リハビリ日記Ⅳ 49 50
- 2021年 6月 8日
- カルチャー
- 阿部浪子
49 大久保友紀子のトラウマ
買い物の帰り道、タマエさんの家の前までくると、バラの花が目にとびこんできた。大きな茶色のかめに植わった1本の木に、赤い夏バラがいっぱい咲いている。とてもあざやかだ。ここはサッちゃんの実家でもある。小さいころよく遊んだが、サッちゃんは乳がんで死んでいた。帰郷して再会をたのしみにしていたのに。
「講演のキャンセルに困っていませんか。」せんだって、作家の森まゆみさんが「文藝家協会ニュース」のコラムで訴えていた。コロナ禍以降、森さんの年間20回くらいあった講演やシンポジウムがすべてなくなっているという。日程をあけレジュメなども用意していたのに、2週間前になって中止を伝えてくる。依頼した公務員はなんら支障はない。しかし、フリーランスの作家は減収につながる。せめて違約金なりキャンセル料なりを出すべきだと、森さんは要求する。森さんの言い分はもっともだ。怒りも当然だ。レジュメの作成ひとつをとっても、手間がかかる。わたしは読書会の講師の仕事が、コロナ禍のために延び延びになっている。もし中止を伝えてきたら、当然の言い分を主張するつもりだ。
近代文学・プロレタリア文学の研究家、大和田茂さんから『初期社会主義研究』(初期社会主義研究会)第29号がとどく。「1920年前後 東アジア」の特集号だが、大和田さんは「平沢計七における中国・朝鮮人労働者問題」と題する論文を寄稿している。日ごろの研究成果だ。まず、平沢の社会劇「非逃避者」をめぐって平沢の思想、姿勢が検証される。
大和田さんがこれまでに発表した論文によって、あまり知られていない平沢計七の全体像はくっきりしてきた。大和田さんの平沢にうちこむ愛着も半端でないことがわかる。
労働の実体験をもつ平沢は、主義の人ではなく、人間への公平な目をもち弱者に愛情をよせる人である。その文学作品には、今の時代にも通じる社会問題がよこたわる。平沢は現実と真摯にむきあい、問題意識をふかめている。「逃げはしない」その姿勢には、ちからがこもる。大和田さんの論文からそんな印象を、わたしはいだいた。
伊藤野枝研究家の小池善之さんの「新刊紹介」も興味ふかかった。作家の村山由佳著『風よ あらしよ』(集英社)について、小池さんは評価する。「野枝にかかわる史実をきちんと」しるし、「村山の想像力」によって、野枝が「より豊かに」描かれていると。女性解放論者、伊藤野枝はアナーキスト、大杉栄の自由恋愛の相手の1人だ。わたしはこの新刊書が読みたくなった。
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大久保友紀子は、常磐線沿いの借家に1人で住んでいた。〈もし、東京の社長さんがこの家を貸してくれなかったら、あたしはホームレスになるところだったわ。面接したけど、この人ならいい、といってくれた〉。家賃2万円。老齢年金9万円。
友紀子を何回か訪ねるうちに、彼女の身体にきざまれた歴史の一端を、わたしは知ることになる。彼女は日本共産党の赤旗編集局につとめていた。党幹部の講義の速記録をとっている。党の「行動綱領」も担当した。その記録が紛失するという事件にまきこまれ、降りかかったぬれぎぬを晴らそうとするのである。
党は「25年問題」をめぐり、主流派と反主流派がはげしく対立していた。そのはざまで彼女は孤軍奮闘する。どんなに苦しかったろう。西沢隆二が〈あんたがいると党が2つに割れるからやめてくれ〉という。さらに、党の分裂を画策していた伊藤律につきまとわれる。よくラブレターがとどく。〈幼稚っぽい作文だった〉そうな。伊藤は、ぽんぽんものをいう彼女を情報のアンテナにしたかったのかもしれない。
友紀子は、男組織のなかで、パワハラとセクハラをいちどきに食らったようなもの。編集局を辞めるが、その間の苦悶は、彼女のトラウマになって、晩年まで苦しめるのだ。
