されるという事態が時間のモナド化に他ならない。そうだとするならば、ファンタスマゴリーがこうしたモナド化する時間(瞬間性)においてもたらされる全体性と永遠性をはらんだ全一性を、またそうした全一性による時間の継起的な性格およびそうした時間の継起的性格によってはじめて分節化される生産過程の不連続的な諸契機の隠蔽を意味することは明らかである。そしてこのようなファンタスマゴリーは、ヴァーグナーの作品世界にそくしていえば、ドラマの叙事的な進行が中断され、現在が音楽と協働しつつ「ここ‐今」として垂直に始原的なもの、全体的なものへと接合される瞬間、言い換えれば美的仮象の全一的現前の瞬間として捉えられることになる。アドルノがそうしたファンタスマゴリーの現前の例として挙げるのは、『オランダ人』における「ゼンタのバラード」の場面である。「この作品はもともと一幕物として構想され、ゼンタのバラードから始まっていた。この作品の現に上演されているかたちでさえ次のような瞬間へと還元出来るだろう。すなわちオランダ人が彼の肖像画が架かっているところへ――肖像画から、と考えたいところだ――現われ出てくる瞬間へと、さらには騎士を呼び出したエルザと同じようにオランダ人を呼び出したゼンタが、オランダ人と目と目を見交わす瞬間へと。このオペラ全体がこうした瞬間を時間〔の持続〕として展開しようとする試みに他ならない」(57)。
(3)ファンタスマゴリーと商品物神の接近
ではこうしたヴァーグナーのファンタスマゴリーをアドルノはどのように反省的に対自化しようとするのか。そもそもヴァーグナーのファンタスマゴリーには、自らのファンタスマゴリーの虚構性、物神性を非連続的に、つまり非同一的に浮かび上がらせ認識の覚醒を促す契機が備わっているのだろうか。そこでアドルノが着目するのはヴァーグナーのファンタスマゴリーとロマン派の隔たりである。「それでもヴァーグナーのファンタスマゴリーの輪郭がはじめて明確になるのは、それがロマン派の魔法音楽とはっきりと区別されることによってであった」(58)。
ではヴァーグナーのファンタスマゴリーとロマン派を隔てるポイントとなっているものは何か。アドルノは、パウル・ベッカーによりながらそれを、「ヴァーグナーは先行するロマン派との対立によって『本物の精霊』をもはや知ることが出来なくなっている」(59)ことに求める。ヴァーグナーにはロマン派が信じていたような本物の魔法や精霊はもはや存在しない。ヴァーグナーが代わりに持ち出してくるのは、ベッカーの言葉を借りれば、「非現実的なものの絶対な現実性という幻想」(60)であった。「それはファンタスマゴリーの非ロマン派的側面に当てはまる。ファンタスマゴリーにおいては美的仮象が商品の性格によって呪縛される」(61)。
ヴァーグナ―のファンタスマゴリーに内在する美的仮象と結びついた眩惑的性格は、もはやロマン派におけるような無媒介的なものではなく、すぐれて近代的な、言い換えれば近代社会の基礎的な構成要素である商品現象との深い関わりを通して現われてきたものである。より端的にいえば、ファンタスマゴリーの眩惑性(「夢」としての性格)は「商品」の幻想性(物神的性格)の裏返しの表現に他ならないのだ。いうまでもなく商品現象は、美的仮象が「遠さ」において対抗すべき「近さ」を体現する社会的・歴史的現象である。だが両者の関係は、ヴァーグナーのファンタスマゴリーにおいては単純な対抗関係にとどまらない。むしろファンタスマゴリーに内在する「遠さ」への志向、つまり美的仮象の絶対性を通じて可能となる始源的全一性としての「遠さ」の経験への志向が、それ自体として「近さ」の顛倒した現われとなっているのである。
アドルノは次のようにいっている。「それ〔ファンタスマゴリー〕は商品として眩惑に満ちている。非現実的なものの絶対的な現実性とは次のような現象の絶対的な現実性に他ならない。すなわちこの現象は、労働のなかでそれ自身の生成が喚起されるとともに、それと同時に、交換価値によって支配されながら使用価値を真なる現実性として、『真似しえないもの』としてことさら強調せねばならないが、それはあくまで交換価値を浸透させるためである」(62)。
アドルノの観点にしたがえば、あくまで交換価値の成立地平に定位される商品世界にとって個々の商品の「使用価値」としての固有性は幻想にすぎない。それはたかだかショーウィンドーに陳列された商品が示す、売らんかなのための眩示的要素でしかなくなる。美的仮象の絶対性も、それを通じた遠さとしての始原の現前も、商品世界を前提として考えるならば、すべて交換価値を彩る一種の空虚な装飾、見せかけ(Scheincharakter)にすぎなくなるのだ。それどころかファンタスマゴリーがもたらす全一性の経験、すなわち「非現実的なものの絶対的現実性」の経験は、交換価値の成立過程において働いている「生産過程」(労働)の契機をその仮象性を通して隠蔽することによって、最初の意図とはまったく逆に、近さとしての商品世界の物神的性格をイデオロギー的に正当化する役割さえ演じてしまうのである。こうしたファンタスマゴリーの虚偽性と商品世界の物神性のあいだの共犯関係を踏まえて、アドルノはヴァーグナーに対してまことに手厳しい裁断を下す。「ヴァーグナーの時代においては、店に陳列されている消費財は消費者大衆に対しその現象的側面だけを魅惑的なかたちで示している。そしてそれによって消費者大衆の手にはとどかないものだという、そのむき出しになった現象としての性格を忘れさせてしまう。それと同様に、ヴァーグナーのオペラはファンタスマゴリーのなかで商品へと近づいてゆく。それらの場面は展示的性格〔ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」参照〕を帯びてくる」(63)。
