リハビリ日記Ⅳ 47 48
- 2021年 4月 29日
- カルチャー
- 阿部浪子
47 有賀喜代子と娘、内田良子
庭木のツツジの花が4月になっても咲きそろわない。ぽつり、ぽつりと咲いている。木の手入れを怠っているせいだろうか。赤紫色の花びら。1つでも開花すれば、あざやかでうつくしい。早朝がたのしみだ。
町内会の回覧板がとどく。まず、自治会費(半年分)徴収のお知らせ。5220円。なにかと出費の多い地域である。つぎに、「せいめい」という広報誌を読んだ。町内にある児童養護施設、清明寮が発行するもので、第49号は、理事の下位桂子さんが寄稿している。
下位さんは、1955年に退寮した人の思い出話を引用して、寮生たちが、感染症の赤痢で苦しんだことや町民の無理解に悩んだことなどを紹介する。清明寮が開設してまもないころのことだという。
わたしも、寮の集団赤痢のことは覚えている。真夏のこと。連日、車で、患者が隔離入院のため避病院へ運ばれていく。わたしは往還にとびでて見送った。車のうしろ窓に同級のささきさんの姿が見える。他にも何人か乗っているようだ。彼女は病院でなくなり小学校にはもどってこなかった。子ども心に、もの哀しい風景だった。
いつの時代も、親がいないなど家庭の事情から施設に入所する子どもたちはいる。清明寮は定員120名だという。現在の寮生たちの、暮らしぶりや町民たちとの交流はどうなっているのだろう。読書好きの子どもはいるのか。下位さんには、最近のことどもも書いてほしかった。
友人のあつこさんが自転車で訪ねてくれた。自分の畑で丹精こめて作った新タマネギ。庭木からもいだみずみずしいレモン。そしていちご大福をいただく。〈小さいとき食べた干しいもは、しっとりしてて、おいしかったわね〉〈そう。トマトもこくがあった〉たしかに、今よりも食の、おいしさやゆたかさを実感できた。今は、大金をはたいても買えない。もはや記憶をなぞるしかないのだ。わたしは、あつこさんとはおない年。時間を忘れてしゃべった。ちょっぴり呂律がおかしくなるが、充実したひとときだった。
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49歳の主婦が小説家としてデビューする。1958年、第1回「婦人公論」新人賞を受賞した。有賀喜代子は、教師の妻でもあった。4人の子の母でもあった。処女作『子種』(中央公論社)の5万冊の印税をがっぽり手にした。子どもたちの学資になった。以後、長野の農村を舞台にした人間ドラマを発表する。くわしくは、拙文「有賀喜代子ーわたしの気になる人⑪」(ちきゅう座)を読んでみてください。
わたしが喜代子と会ったのは、喜代子70代のおり。夫の死を機に岡谷から、大学に進学した二男のいる東京に転居していた。
〈ほかほかの弁当買って寒い夜〉喜代子の川柳だ。アパートの1室で1人暮らし。その寂しさと孤独がにじみでている。アパートの階下に長男一家が住んでいた。
喜代子はよく、嫁のワル口をいった。しかし、いいつのったからといって解決はしない。なぜ喜代子は創作世界で、従来の姑と嫁の関係を脱却すべく格闘しなかったのか。たとえば小説「まぐそかぶせ」でも、姑と嫁の対話はいっさい描かれていないのだ。姑は上京して息子夫婦の部屋に滞在しているのに。有賀文学の限界であろう。
喜代子はよく、娘の自慢話もした。娘は心理カウンセラーの内田良子さん。児童・生徒の不登校やひきこもりやいじめの問題にとりくんでいる。有能な人だ。NHKのラジオ番組「子ども教育相談」やテレビ番組「日曜討論」に出演した。内田さんの、子どもの側にたった誠意ある発言が印象的だった。
自分の娘の可能性はあとおししても、嫁のそれについては抑圧したがる。姑根性は今でもやっかいな問題だ。喜代子の実生活上の姿勢を回想しながら、わたしは有賀文学の限界を思った。