友紀子は、越し方をふりかえってつぶやく。〈職場に権力闘争があるなぞ予想もしなかった。情けない。でも、あたしは負けちゃいられない。歯を食いしばってやってきた〉と。
くわしくは、拙文「大久保友紀子ーわたしの気になる人⑨」(ちきゅう座)を読んでみてください。
50 小坂多喜子の堅実な眼
辺見庸さんの『コロナ時代のパンセ』(毎日新聞出版)の書評を書いた。「信濃毎日新聞」の6月20日付読書欄に掲載されるという。担当デスクから連絡をうけたとき、全身にじーんとあたたかいものが流れた。発症してから5年。ここまでこられた!うれしい。
「信濃毎日新聞」には、三島利徳さんなど、たくさんのデスクのおせわで、書評が25年も執筆できた。三島さんは文化部を退職して、現在は、長野県カルチャーセンターで文章講座の講師をしている。「農民文学」の編集長もしている。デスクの、畑さん水越さん斎藤さん豊田さん飯島さん花崎さん工藤さん増田さんは、今どうしているだろう。
5月末日。定期受診の日だ。すずかけセントラル病院に行く。きょうは血液検査とMRI検査がある。早朝の院内はひっそりしていた。清掃員たちの姿があわただしい。入院しているときによく言葉をかわしたのりまつさんとばったり会う。心がほかほかしてくる人だ。〈まだ働いてるのよ〉とにっこり。気持ちのいい人だ。
診察の待合室に移動する。病室がおなじだったはやしもとさんと再会する。わたしたちは、理学療法士、T先生のおしえごだ。はやしもとさんは、話のできる聡明な人だった。
翌日はリハビリ教室へ。脚の体操のひとつに「健康ゆすり」がある。わたしはまだ苦手なのだ。俗にいう貧乏ゆすりだが、上手にできない。
通所して2年2か月がたつ。生徒はほとんどが女性。男先生にとりいろうとする。ごますりは卑屈な態度だが、それも、高齢者が軽んじられているその裏返しかもしれない。とりのこされたくないという、老女たちの戦略かもしれない。が、男先生こそ毅然としてほしい。さちこさんのせせらわらいも、わたしは気になっている。いやだ。他人をこばかにしたようなせせらわらい。彼女には他人にあたえる印象に気づいてほしい。
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小坂多喜子は、岡山商業学校卒業後、上京するまで銀行に勤めていた。事務員にあこがれて女学校には入学していない。〈それが失敗だった〉と多喜子はいうが、向学心は旺盛だった。上京後、神近市子をたずね、さらに「女人藝術」の主宰者、長谷川時雨をたずねている。〈着流し姿で2階からおりてきた時雨は、両腕がみえなかった。初めての人間を品定めしているようでしたよ〉。翌月、多喜子は上野壮夫と結婚する。
プロレタリア文学の作家、小林多喜二が特高警察に虐殺されるのは、1933年2月20日のこと。多喜二の遺体が自宅にもどると、多喜子も、上野とともに弔問するのだった。
そこへあわただしく、ハウスキーパーの伊藤ふじ子がかけつけ、多喜二に接吻して、さっと去っていったという。多喜子はそのときの様子を「小林多喜二と私」のなかに書く。〈虚飾をまじえず、そのまま書いた〉と、わたしに話した。簡潔な文章で書かれ、小坂作品のなかで最も注目された作品だ。わたしは、多喜子の堅実な眼を感じる。
この作品を作家の澤地久枝が「小林多喜二への愛」のなかで引用している。多喜子は批判して、わたしに話した。〈澤地さんは、自分の理想や観念を鋳型にあてはめて書いている。時代にたいする目配りに欠ける〉と。現実のふじ子像をつくるべく、澤地は心を砕いていないというのだった。
なお、文中のハウスキーパーとは、昭和初期のプロレタリア解放運動にあって、男性の、世間の目をごまかすための同棲者のことで、実質は妻とおなじことをし、金銭の提供もしていた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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