そこでは、遠さの根拠であったはずの自然もまた、「技術によってすきまなく模倣され自発的に服従するようになった自然」(64)に堕してしまう。もう少し正確にいうならばファンタスマゴリーは、自然が実際には「物象化された社会」(65)のもとで支配の対象として徹底的に簒奪され蹂躙されているという事実を、自然の始原性という仮象によって隠蔽すると同時に結果的には顕わにさせているのである。こうしたファンタスマゴリーの意味を、アドルノはふたたび「ヴェーヌスベルクの音楽」にそくして解明しようとする。
(4)商品生産の条件
周知のように、『タンホイザー』にはドレスデン版とパリ版というふたつの異なったヴァージョンが存在する。ドレスデン版は、一八四五年にドレスデン宮廷歌劇場でこの作品が初演されたときのヴァージョンである。その後パリで上演される際に、当時のオペラ興行の慣習にしたがってバレエの場面を組み入れるよう求められたヴァーグナーは、ヴェーヌスベルクの場面をバレエ(バッカナール)として再構成しなおしたヴァージョンを作曲した。このパリ公演の際の新たにバレエを組み込んだヴァージョンがパリ版である。アドルノはパリ版におけるヴェーヌスベルクの場面を、「この場面は、商品生産の条件が直接的なかたちでヴァーグナーの作品と触れあってくる唯一の箇所である」(66)といっている。すなわちこの場面には、興行習慣に基づいてヴァーグナーが作曲を行ったという外的条件を通じて、ヴァーグナーの作品世界と商品世界との関係が直接的に現われているのである。そうした条件を踏まえるならば、このヴェーヌスベルクの場面は、その音楽の魅惑的性格も含めヴァーグナーのファンタスマゴリーの持つ社会的文脈がもっとも露骨に現われている箇所ということが出来るだろう。
ファンタスマゴリーは、「商品生産の条件」がもっとも露わになるところで現われる。それははたんにファンタスマゴリーによってそれが隠蔽されるためだけではない。むしろ「商品生産の条件」の高まりと相即的にファンタスマゴリーの表現のほうも高まっていくのである。「夢がもっとも高みに達するとき、商品ともっとも近くなる」(67)。その根拠となるのは、「商品生産の条件」としての生産過程=労働の契機が交換価値としての商品の成立地平において隠蔽され消去されることと、芸術作品の成立過程における産出=創造過程の契機がファンタスマゴリーによって隠蔽されることとのあいだの相似性である。商品が商品であることの根拠としての交換価値と、それに包摂される使用価値のもはや擬似的でしかありえない仮象としての固有性との結びつきによる生産過程=労働の契機の隠蔽、商品の展示的価値の高まり(消費財化)という、ヴァーグナーと同時代の一九世紀資本主義社会で生じた現象は、ファンタスマゴリーが体現する、これまた擬似的でしかありえない美的仮象の絶対性によって芸術作品の産出=創造過程が隠蔽されること、そして結果的に芸術作品もまた消費財化していくことと正確に対応している。「夢みるものは無力なまま自分自身の像とあたかも奇跡に出会うように出会うのであり、自分自身の労働において生じるこのような決して逃れることの出来ない循環のなかに、それがあたかも永遠なるものであるかのようにとどまり続けるのである。自分で作ったことを忘れてしまっている物を、夢みるものは絶対的な現われだと巧みに信じ込まされるのだ」(68)。このことに対応しているのが商品の物神的性格であることはいうまでもない。
(5)ファンタスマゴリーからの脱出
ではヴァーグナーの作品に見出されるファンタスマゴリーの表現作用はただひたすら商品世界へと還元されてしまうだけなのだろうか。そこにはいかなる突破口も、脱出口も存在しないのだろうか。もしそうだとするならそもそもヴァーグナーの芸術作品を論じる意味はどこにあるのだろうか。このときアドルノの次のような文章が思い起こされねばならない。「夢の法則のもとでファンタスマゴリーは独自の弁証法に従う」(69)。この「弁証法」のなかに、ファンタスマゴリーはじつは自らの呪縛圏からの脱出の契機を潜ませるのである。
