僕らは理科が好きだった
- 2021年 5月 20日
- 評論・紹介・意見
- 教育阿部治平
――八ヶ岳山麓から(334)――
この2、3年のうちにかなりの友人知人を失った。あるものは死に、あるものはぼけた。もうそういう年齢なのだ。いちばん衝撃的だ ったのは中学の恩師木船清先生の死だった。奥様から訃報を知らされた時、私は全身の力が抜けた。
私たちは1946年に国民学校(47年に小学校)に上がった。小学校では「予科練(海軍飛行予科練習生)くずれ」や兵役から復員したばかりの、学力の乏しい先生が多く、なかには立方体もまともに書けない人がいた。生徒が質問をしたりすると、嫌みを言ったりなぐったりした。
木船先生は数学と理科の先生だった。私たちの前に現れた時、学生服を着ていた。先生は信州大学教育学部(直前まで松本師範学校)の短期養成課程(2年間)を卒業して、二十歳で私たちの学校へ赴任したのだった。
私自身が教師になってから気が付いたことだが、二十歳の新米にすればたいへん博識だった。先生から習うとみんなわかってしまうという感じだった。私は先生が円周率を教えた時のことを記憶している。
先生は、「円周は直径の何倍くらいだとおもうかね」と私たちに聞いた。だれかが3倍くらいじゃないかと答えた。「そうだ。だが、正しい答はすぐにはわからねぞ。円が大きくても小さくても必ず答えは同じだがね」といった。
私は「直径はわかるが、円周はどうやってはかるかなあ。円周がわからねと直径の何倍かわからね」といった。だれかが「糸を円周の上に乗せて、糸のたけを物差しではかる」といった。先生は、それは一つの方法だが、と言いながら中心から円周にむけて半径を放射状に細かく描いて、「この一つ一つは小さいが三角形とみることができる。これを鋏で切って底辺を一直線に並べると実際に近い円周になる」といって、直線の上にたくさんのぎざぎざを描いた。「江戸時代の関孝和という数学者はこうやって円周と直径の比を知ったのだ。偉い人だ」といった。
「π」という字を書いた。そしてπ=3.1415926535……とほとんど黒板の左から右いっぱいに数字を書いた。先生は私たちにこれを「サンイシイコクニムコー、サンゴヤクナク、サンジサンバ……」と記憶させた。
また「1から10まで足すといくつになるか」を教えたことも覚えている。55になることは、みんなそろばんをやっていたから55だと知っていたが、先生は筆算の方法を教えた。
1+2+3+4+5+6+7+8+9+10
10+9+8+7+6+5+4+3+2+1
「これを上と下を足す。そうするとどれも11になる。11が十あるから10をかける。それが二列だから2で割る。そうすると55になるというわけだ」「1から100まででもやりかたは同じだ。わけは自分たちで考えて見」といった。
「このやり方を湯川秀樹は小学校の時に知っていたっていうぞ」当時日本初のノーベル賞受賞者としての湯川秀樹の名前は私たちも知っていた。先生は「たいした人だなあ」といった。
しかし、先生の神髄は理科の実験にあった。
お盆が近くなると、子供たちは山麓の荒野に出かけ、キキョウやオミナエシや山ユリをとった。そこはいばらやススキのつづく荒地で、アカアリがアリ塚をつくっていた。アカアリは子供の草履履きの足にかみつき、液体をかけて痛い思いをさせた。かたき討ちにキキョウでアリ塚をつつくと花の色が青から赤紫に変わった。
誰かが先生に「どうゆうわけずら?」と聞いた。先生は、「そりゃあギサン(蟻酸)のためじゃねか」といった。私たちはギサンが何だか知らなかった。このあと先生はツツジだかアサガオの花に希硫酸を塗って色の変化を見せた。私たちにとって、これが化学反応なる現象を知るはじめだったかもしれない。
65年有余経ってもはっきり覚えているのは、カエルの解剖である。先生は私たちに「トノサマガエルを捕まえて来い」といった。みんな喜んで学校の周りの水田に行った。私たちはトノサマガエルを「ゴト」といった。教室は「ゴト」の鳴き声でにぎやかになった。
先生は一匹捕まえて、「気絶させる」といいながら、トノサマガエルの後頭部延髄(?)に針を刺した。ぐったりしたカエルの腹を開いて、内臓の名前を教えながら、絹糸で動脈を縛ってから、心臓を取り出した。「これに生理的食塩水をかける」――すると心臓はうごきはじめた。
