「関東防空大演習を嗤う」から88年 ―半藤一利の「遺言」に共感する―
- 2021年 4月 18日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市半藤一利戦争桐生悠々
1933年の関東地方防空大演習に当たり『信濃毎日新聞』主筆の桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)は「関東防空大演習を嗤(わら)う」を書いた。その一部を次に掲げる。
■将来もし敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我はあるいは、敵に対して和を求むべく余儀なくされないだろうか。なぜなら、この時に当たり、我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を打ち落とすあたわず、その中の二、三のものは、自然に我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来たり、爆弾を投下するだろうからである。そしてこのうちもらされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焦土たらしめるだろうからである。いかに冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生いかに訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく、投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである■
《黒い物体と白い物体―私の空襲体験》
初の東京空襲に私が遭ったのは、1942年4月18日であった。
私は、国民学校(当時の「小学校」の名称)2年生であった。
その黒い物体は、自宅正面の美容学校の向こうに現れ、正体が確認できないほどの速度で私の頭上を飛び去った。少し遅れてドンドンという重い音を聞いた。それが、洋上空母から飛び立ち東京・名古屋・神戸など5都市を奇襲した陸軍爆撃機B25の一機であり、後楽園内の高射砲陣地からの対空射撃と知ったのは、後日のことである。
私が二回目に東京空襲に遭ったのは、1944年11月始めであった。マリアナ基地からのB29初の偵察飛来である。それは11月24日に始まった東京爆撃の準備行動として1日に始まった。私がこれを見たのが1日だったかどうかはわからない。その後、自宅の地下に掘った防空壕で聞いたのは、恐怖を与える空爆音であった。日本軍の高射砲や迎撃戦闘機が打ち落とせない、高度一万メートルを行くB29は、1942年に見た黒い物体でなく、透明に見える白い物体であった。
《焼夷弾爆撃―カーチス・ルメイの新戦術》
このように始まった東京空襲は当初、軍事施設・軍需工場を高々度からの精密爆撃で破壊する戦術によるものだったが、ワシントンはこれを不成功とみなした。そこで木造家屋の密集した都市を焼夷弾により無差別爆撃する方針に変更した。45年1月のことである。マリアナ基地のハンセル司令官はカーチス・ルメイに代わった。
初の焼夷弾作戦は1月3日の名古屋空襲であった。その被害は死者48名、負傷者85名、罹災者1万名に達した。上空3000メートルから火の海と降り注ぐ焼夷弾の攻撃を初めて経験し市民は大きな恐怖を抱いた。一方、敵機が低空に飛来したので戦闘機と高射砲は邀撃体制が容易となり敵機に大きな損害を与えた。ルメイは短期間、この焦土化作戦を中止している。
桐生悠々は「まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすることあたわず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るがごとく(略)各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場」を演じ」「関東大空襲当時と同様の惨状」と書いたが、それが正に現実となったのである。
《「関東防空大演習を嗤う」から88年―半藤一利の遺言》
「関東防空大演習を嗤う」から88年が過ぎた。
その間に科学技術は、核戦争が勃発すれば世界が破滅する水準に達した。しかしその危機を制御する、政治や経済の技術は、一向に進歩していない。現に、一人当り世界上位11位目の米国(57,804ドル=2016年)が、同世界下位17位の北朝鮮(661ドル)からの恫喝を、無視することができなくなっている。変わった面と変わらなかった面とが併存している。アウシュビッツと広島を示現した人類に、理想は語れるのかといわれたのは、20世紀中葉であった。それから百年近くを経た今もこのニヒリズムは、人類の胸底に深く沈んでいる。
その実証主義で「歴史探偵」を自称した故・半藤一利は、10代後半時に敗戦を迎えた。当時の「大人」の言動を見て、半藤は「絶対」という言葉を使わないことを誓った。彼らの言動が「鬼畜米英」から「民主主義」へコロリと変わったからである。
敗戦時に国民学校4年生だった私は「絶対」使用の当否をいう知識も学識もなかった。
戦後日本の「平和と不戦」は、日本を「西側のショーケース」として保護した米国と「若者を再び戦場に送るな」といって「反戦平和」をうたった大衆の、「綱引き」の上に辛くも成立した、と私は考えてきた。
その「綱引き」は終わった。米ソ対立から米中対立への変化、戦争体験者の絶滅危惧種化によってである。米国は自衛隊による集団自衛権行使と米製兵器購入を、日本は改憲による対米従属の強化を行っている。それは「日米同盟の強化」の名の下に加速している。
《昭和史と戦争体験と「絶対」の発声》
半藤一利は、90年前後から実証的な「昭和史」を語り且つ書くようになった。
数年前からは、「絶対」という言葉を使うようになった。ルメイ司令官による、45年3月の無差別焼夷弾攻撃という残虐な東京空襲の体験を語るようになった。見事な絵筆使いで自ら書いた絵本も出版している。
21年1月30日にNHK・ETV特集で放映された「一所懸命に漕いできた~〝歴史探偵〟半藤一利の遺言」で発せられた半藤の言葉に私は打たれた。東大ボート部の選手として隅田川を生活の原点とした彼の遺言は、私の言いたいことを良く表現していると感じた。遺言は次の通りである。(一部を抜粋)
■「あのときわたくしは焼けあとに
ポツンと立ちながら
この世に〈絶対〉はないということを思い知らされました」
「絶対に戦争は勝つ
絶対に神風はふく
絶対に日本は負けない
絶対に自分は人を殺さない
絶対に・・・絶対に・・・
そのとき以来わたくしは二度と絶対という言葉をつかわない
そう心にちかって今日まで生きてきました
しかしいま
あえて〈絶対〉という言葉をつかって
どうしても伝えたい
たったひとつの思いがあります
戦争だけは絶対にはじめてはいけない」■
ジャーナリズムという「生き馬の目を抜く世界」に生きた人間が、「反戦」を理想として最後に選んだ重さをかみしめたいと思う。(2021/04/11)
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