まず国家意思を形成し、これを国民意識に刷り込む。ー 戦争もオリンピックも同じ手口だ。
- 2021年 6月 21日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤藤一郎
(2021年6月20日・毎日更新連続第3001回)
A 最近、つくづく思うんだ。オリンピックって、戦争によく似ている。もしかしたら、政府はオリンピックに名を借りて、戦争準備の練習をしようとしているんじゃないのかな。
B これはまた、とてつもないことを。オリンピックは平和の祭典じゃないか。戦争とは真反対だと思うけど。
A でもね、中国への侵略も太平洋戦争も、東洋平和のためだった。古来どんな戦争も、平和を実現するためやむを得ないものとして行われた。「平和」の看板を鵜呑みにしちゃいけない。
B だからといって、オリンピックが戦争と似ているというのは、よくわからない。オリンピックが戦争の練習というのは、なおさらだね。
A 「よく似ている」がわからないはずはないだろう。今回東京オリンピックなんて世論調査じゃ到底無理だと思ったが結局は断固やることになりそうだし、専門家のご意見をよく聞いてなんて言うのも真っ赤なウソ。要するに、国家意思は決まっているんだ。着々と実行あるのみ。戦争と同じだろう。
B とは言え、国家や政権だけでは、戦争もオリンピックもできやしない。国家意思を国民に支持してもらわねばできないことじゃないのか。
A 国民の自発的協力なくして戦争はできない。だから、官民あげての国民精神総動員体制を作らなければならない。そのための大義をでっち上げ、これを国民に吹き込む。そのために、国の中枢から隅々に至るあらゆる機関が動員される。メディアや、学校や、企業や、町内会や、ボランティアや…。この点、戦争だけじゃない、オリンピックもおんなじだ。
B 問題はその大義だ。多くの人を動かすためには正義のスローガンが必要というのは、そのとおりだろう。でも、戦争とオリンピック、大義が同じであるはずはない。
A 問題は大義の中身じゃない。重要なのは、どれだけ強く、どれだけ多くの人を動かせるかだ。その目的で大義は作りあげられる。かつては、「皇国の御稜」やら「国体の護持」やらが持ち出された。「八紘一宇」や「暴支膺懲」などというとんでもないものもあった。こんな荒唐無稽のスローガンをいい大人たちに信じ込ませて、国民の大多数を欺すことができたんだ。そして、欺せない人々は非国民とし弾圧して黙らせた。
B それはそうかもしれんが、戦前と戦後は違う。戦争とオリンピックは、もっと違う。現実に、東京五輪反対と言える世になっているではないか。
A 戦前と戦後、大した違いはないように思えるね。誰かが笛を吹けば、みんなが踊る。この挙国一致体質あればこその、オリンピック開催じゃないか。確かに今は何とか、オリンピック反対とは言える。しかし、必死になって言い続けないと、たちまちものを言えない世になりかねない。
B それはともかく、国民精神総動員オリンピックの大義とは、いったい何だね。
A まずは、経済効果だろうね。国際交流とは、経済的にはインバウンドの客を呼び込むことだ。オリンピックは確実に国外消費者の呼び込みにつながる。景気の回復にも寄与する。予算もふんだんに使える。この点も戦争と似ている。おおきく儲けることができるのだから、財界の強い支持を獲得できる。
B それが、そんなに不当なことかな。正当な大義として認めてもいいんじゃない。
A 平和とか国際交流の本音がインバウンドの拡大ということ。それはそれで、目くじら立てるほどのことではない。もう一つの本音が、ナショナリズムの高揚だ。
B ナショナリズム高揚は不当なことかい?
A ナショナリズムは常に危険なものだ。民族差別・人種差別につながる。国の内側に向けては国論の統一を強要し、国外との関係では軋轢を煽って国際紛争の原因ともなる。
B ナショナリズムも愛国心も、独立国家を支える国民意識として肯定してよいと思うね。対内的な国論のまとまりも必要だし、国際社会が国民国家を単位として成立している以上は国際関係とは、各国のナショナリズムの調整ということだ。
A そういう楽観論が危険だと思う。ナショナリズムとは、あるべき理念ではなく、実在するエネルギーとして人々をとらえている。これをアンダーコントロールすることは非常に難しい。
B 責められるべきは、ナショナリズムそのものではなく、ヘイトや排外主義ということではないのか。「過剰なナショナリズムを警戒する」、あるいは「排外主義に陥ったナショナリズムを非難する」ということで足りるのではないか。
A 問題の根源は、「過剰でないナショナリズムは警戒の必要がない」のか、あるいは「排外主義に陥いらないナショナリズムは非難に値しない」のか、にある。私は、ナショナリズムとは理性をもった国民の内発的な意識だとは思わない。国民を国家という外側から、あるいは支配階層が上から国民を統合しようというときに活用されるもの。常に危険なものだ。
B フーン。ところで、もう一つ。オリンピックが「戦争の練習」だというのは、どういうことなんだ。
A オリンピック実施は「戦争準備のシミュレーション」というべきだろうか。国民精神を総動員し、メディアや教育機関を煽り、オペレーションの正当性を宣伝し、国会や政党を統御しつつ予算を組んで、現場組織をうごかす。これができれば、オリンピックだけでなく、戦争だってできる。
B 分からんでもない。まずは国家意思を組み立て、次いでこれを国民に注入して国家意思を全うしようという手口。戦争も大規模イベントも同じだということだね。
A 要は、国民の一部でも、声の大きな部分を取り込めばよい。あとは、同調圧力と権力的な押しつけだ。文句を言わせないやり方を東京五輪で練習しておけば、戦争の準備に役立つ。だから、コロナ禍でも、簡単にはやめられない。
B まあ、そう言われればそうかも知れないけど…。オリンピックのイメージが、ずいぶん変わってしまったね。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.6.20より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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