アドルノは、この「弁証法」をふたたび『タンホイザー』のなかで跡づけようとする。このときポイントとなるのは、「ヴェーヌスベルクの音楽」のファンタスマゴリーをつかさどっている異教的性愛の快楽の裏に潜むタンホイザーとヴェーヌスの訣別の契機である。「彼(タンホイザー)とヴェーヌスの訣れはヴァーグナーの作品のなかでも真正な政治的な契機のひとつである」(70)。というのも、この訣別にはヴェーヌスの体現する「快楽」とタンホイザーの求める「自由」とのあいだの屈折したからみあいが内包されているからである。
アドルノによれば、「タンホイザーのヴェーヌスへの忠誠はけっして快楽そのものへの忠誠ではなく快楽のファンタスマゴリーへの忠誠」(71)だった。そうだとすればタンホイザーは、ヴェーヌスとの快楽に溺れながらも、ヴェーヌスの快楽のうちに潜む真に固有な契機を捉えそこねていたことになる。つまりヴェーヌスの快楽の固有性はタンホイザーのなかではファンタスマゴリーの仮象へと溶解されてしまっているのである。そうした事情を踏まえるならば、タンホイザーが自由を求めてヴェーヌスのもとから逃げ出そうとするのもまた、ファンタスマゴリーのネガとしての意味しか持っていないことは明らかであろう。だとすれば、タンホイザーが快楽を求めてヴェーヌスベルクに赴いたことも、自由を求めてヴェーヌスのもとから逃げ出すことも、ともにファンタスマゴリーの呪縛圏の内部での彼の主観的な思い込みの現われでしかなくなる。タンホイザーが、ヴェーヌスの前と歌合戦の際と、二度にわたって「ヴェーヌス讃歌」を歌ったことの意味も、こうしたファンタスマゴリーのなかでの主観的思い込みの発露にすぎなくなる。アドルノはそのことを、タンホイザーのヴェーヌスに対する裏切りの本質的意味として捉える。「タンホイザーがヴェーヌスを裏切ったとすれば、それは彼が騎士たちのもとへと帰ったからではなく、戻った世界になじめずに夢に囚われながら騎士たちの前でヴェーヌス讃歌を歌ったからである」(72)。
快楽から自由への道は、ヴェーヌスベルクの「夢」というファンタスマゴリーから「歌合戦」において歌われた「ヴェーヌス讃歌」というもうひとつのファンタスマゴリーへの仮象的な移行にすぎなくなるのだ。だからこそタンホイザーは戻った地上の世界、言い換えれば近さとしての世界の支配秩序に復帰すること ―― もちろんそれは自由の実現などではない ―― も出来ずにその犠牲にされるのである。「この同じヴェーヌス讃歌を二度目に歌うことで、タンホイザーはかつてファンタスマゴリーへと逃げ込むために去っていった世界の犠牲にされるのである」(73)。
ところでアドルノは、タンホイザーの主観的思い込みの次元における快楽のファンタスマゴリーから自由のファンタスマゴリーへの移行が、「快楽が不自由として社会的に定義されるような経験においては欲動自体が病理へと移行する」(74)事態であるといっている。つまりそこでは快楽の病理への転化が密かに告げられているのである。このことはヴァーグナーの歪んだ禁欲倫理へとつながっている。そこに看て取れるのは、『啓蒙の弁証法』で指摘されている、生の自己保存欲求と「生けるもの(Lebendiges)」の抑圧のあいだの逆説的関係に他ならない。「病理と欲望が、生けるものの生き生きとした性格が保持されるためには生の抑圧が必要だと思いこんでしまう錯乱した見方ともつれあってしまっている」(75)。
だがこのことのうちにじつはファンタスマゴリーからの脱出の契機が隠されているのだ。「フルート自身がはっきり示している快楽の追放とともに、ファンタスマゴリーには最初からそれ自身の没落の要素が伴っている。眩惑のなかには眩惑からの脱却が含まれているのだ」(76)。
なるほどタンホイザーの快楽への志向も自由への志向もともに彼の主観的な思い込みにすぎない。その限りでは両者は連続的である。だがそのあいだに快楽の病理への転化が、つまり「快楽の追放」が差し挟まれることによって、さらにはそこから「生けるもの」の抑圧が始まることによって、はじめてファンタスマゴリーに非連続的な裂け目が生じるのである。そしてこの裂け目は、ファンタスマゴリーがファンタスマゴリーでしかないことを、言い換えれば仮象が仮象でしかないことへの覚醒を促してくれるはずなのだ。快楽のファンタスマゴリーから自由のファンタスマゴリーへの移行の過程には、ファンタスマゴリーの仮象的な全一性をひび割れさせ、その裂け目からファンタスマゴリーが隠蔽してきた社会的現実の傷跡を露呈させる契機が潜んでいるのである。それが病理である。ヴェーヌスベルクの快楽が病理でしかなかったとすれば、自由へと逃れようとするタンホイザーの主体も同じ病理に蝕まれているのだ。ここにファンタスマゴリーという「夢」からの覚醒の契機が出現する。このことは、ファンタスマゴリーの内部で展開される近さと遠さの、新しさ(近代)と古さ(太古=神話)の弁証法が、ファンタスマゴリーによって喚起されようとする宥和的な全一性の経験にではなく、むしろ本質的にはそうした経験の不可能性への目覚めに向かうはずであることを示唆する。それは同時に、ファンタスマゴリーのなかに含まれる退行的な契機(たとえば快楽)が、むしろ仮象の破壊をもたらすことによって解放に向けた前進的な契機になる一方、一見前進的に見える新しさの契機(たとえば自由の仮象による快楽の追放)が現にある仮象への固着を通して退行の契機になってしまう、というような逆説的事態の可能性をも示唆しているのだ。このことについてアドルノは、『試論』の「神話」の章のなかで次のようにいっている。