次に別なカエルを気絶させてから、カエルの嘴に鋏を入れて頭を切り取り、下あごをかぎ状の針金にひっかけて、「見てろ」といって塩酸を背中に塗った。だらんとした脳なしカエルが後足でぱっと背中を掻いた。「頭がなくても足が動くら?背骨を走る神経が命令しているのだ。これが反射っていうものだ」といった。みんなその意外さにため息をついた。
先生は顕微鏡で花粉や土壌を見せた。貧しい装置しかない中、水の電気分解をやって水素の存在を教え、ツェッペリンの飛行船を語った。光合成の実験をやって植物の葉にでんぷんが形成されることを教えた。私たちはトリチェリーの真空やコリオリの力も実験によって知ったのだった。
たまに先生が「次の時間はなにをやるかなあ?」ということがあった。そのときは、男子はもちろん女の子も「ジッケン!!」と叫んだ。
先生の専門は地質鉱物学だった。そのためか岩石の種類や浅間山など火山のことを熱心に教えた。「この村の石はみんな八ヶ岳産の安山岩だ。アンザンとは何か。それはアンデス山脈のことだ」
また、今日のプレートテクトニクスにつながるアルフレッド・ヴェゲナー(先生はウェゲネルといった)の大陸漂移説の話をした。フォッサマグナを語った。「日本のど真ん中にでっかい溝がある。南北アルプスはその西側に沿ってできた。山脈の東側は海だった」 「だから長野県へは北から日本海がぐっと入り込んでいて、安曇平ではクジラが泳いでいたのだ。うそじゃない。おれの故郷の神社のご神体はクジラの背骨の化石だったんだぞ」
「大地は絶えず動いている」という話は、ほんとうかなという疑問とともに私たちの知りたがりの気持ちをかき立てた。先生の大学での同級生で小学校の先生をしていた人は、「あいつはホラ吹きだぜ」といった。だが、いま思えば、先生は自分が知って感動したことを生徒に教えたかったのだ。
私は地理の教師になってからも何かと先生に質問することがあった。1979年に休火山だったはずの木曽の御嶽山が噴火した。あわてて先生に連絡したが、先生も驚いたようだった。先生は「地震も噴火も予知はできない。とりわけ火山は地震ほど研究が進んでいない。
地震は日常的に起きるが、火山活動は万年単位だからね。だから休火山だの死火山だのというのは科学じゃない」といった。御嶽山はそれから35年後の2014年に大噴火をして63人が死んだ。
先生と対立したことがある。1961年ソ連がそれまでの最大級といわれる核実験をした。親友のNと私は、先生とこの核実験をめぐって論争した。私たちはソ連の肩を持って、「社会主義国の核実験は防衛的でやむを得ないものだ」と主張した。
先生は「放射能に色はついていない。社会主義国がやるなら良い、資本主義国なら悪いなどといえるものではない。ついこの間、お前たちは今後核実験をやる国は人類の敵だと言ったばかりではないか」と反論した。当時私たちは日本共産党の主張に共鳴していて、容易に引き下がらなかった。
その後の情勢の移り変わりは、私たちではなく先生の意見の正しさを明らかにした。だが、論争の中で「ものごとは実証的に、弁証法的に見るものだ」と先生にいわれたことは、その後のNと私のものの考え方に強い影響を与えたと思う。
私たちの中学卒業と同時に先生は編入試験を受けて信州大学教育学部の3年次に進学し、再び地質鉱物学を専攻した。大学を卒業するとまた中学の先生になった。生徒たちは私たち同様「ジッケン!」と叫んで、先生の授業を受けたがったことだろう。
先生は校長にも指導主事にもならなかった。「あんなものになったら、雑用に追われて生徒の相手をする時間が無くなる」といった。退職後は「町の公民館の留守番をしている。おれ、いつも公民館で昼寝をしているから遊びに来いよ」とのことだった。今思えば遊びに行くべきだった。
すぐれた教師とはどのような教師か、と考えるとき、私はいつでも木船先生を思い出す。意識せぬ間に、ものごとに向かう姿勢を教えられていた。先生のおかげで、私たちはみんな理科が好きだった。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10898:210520〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。