コロナとオリンピックだけが問題なのか
- 2021年 6月 5日
- 評論・紹介・意見
- オリンピック小原 紘新型コロナウィルス日本維新の会
韓国通信NO670
オリンピックまで2か月を切った。政府も東京都もJOCも中止する気はないらしい。開催国をはじめ全世界から歓迎されないオリンピックは前代未聞。商業主義に堕したオリンピックは止めたほうがいい。最終決定がどうなろうとも結果は空前絶後、「自爆」に等しい。
都民を対象にした世論調査-内閣支持率16.1%、不支持64.4%には驚いた(東京新聞/5月25日)。不支持の理由にコロナとオリンピックをあげていた。「その他は満足ですか」と聞いてみたい気がする。安倍政権の置き土産、それを継承した菅政権の責任が問われているはずだが、喉元を過ぎれば、「他の政権よりましだから」と元の木阿弥になるのは目に見えている。
昨日の夕食のメニュー思い出せない。だが、「モリ・カケ・サクラ」、虚偽答弁を108回も繰り返した前首相の政治の私物化、後継首相父子の公私混同。側近たちの収賄事件と官僚たちの忖度ぐらいは忘れないでおこう。
まとも政治を期待したいところだが、「頼りない野党」と、おきまりの野党批判を繰り返す評論家たちに同調すれば権力者の思う壺だ。
問題はコロナとオリンピックだけではない。「オリンピックありき」で、80%を超す声を無視して強行開催に突き進む独善的な政治体質そのものが問われている。わが国の民主主義は仮死状態にある。
松井大阪市長への手紙―教育現場からの訴え
大阪の公立小学校の校長が松井大阪市長に宛てた「豊かな学校文化を取り戻し、学びあう学校にするために」(5月20日)という提言が反響を呼んでいる。
その提言は、緊急事態宣言下、オンライン学習による教育現場の混乱によって子どもたちの学ぶ権利が侵害され、親と教員の負担増は極度に達したと警鐘を鳴らす。公平に学ぶ喜びを与えるべき教育の使命がおざなりにされてきたところへ、コロナによる混乱が一層拍車をかけた。市当局の現場を無視した場当たり行政に我慢できず、文書を送ったのは木川南小の久保敬校長(59才)だ。
「出来る子」「出来ない子」を選別する教育は本来の教育ではない。すべての子どもの成長を願い、子どもたち誰もが幸福になる権利は最大限尊重されるべきだ。子どもたちは共に学び生きることを学んで欲しい。なのに、「役に立つ人間」を目標に「出来る子」を育てる管理教育、過酷な人事考課によって教員も過密な労働で気力を失っている。このままでは「不登校」「いじめ」が蔓延し、自殺者も増えるに違いない。児童同士が信頼しあい、共に支えあう教育を取り戻したい。訴えは切実そのものだ。根本的な教育の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したい。教育行政の責任は重大、と提言は結ぶ。
まず、教育者が自らの教育信念を公然と発表したことを評価したい。いつから教育者たちは教育を語らなくなったのか。官僚は「忖度」、教師は「委縮」と言われる時代に、理想を語ったこと自体が素晴らしい。理想を語ることを軽侮する時代、教育者が教育を語らない時代になったら、教育は死んだのも同然だ。久保校長は「今まで黙ってきた自分は、どうなんやろっていうのを、自分で問いかけた」と取材に答えている。勇気のいる行動だ。
不満なら「やめてもらう」「組織を出るべき」
案の定というべきか。朝日新聞デジタル版(5月20日)では、松井市長が取材に応え、教職員には「耐えられないなら、仕事を変えたほうがいい」、校長には「従えないなら、組織を出るべき」と語った。
「言えないことをよく言ってくれた」と提言を評価する教員がいる一方、市長は歯牙にもかけず、「組織を出るべき」、つまり退職を求めたのには心底呆れた。日本維新の会の党代表である松井氏から政党の匂いが芬々と匂ってくるではないか。
独善・傲慢・切り捨てがはびこる社会
松井市長の思いあがった姿勢は大阪だけの問題ではない。日本中いたるところで権力者の独善と傲慢、切り捨てが目に余る。明治以来、国家権力を頂点とする「お上」に楯突くことは許されなかった。もちろん批判して弾圧された人もいたが。敗戦後、民主化が図られたが、誤解の多い「多数決」原理と少数者排除の社会風土は変わらず残った。
「不満があるなら辞めてもらいたい」という言葉はどこかで聞いたセリフだ。私が就職したのは50年前のことだが、その頃も、企業では、文句を言わずに働けという会社を批判すると「不満ならやめていいよ」という言葉が周囲から飛び交ったものだ。
今は少しまともになったかと思うとそうではない。非正規雇用を始め多くの労働者が企業の都合で整理される時代。不満もろとも労働そのものが切り捨てられる時代だ。国のために、会社のために個人がないがしろにされる時代は今も昔も大差ない。
コロナで重症患者を収容できなくなった大阪は、ムダのない効率行政という名の福祉切り捨てで、府民の命さえ守れなくなった。
教育も社会も、「生き抜く世の中」から、一人ひとりの幸福のために謙虚に「支えあう」ものでなればならないと、久保校長も力説する。コロナで明らかになったのは真空パックのような政治の不在と独善と傲慢がはびこる社会だ。
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