「ヴァーグナーの不変の人間本性という観念がイデオロギー的欺瞞であることが明らかになるとき、ヴァーグナーの意志に反して彼の作品に浸透している神話のそれ自体がこのイデオロギー的欺瞞を破壊するだろう。彼を神話へと駆り立てる親和力は、彼がまだ信じている人間性を同時に解体する。ヴァーグナー自身もそうであった根っからの市民にとって、もうすでにこの人間性という概念自体の足もとが危うくなっているのである。たしかにこの概念の無力さには何がしかの否定的な真理が、すなわちブルジョア的な秩序の下に隠されているカオス的な意識という真理が与えられている。だがそのカオス的な意識がこの概念をまさにブルジョア的秩序へと引き戻してゆくのだ。それがヴァーグナー的な退行の客観的根拠である」(77)。
アドルノは、神話的要素を含むヴァーグナーの楽劇をファンタスマゴリーという「判じ絵(レープス)」の解読装置だといっている。こうした「神話的楽劇」の規定を今引用した箇所の内容と重ね合わせるとき、そこにふたつの相反する契機のからみあいによって形づくられる弁証法的過程が現われる。ひとつの契機は、すでにファンタスマゴリーに関連して触れた「遠さ」による「近さ」への対抗という契機である。市民的な「人間性」に象徴される「近さ」に対して、神話は太古的な「遠さ」をもって対抗する。語呂合わせのようになるが、太古的な「遠さ」(神話)への退行を通して市民的なものの「近さ」(近代)へと対抗するというロマン派的な図式がそこには看て取れる。
だがその一方でアドルノが、神話をファンタスマゴリーの解読装置として捉えていること、そしてさらに退行的対抗としての「神話の暴力」が顕わにするとともに容赦なく破壊する、「イデオロギー的欺瞞」に満ちた「不変の人間本性」や「ブルジョア的秩序」の「無力さ」には「カオス的な意識の真理」というかたちをとる「なにがしかの否定的真理」が見出されるといっていることからは、ロマン派的図式とは明らかに異質な契機が生じているのである。「否定的真理」については、『試論』とほぼ同時期、ないしはやや遅れて書かれたアドルノの亡命生活の総決算の書というべき『ミニマ・モラリア』において次のようにいわれている。
「その〔ストラヴィンスキーの『兵士の物語』の〕痙攣的・夢幻的な強要によって音楽の世界にあらたに否定的真理の領野が開けて行ったのである。この曲の生まれた前提は貧困であった。この作品は公式文化を思い切りよく解体しているのだが、そういう次第になったのも、公式文化の豊富な手段を奪われるとともに文化にする虚飾の道が閉ざされたからである」(78)。
「否定的真理」とは、いわば否定性の反転によって生じる逆説的な真理である。貧困、無力、絶望といった「カオス」としての否定性の極みにおいて、そうした否定性がそのまま一個の真理へと反転する事態 ―― 、それが「否定的真理」の本質である。ではなぜそのような事態は起こるのか。それは、そうした否定性において生きる上での「豊富な手段」が奪われてしまっているからである。別ないいかたをすれば生の肯定性の条件が一切失われてしまっているということである。そのとき肯定性が跋扈する状況においては見えなかったものが見えてくるのだ。その結果肯定性に亀裂が生じる。しかもそれを可能にしているのは貧困や無力を強いる「神話の暴力」なのだ。そこにはたぶん亡命生活の強いる不如意に耐えてきたアドルノの複雑な思いが投影されているはずである。「神話の暴力」をごく具体的にナチズムの暴力と捉えることも出来るだろう。だが問題はそうした事実的・心理的文脈だけにとどまらない。なぜならそこには、ファンタスマゴリーの強いる「夢」からの覚醒のメカニズムが現われているからである。つまり「神話の暴力」として現われる退行的対抗の契機には、それと不即不離なかたちで覚醒の契機が、現にある「近さ」へと向けられた反省的認識の契機として結びついているのである。これは、前に言及したミメーシスにおける、分裂と矛盾にさらされる社会的現実の傷跡を映し出す鏡としての性格に対応している。つまり神話はその退行的対抗性を通じてファンタスマゴリーに対して社会的現実の傷跡を覆い隠し、「夢」としての仮象的全一性を生み出すように促しながら、同時にそこに「夢」からの覚醒、つまり「傷跡」についての反省的認識をもたらす契機をも秘かに潜ませているのである。ここではいわば神話からファンタスマゴリーに対して、ファンタスマゴリーの内部からファンタスマゴリーをうち破るための契機が与えられているのだ。このことによって「ブルジョア的秩序」への回帰とアドルノがヴァーグナーに関していっている事態、あるいはそこから看て取れるヴァーグナーの「反動的」的な性格もまた両義的な意味を帯びざるをえなくなる。というよりそうした意味を帯びる可能性が生じるのである。たしかにファンタスマゴリーにおいて「傷跡」の隠蔽を可能にする「ブルジョア的秩序」のイデオロギー的正当化が産出される。だがその一方で、「ブルジョア的秩序」への回帰=反動がそのまま「傷跡」についての反省的認識を促し、それによって「夢」からの覚醒を導く解放と前進の契機となりうる可能性もまた生み出されるのである