48 小坂多喜子と娘、堀江朋子
「言いすぎではないでしょうか」この国の総理大臣の口癖だ。国会中継を聴いていると、とても気になる。「言いすぎ」なぞない。総理は質問する議員を制してはならない。議員もとことん総理を追及してこそ議論は深まるのではないか。総理の自信のなさ、貧弱さを露呈するせりふにちがいない。その肉声も陰湿だ。トップの存在は重要である。
リハビリ教室に行く。拙宅から7分のこの施設に通所して2年。わが後遺症は改善していない。気圧の状態が不安定なせいか。顔の右辺りに、砂つぶがあたったような違和感をおぼえる。発症後、S病院の理学療法士、T先生が、歩行できるところまで指導、訓練してくれた。教室では体操をしている。その継続に望みをたくすしかないのだろうか。
いつ終わるともしれない雑談に夢中の生徒がいる。のんきでいいな。トレーニングの順番がみだれる。週1回の体操日なのに。わたしはいらつく。
翌日。近所にドラッグストアがオープンした。建物には出入り口が1つしかない。敷地内も高齢者、身障者、歩行者へのあったかい配慮が感じられない。車優先になっていた。
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小説家の堀江朋子が1月2日、他界した。「文藝家協会ニュース」で知った。堀江さんは、昭和初期のプロレタリア文学運動で活躍した、小説家、小坂多喜子と詩人、上野壮夫の二女である。80年の人生を主体的、積極的に生きた人であろう。早大政経学部を卒業した、母自慢の娘であった。社交家で、酒豪でもあったようだ。『風の詩人ー父上野壮夫とその時代』(朝日書林)『西行の時代』(論創社)などの著作がある。
小坂多喜子は岡山商業学校卒業後、1930年、岡山の日清製粉につとめる父のもとから家出。上京する。神近市子のせわで戦旗社に就職。2か月後には、文芸雑誌「戦旗」の編集部員、上野壮夫と結婚するのだった。編集部には猪野省三もいたが、多喜子は〈冷たいが 仕事のできそうな〉上野壮夫を選んだ。かれの下宿におしかける。〈大船にのったような安心感をおぼえた〉と、多喜子は追想した。
わたしが川崎の多喜子の家をたずねたのは、上野が他界してほどないとき。〈だんだん、自分の書くものが尾崎さんに似てきたわ〉という。若いころから作家の尾崎一雄に師事していた。『わたしの神戸わたしの青春ーわたしの逢った作家たち』(三信図書)『女体』(永田書房)の著作がある。
しゃれた室内には、上野の葬儀用の写真が掲げてあった。美男だ。多喜子の言葉をかりれば、上野のもとには、女たちが〈アリのように〉集まってきた。上野は、花王石鹸でコピーライターをつとめたあと、自ら広告会社を設立している。
もてる夫に多喜子は煮え湯をのまされるのだが、とりわけ、新宿のバーのママとの情事は〈血を吐くほど苦しんだ〉多喜子は愛人宅にのりこんだ。その夫は〈風采のあがらぬ男で、七輪でサンマを焼いていたわ〉小説家、美川きよの元夫で、画家だそうな。
多喜子は上野と別れたくなかった。子どもたちにも愛着があった。〈あたしは、実母の顔を知らない。からだも弱かった〉と。
小説家の保高みさ子が、上野の情事について書くようすすめた。しかし、多喜子は書かなかった。〈書くことで、上野から離婚されたくなかった〉とも。
多喜子の小説が、身辺雑記の域をでないゆえんかもしれない。ただ、小坂文学は生活者の日常の視点を忘れていない。〈お母さんの文学は趣味だ〉娘の堀江朋子がずばりいったというのも、道理かもしれない。
小坂多喜子は、今もわたしには懐かしい人である。意志をつらぬいた人だ。率直で、誠実な人だった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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