本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(309)
- 2021年 5月 28日
- 評論・紹介・意見
- 本間宗究本間裕金融
中央銀行のテーパリング
現在、世界各国における「中央銀行のテーパリング」が話題になっているが、この点については、全くの「的外れの議論」のようにも感じている。つまり、「中央銀行のテーパリング」というのは、最初に、「中央銀行の国債買い付け」を意味する「QE(量的緩和)」が存在し、その後、「国債の買い付け金額の縮小」という、いわゆる「テーパリング」が発生するからである。別の言葉では、「なぜ、中央銀行が、国債の大量買い付けを実施しなければならないのか?」が理解されず、単に、「買い付け金額の縮小は、株価の暴落につながる恐れがある」というような意見が頻発している状況とも言えるのである。
より具体的には、かつて「禁じ手」と言われた「中央銀行の国債買い付け」が、現在では、「積極的な推奨行為」とみなされているだけではなく、「金融システム」に関する理解が不足しているために、「なぜ、中央銀行が国債を買い付け、超低金利状態を維持しているのか?」という理由も、全く無視されている状況となっているのである。つまり、「1945年の日本」と同様に、「思考停止の状況下で、根拠のない意見が議論されている状態」であり、このことも、「金融敗戦が近づいている状況」を表しているようにも感じている。
そのために、現時点で必要なことは、「過去数十年間に、どのような変化が発生したのか?」を正確に理解することである。具体的には、「1980年代の初頭に誕生したデリバティブが、2000年前後から急拡大した展開」を、具体的な数字で把握することであり、また、「なぜ、日本を中心にして、過去20年余り、超低金利状態が発生したのか?」を考えることである。
そして、この点に関して、最も重要なポイントは、「デリバティブ」という金融商品が産み出した「大量のデジタル通貨」の存在でもあるが、実際には、「金融商品の二面性」である「商品と通貨が、同時に産み出された状況」だったのである。ただし、「2008年のリーマンショック」以降の状況としては、「デリバティブのバブル破裂」により、「商品の性質」が失われたものの、「インフレでしか消滅しない性質」を持つ「デジタル通貨」の存在より、「時間稼ぎ」が可能な展開だったことも見て取れるのである。
つまり、今までは、「中央銀行が、国民の資金を借りて国債を買い付け、超低金利状態の維持が可能だった」という状況だったが、現在では、「デジタル通貨の枯渇」、そして「中央銀行の紙幣大増刷」が理解され始めるとともに、「貴金属」のみならず、「木材」や「穀物」などにも、大量の資金が流出し始めているのである。(2021.4.26)
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宗教と哲学
現在は、「お金が神様となった時代」であり、かつての「宗教や哲学」は、ほとんど忘れ去られた状態となっている。つまり、「神は死んだ」という「ニーチェの言葉」に代表されるように、「科学的に証明されないものは、存在自体を信用すべきではない」というような認識が世界的に広まった状況とも言えるが、この結果として発生した出来事が「地球環境の悪化」であり、また、「新型コロナウイルスの発生」だったものと考えられるのである。
別の言葉では、「西暦1200年から2000年」という「西洋の時代」において、「人類の驕り」がピークに達し、その結果として、「大自然による人類の淘汰」が始まった状況のようにも思われるのである。つまり、「文明法則史学」が教えるとおりの展開とも言えるようだが、この点に関して、最も重要な役割を果たしていたのが、やはり、「救いの概念」だったようにも感じている。
具体的には、「お金を持っていれば救われる」とういう認識のことだが、この点については、「西暦400年から1200年」の「東洋の時代」において、多くの人々が抱いた「神を信じれば救われる」という認識と同様の状況のようにも感じている。つまり、現代人は、影も形も存在しない「単なる数字」を保有することにより、「自分の人生は安泰だ」と考えているようだが、このことは、「800年前の人々が、念仏を唱えれば、自分の来世も安泰だ」という理解と同様の状況とも思われるのである。
別の言葉では、現代人が、「お金の謎」を考えず、「お金の所有」だけに拘った結果として、「マネーの大膨張」が発生し、今後は、「紙幣の大増刷が引き起こす未曽有の規模の大インフレに悩まされる展開」が想定される段階のことである。そして、この事実を応用すると、「宗教と哲学の違い」も理解可能な状況とも思われるが、実際には、「神とは何か?」、あるいは、「自分は、いったい、何者なのか?」などを考えることが、本当の意味での「哲学(フィロソフィー)」、すなわち、「知を愛すること」とも思われるのである。
つまり、これから必要とされることは、「現代人は、何を理解し、何が理解できていないのか?」を根本から考えることであり、具体的には、「ギリシャ神話」や「ウパニシャッド哲学」にまで遡り、「今までに、人類は、どのようなことを考え、どのような発見をしたのか?」を考えることとも思われるが、結果としては、この方法が、現在の問題解決における「最短の道筋」のようにも感じている。(2021.4.27)
本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
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〔opinion10941:210528〕
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