4.ヴァーグナーにおいて救わるべきもの
ここであらためてひとつの問いを提起しておきたい。すなわち、美的仮象の絶対性・全一性はついにファンタスマゴリーの虚偽性、仮象性へと完全に溶解してしまう他ないのか、美/芸術の契機が、批判的・反省的認識の覚醒という次元を超え、その美≒芸術としての直接性において生き延びる道はもはや完全に閉ざされてしまっているのだろうか、という問いである。このことに関して、「ファンタスマゴリー」の章に一箇所だけたいへん気になる文章が残されている。それは次のような文章である。「彼(タンホイザー)の離脱は見せかけにすぎない。彼はヴェーヌスベルクから歌合戦へ、つまり夢から歌へと赴く。そして彼を反逆へと駆り立てたものの痕跡は非凡な牧童の歌〔第一幕第三場〕のなかにだけ残されている。この歌は、夢と囚われの彼岸にある自然それ自体の創造性を、囚われた者にとってはたんに不自由さとしてしか見えない力と同じ力の所産として呼び起び寄せているのだ。ヴェーヌスが救われるのは『春の女神(フラウ・ホルダ)が山から降りてくる』〔同〕という言葉によってであって、タンホイザーの不実なヴェーヌス賛美によってではない」(79)。
アドルノが「ファンタスマゴリー」の章で肯定的な認識を示しているのは唯一この箇所だけあるといってよい。ここには今まで見てきたような苛烈ともいうべき批判と否定のトーンとは明らかに異なった要素が現われている。それはいったい何だろうか。
(1)ファンタスマゴリーの破れ目
タンホイザーのヴェーヌスベルクへの志向がそれ自体としてはファンタスマゴリーにすぎないことはすでに明らかになっている。だがタンホイザーのこの志向には、ひょっとすると彼自身も気づいていない本質的な「反逆」の契機が隠されているかもしれないのだ。つまりヴェーヌスには、その快楽の要素とともに、ファンタスマゴリーの次元をはみ出してしまうような真正の意味での「反逆」の契機・性格が隠されているのかもしれないのだ。そこからは、ファンタスマゴリーのヴェールの彼方にあってタンホイザーに真正の「反逆」を促すヴェーヌスという存在の本質への問いが浮かび上がってくるに違いない。
この問いに対する答えの手がかりとなるのが、アドルノの引用のなかに出てくる、「ヴェーヌスベルクの音楽」が終り、タンホイザーがヴェーヌスベルクを離れてふたたびヴァルトブルクへと戻ってきた第一幕第三場の場面の冒頭に歌われる、アドルノが「非凡な」と形容した牧童の歌である。引用文にもあるように、アドルノはこの歌のうちに、タンホイザーがファンタスマゴリーへの「囚われ」のために見逃してしまっている彼の「反逆」の真の意味の「痕跡」を見ようとするのだ。それは同時に、タンホイザーに「反逆」を促したヴェーヌスの存在をファンタスマゴリーへの「囚われ」のなかから真の意味で救い出すことの契機にもなる。そして重要なのは、このことが、ファンタスマゴリーのなかでたんなる支配の対象へと貶められてしまった自然に「それ自体の創造性」を恢復させようとするアドルノのミメーシス概念の核心的モティーフともつながることである。私は、この牧童の歌に、ヴァーグナーの芸術がファンタスマゴリーの虚偽性をまぬかれて美/芸術として生き延びる可能性をかろうじて見てとることが出来ると考える。
牧童の歌のポイントとなるのはまず第一にその歌詞である。アドルノが引用している歌詞の冒頭に「春の女神」という言葉が出てくるが、この原語「フラウ・ホルダ(Frau Holda)」はじつはヴェーヌスをさす古いドイツ語である。奇妙なことに、タンホイザーがヴェーヌスのもとを逃れてキリスト教の世界であるヴァルトブルクに戻ってきたその瞬間に、牧童の歌によってふたたびヴェーヌスの名が喚起されるのである。ここには明らかに、キリスト教的聖愛と異教的性愛の二元性という表向きのドラマの構造を裏切る要素が現われている。そしてそれこそが『タンホイザー』という作品のもっとも核心的なモティーフなのである。
ところで「フラウ・ホルダ」という名によって呼ばれるヴェーヌスは、キリスト教的の象徴である聖母マリアの対極に位置する異教的性愛(エロス)の女神としてのヴェーヌスではない。この名前は、キリスト教と異教の対立が生じる以前の太古の神話的世界における春の訪れを表わす一種のアレゴリーとしての意味を持つ。ここで春の訪れが、死の季節である冬が終り自然の豊穣さがふたたび帰って来ることを象徴しているのはいうまでもない。つまり「フラウ・ホルダ」は、春の訪れに象徴される自然の豊かな創造性の神話的アレゴリーなのだ。そして「フラウ・ホルダ」がヴェーヌスの太古的=神話的な名であるとすれば、ヴェーヌスの真の存在性格とはこの自然の神話的創造性であったと考えることが出来るだろう。牧童の歌にそくしていえば、牧童が「フラウ・ホルダ」と呼びかけるとき、キリスト教対異教、聖母マリア対ヴェーヌスという対立関係が消え、ヴェーヌスは異教的性愛の女神ではなく、太古=神話の原段階における「自然それ自体の創造性」のアレゴリーとして、イエスを生む母としての聖母マリアの意味をも包含しつつ出現するのである。このことの意味をより鮮明化するために、ここでフラウ・ホルダ=ヴェーヌスのイメージを、イタリア・ルネサンス絵画の画家サンドロ・ボッティチェルリの絵「プリマヴェーラ(春)」と対比させてみたいと思う。
(2)ボッティチェルリ「春」と「ヴィーナスの誕生」
このボッティチェルリの絵はその美しさもさることながら、そこに込められている深く謎に満ちた神話的寓意によって観るものの想像力を様々にかきたてる。そのタブローには、ほとんど奇跡的ともいえるような神話の形象化が、言い換えれば神話と美的仮象の真正な結びつきが表現されているといってよい。そしてこのことが、ヴァーグナーの芸術における神話的なものと美的な仮象の結びつきの解明のための極めて有力な傍証となりうるとともに、アドルノが『タンホイザー』という作品のうちに見出したほとんど唯一のファンタスマゴリーの破れ目、言い換えれば『タンホイザー』において真正なるものが覗く瞬間である「フラウ・ホルダ」の意味を明らかにする手がかりにもなるのである。
画面を見ていってみよう。まず右手からまず西風の神ゼフィロスが春の豊穣な息吹を春の女神プリマヴェーラ、つまり「フラウ・ホルダ」に吹き込み、それを受けて彼女が手を、こぼれ落ちんばかりの花をあたりにまき散らす花の女神フローラへとさしのべていく様が描かれていく。これはおそらくプリマヴェーラのフローラへの変身を表わしているのだろう。また画面の左手では三人の美の女神が輪舞する横で、神と神、人間と神、さらには善と悪さえも仲介し包摂するヘルメスが頭上の霧を払っている。そして画面の中央に位置するのはそれらすべてを見つめる美と愛の女神ヴィーナス(ヴェーヌス)である。こうしたアレゴリカルな図像イメージを通して、愛と美と豊穣が世界のすべてを包み込む至福のときとしての春の訪れの瞬間が神話的な次元において形象化されるのである。さらにこの絵と一対の関係にあるボッティチェルリのもう一枚の傑作「ヴィーナスの誕生」の裸身のヴィーナスのイメージをそこに配するならば、春の訪れの神話的イメージの核心にあるものが、若く匂やかな女神たちの輝くような美しさそのもの(女体美)であることも明らかになる。画面左手から生まれたばかりのヴィーナスに息を吹きかけているのがゼフィロスであり、ヴィーナスに衣を着せようとしているのがフローラであることはいうまでもない。この絵においてもまた、春の訪れが自然の創造性としてのエロスと美の完全な融合という神話的なイメージを通して表現されているのである。この神話的イメージが牧童の歌によって示されているフラウ・ホルダ=ヴェーヌスの持つ根源的な意味といってよいだろう。
ボッティチェルリ「春」(出典:http://www.daifoo.com/daifhp/info/firenze.htm)
ボッティチェルリ「ヴィーナスの誕生」(出典:http://allabout.co.jp/gm/gc/66348/3/)
だとするならば、タンホイザーがヴェーヌスベルクで体験したことは、キリスト教的聖愛と異教的性愛の対立のうちで生じたタンホイザーのファンタスマゴリーへの「囚われ」のなかで、爛れた性愛の快楽の担い手として現われるヴェーヌスではなく、そのさらに深層に潜む、神話的な自然の創造性とそれが帯びる美の絶対性の現われとしてのフラウ・ホルダ=ヴェーヌスだったことになる。牧童の歌は、このようなヴェーヌスベルクにおけるタンホイザーの体験の真の意味を、無自覚なタンホイザー自身に代わって明らかにしているのである。こうしてタンホイザーの、自分自身も知らなかった「反逆」の神話的意味が明らかになる。
このことは牧童の歌における音楽的側面にも現われている。ここで牧童の歌は基本的には無伴奏で歌われるが、唯一伴奏楽器としてイングリッシュホルンが使われている。この楽器の原型はシャルマイである。そしてシャルマイの起源は古代ギリシアのアウロスに遡る。アウロスはディオニュソスと深い関連を持つサテュロスのひとりが発明した楽器といわれている。つまりこの楽器はディニュソスにおける自然の始原的なエネルギーの熱狂的な発露と結びついているのである。
そしてそれはおそらくゼフィロスの春の生命の息吹きと重ねることが出来るであろう。アウロス=シャルマイ=イングリッシュホルンの系譜にはゼフィロスの生命の息吹き、あるいはディオニュソス=サテュロスにおける自然のエネルギーの熱狂的発露という神話的イメージが脈打っているのである。これがフラウ・ホルダ=ヴェーヌスを喚起する牧童の歌におけるイングリッシュホルンの使用の根源的な意味となる。とはいえ牧童の歌の音楽的意味はそれだけにとどまらない。
今述べたようにこの歌は基本的に無伴奏で歌われる。ところでこの歌以外にも、ヴァーグナーの作品のなかではしばしば、無伴奏で歌われる極めて単純な単旋律の歌が登場する。たとえば『トリスタンとイゾルデ』第一幕冒頭の若い水夫の歌や、同じ『トリスタンとイゾルデ』第三幕の冒頭で歌われるこれまた牧童による歌がそうである。とくに後者では『タンホイザー』の牧童の歌と同じくイングリッシュホルンが使われている。さらに『さまよえるオランダ人』の「ゼンタのバラード」も最初は無伴奏であったことをつけ加えてもよいだろう。これらの歌には一個の共通した性格が現われている。それは、これらの歌の、近代和声の響きを逸脱した古代・中世の旋法を想起させるようなメロディが、聴くものの意識の表層を突き抜けて直接意識の深層に、言い換えれば情念や本能的欲動、内的な衝動の層へと働きかけてくることである。それは人間の内なる自然の根源への働きかけに他ならない。それらの歌が登場する瞬間、ちょうど牧童の歌がヴェーヌスの意味をフラウ・ホルダの持つ意味へと変換することによって、表面的なドラマの構造の深層に潜む神話的な次元が顕わになるように、ヴァーグナーの作品におけるドラマの筋の叙事的進行が停止し、代わりに隠されていた神話的な始原性、全一性の次元が音楽との協働を通じて浮上してくるのである。このことは『試論』のなかで、「イメージを伴う仮象を破砕することは神話への内在を停止させることに他ならない。『ローエングリン』の場合、こうした破砕への衝動が、構想されているドラマの流れをせき止めてしまうくらい強力である。この作品では、『さまよえるオランダ人』が主人公とゼンタとの出会いの瞬間に『完了』してしまっているのと同じように、その第一幕でドラマが『完了』してしまっている」(80)といわれていることに対応する。より象徴的にいえば、「ゼンタのバラード」が歌われる瞬間、『オランダ人』のドラマ全体がそこへとのみ込まれ「完了」してしまうのである。そしてそれはいわば音楽の美的仮象を通して、「ドラマの流れをせき止めてしまう」陶酔と覚醒が同時に訪れる瞬間となる。ちなみにヴァーグナー最後の作品『パルジファル』では、無伴奏というかたちではないにせよ、「ドレスデン・アーメン」と呼ばれる教会旋法を始めてとして、近代和声の枠組みから逸脱する四度和声やエンハルモニーク転調の手法による調性の不安定化などの要素が意識的に使われている。そしてそれは技法的な次元だけにとどまらない意味を含んでいるのだ。
アドルノは『パルジファル』について、「舞台聖祓祝祭劇の理念は、ユーゲントシュティルの場合同様、まさしく芸術宗教 ―― ところでこのことばはさらに古く、ヘーゲルに由来している ―― の一理念なのである。美的形象に、その様式の気むずかしげな一貫性を通じて形而上的な意味を呼びださせよう、それというのも、魔力から解きはなたれた現実世界にはその意味の実体が欠けているから、というわけである。このような≪聖祓≫を実現するのが『パルジファル』の狙いである」(81)といっている。ヴァーグナーは、この最後の作品において今見たような音楽とドラマの叙事的進行の反転する関係を作品全体の原理として意識的に採用した。そのことによって『パルジファル』の音楽は、全篇が陶酔と覚醒の名状しがたい混淆を示すことになる。これがニーチェの感じたようにヴァーグナーのとめどない退行の現われ、つまり堕落、衰退の証明であるのか、それとも円熟した巨匠の隔絶した芸術的成就、達成であるのかはにわかには判断しえない。ただ少なくともそれが、ヴァーグナーにおける音楽を通した美的仮象の現われの最高にして最終的な境位であること間違いないだろう。このことは、美的仮象に潜むミメーシスへの志向、すなわち始原的な和解・宥和への志向が、ファンタスマゴリーの虚構性に全面的には解消されずに固有な契機として、ドラマの構造をいわば突き抜けるかたちで現出することを意味する。それが,アドルノのいうこの作品の「形而上的な意味」の核心である。そこには、アドルノが『ミニマ・モラリア』のなかで、モーツァルトの『魔笛』に関連していっている内容が結びつく。
「完璧な無用物であり、絶対的な無力においてその本領をあらわす美の魔力のうちには全能の仮象が否定的に希望の形で映し出されている。いわばこの世のありとある力試しを免れているのが美であり、合目的的なものが全面的に幅を利かしている支配権力の世界にあって、それを拒否しているのが美の全面的な無目的性である。現状がそれ自体の理性法則についてその徹底化を通じて行う否定ということがあるわけだが、現存社会もこうした否定によってのみ可能な社会に目を開かれるのであって、この事態は今日にいたるまで変わらない。観照のもたらす至福の核心は魔術から解放された魔力にひそんでおり、観照者の目に輝くのは神話の和解である」(82)。
興味深いことにこの引用のなかでは、アドルノの後年のふたつの主著、すなわち哲学面における『否定弁証法』(83)と、美学の面における『美学理論』の各々の思考の核心である「否定」と「美的仮象」がひとつにより合わされている。そのことによって、美的仮象がその頂点である無用なものとしての「無力さ」の現われ、言い換えれば合目的性による連関からの完全な解放を通して、その自律した輝きそのものにおいて仮象を内部から突破していく「否定」への道すじを示すのだ。そこに美的仮象における陶酔と覚醒の同時的な出現の根拠が存在する。ヴァーグナーにおいてファンタスマゴリーを媒介にしながら展開される神話と近代の関係には、今見てきたように、夢と覚醒の、魔術的陶酔と反省的認識の、呪縛と解放の複雑な弁証法的関係が含まれている。それは同時にヴァーグナーを通して頂点へと達した美的近代(モデルネ)の弁証法でもあるだろう。アドルノは、多くの手厳しい批判にもかかわらず、ヴァーグナーの芸術の核心にそのことを見ることによって最終的にヴァーグナーを救抜しようとしたのである。最後に『試論』全体でもっとも印象的といってよい文章を引用しておこう。ここにはアドルノがヴァーグナーにこだわろうとするもっとも深い理由が現われている。
「トリスタンの『どのようにその〔神々しく永遠な原なる忘却の〕予感は消えてしまったのか』〔『トリスタン』第三幕第一場〕という言葉は、無への予感を何かあるものへの予感として表現しているのだが、それは、完全な否定性が自分自身の規定性という輪郭のなかへとユートピア〔どこにもない場所〕というキマイラが囲い込む瞬間をしっかりと捉えている。それは目覚めの瞬間なのだ。あの『トリスタン』第三幕の始まりの、ホルンがオーケストラのなかでさながら空無と何ものかのあいだの境界線を超えるように響き、トリスタンがからだを動かした瞬間を哀しげな牧童の歌のこだまが捉えるあの箇所は、市民の時代の根本経験が人類によって完全に成就されるようになるときまで生き続ける箇所である。またブリュンヒルデの目覚め〔『ジークフリート』第三幕第三場〕という別な箇所は、この作品の中におけるあの目覚めの瞬間、すなわち目覚めの概念なしには無の概念それ自体もまた思考されえないような目覚めの瞬間の痕跡をとどめている」(84)。
「市民の時代の根本経験が人類によって完全に成就されるようになるとき」とは、いうまでもなく人類があらゆる支配や抑圧の軛から解放される「革命」の成就を意味している。それは階級なき社会の実現の瞬間に他ならない。ヴァーグナーの音楽がそのときまで生き続けるとするならば、それは、ヴァーグナーの音楽にそうした解放へと向かう革命的な潜勢力がはらまれていることの証明であるといえるであろう。これこそがアドルノの見出したヴァーグナー芸術の最終的な境位(エレメント)に他ならない。
(43)以下『試論』からの引用は『ヴァーグナー試論』訳書(髙橋順一訳 作品社 2012)のページ数で示す。100頁
(44)ラクー=ラバルト『虚構の音楽』(谷口博史訳 未来社 1996)
(45)一七世紀初頭のイタリアオペラにおいて提唱された、出来るだけ言葉の自然な抑揚やリズムに合わせる形で歌唱を構成する手法を指す。「劇的様式」ともいわれる。ヴァーグナーとの関連でいうと、そうした表現目的のため積極的に不協和音や半音階が用いられた点が注目される。ラクー=ラバルトは、『虚構の音楽』のなかでラップレゼンタティーヴォ様式の持つ歴史的・思想的意味を明らかにしている。
(46)100頁
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(60)同前
(61)同前
(62)同前
(63)105~106頁
(64)106頁
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(66)同前
(67)同前
(68)107頁
(69)同前
(70)同前
(71)同前
(72)同前
(73)107~108頁
(74)108頁
(75)同前
(76)109頁
(77)138頁
(78)Adorno: Minima Moraria. In: Gesammlte Schriften. Bd. 4 1971 S. 56(アドルノ『ミニマ・モラリア』三光長治訳 61頁)
(79)108頁(傍点筆者)
(80)149頁
(81)Adorno: Zur Partitur des >Parsifal< in Moments musicaux. In: Gesammlte Schriften. Bd.17 S. 51 1982(アドルノ『楽興の時』三光長治他訳74頁)
(82)Ders.: Minima Moraria. In: Gesammlte Schriften. Bd. 4 S. 256(『ミニマ・モラリア』 354頁)
(83)Adorno: Negative Dialektik. In: Gesammlte Schriften. Bd. 6 1970(同『否定弁証法』木田元他訳 )
(84)181頁(傍点筆者)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1161:210320〕
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