水を治むるもの其心亦必流水の如くを要せり ――田中正造・第2部――(1)
- 2021年 6月 21日
- スタディルーム
- 野沢敏治
事の発端とその後
鉱毒問題に一つの転機がくる。1902年(明治35年)3月、桂太郎内閣に鉱毒調査委員会が設けられた。それは前年12月の正造の直訴事件が引き起こした世論の沸騰を受けた政府の対応であり、その後調査会は鉱毒の被害は洪水によって拡げられたのだから、渡良瀬川の下流に瀦水池を作ってそこに毒水を流れ込ませばよいと報告した。これは鉱毒問題を治水問題にすり替えるものであった。その時62歳の正造はこの問題を晩年の11年を賭けて攻撃していく。そこには実に鮮烈な思想の軌跡があった。
略年譜を読む
まず、島田宗三の『田中正造翁余禄』(以下、『余禄』と略す)と彼が作成した「田中正造翁年譜」(同書、所収)を参考にして事の概略を追っておこう。それを無味乾燥な履歴書としてはならないと思う。
1902年(明治35年)3月早春、正造は「政治運動に没頭している間に人民の生活及び身心共に発滅し去りたり」と痛嘆することがあった。
――3月、内閣に鉱毒調査員会が設けられる。
――6月、正造は鈴木豊三管掌村長(自治的村長でない)が部落共有地を村会の決議もなく競売に付そうとしたことを「泥棒」呼ばわりしていたが、それが官吏侮辱罪に問われ、未決監に収容される。その入獄中に聖書と聖人の書を読む。
――秋、政府は調査会の報告が出る前に、埼玉県の利島・川辺の2村を買収して遊水池にしようと企てるが、両村は正造の指導を受けつつ主体的に兵役と納税を拒否する姿勢を示し、同案を撤回させることに成功する。
同じころ、無教会のクリスチャン・新井奥邃が被災地を視察する。
――12月、2年前に被害民が大挙して請願したことが訴追されたが、宮城控訴院(裁判長・松浦亀蔵)で無罪となる。
1903年(明治36年)1月、栃木県会は政府に先んじて谷中村買収案を議事にするが、否決される。
――4月、古河市兵衛、亡くなる。2年前には夫人が神田川で自死。
――6月、政府は調査委員会から受けた報告書の中にある谷中村買収案を発表する。それは渡良瀬川の改修をするとともに谷中村を遊水池にして鉱毒が洪水で広がることを緩和しようと計ったものであった。
1904年(明治37年)2月、日露戦争起こる。正造、非戦と軍備全廃を唱える。
――7月、正造、政府の谷中村遊水池化に対して谷中村を根拠地にして取り組む。運動の軸が政界から「社会」へ移される。
――12月、谷中村買収案が栃木県会(秘密)を通過する。谷中村での反対運動は利島・川辺村の場合と対照的に失敗する。
1905年(明治38年)11月、谷中村の土地買収と住民の那須・北海道への移住が始まる。
1906年(明治39年)4月、県の役人が谷中村民が築いた堤防を破る。
――6月、正造、予戒命令によって以後、巡査の尾行を受ける。
――7月、栃木県は村会の決議を無視して谷中村を藤岡町に合併させる。
1907年(明治40年)1月、内閣は谷中村に対する土地収用の適用を認める。
――2月、足尾銅山で鉱夫の暴動が発生し、軍隊によって鎮圧される。社会主義者は労働者がいかに資本家によって抑圧されていたかを訴えていた。
――6月~7月、谷中村残留民の家屋が強制破壊される。指揮官は植松金章、破壊の土木吏の中に以前に正造の下で活動していた者が混じる。だが、残流民は破壊されてもなお仮小屋を建てて居座る。
谷中村民は村(明治政府よりも数百年も前からの歴史をもつ)の復活運動を始めていたが、弁護士の勧めもあってそれと矛盾する不当廉価買収に対する訴訟を併行する。
1908年(明治41年)7月、河川法が谷中村に適用される。
1909年(明治42年)9月、政府の渡良瀬川改修案が関係する群馬・栃木・埼玉・茨木の4県の臨時県会に諮られる。そこには藤岡町の高台を開鑿して新川を赤間沼に導いて鉱毒沈殿池とする案があった。同町以東の中流の町村は毒水を浴びるからそれに対して反対するが、以西の上流の住民はかつては鉱毒被害民であって運動の中核をなしていたたが、その改修によって洪水の被害を緩和できるとして歓迎する。地域間で利害が対立する。同案は各県を通過する。
1910年(明治43年)1月、正造は隣村の有志から再び政界に出て遊水地池問題の解決に当たってほしいと申し出を受けたが、断る。
――6月、幸徳秋水らは大逆事件で逮捕される。翌年1月、判決があり、死刑に処せられる。
――8月、関東に大洪が水発生する。正造はそれを見て自分の治水論が当たったと思い、それをさらに傍証するために広く関東各地の河川を調査する。その結果、改めて洪水の原因は水源の乱伐と関宿狭窄工事にあると確信する。同月、岡田式静座法を取り入れる。
1911年(明治44年)11月、政府の河川改修に反対して下野治水要道会を起こす。
1912年(明治45年)7月、明治天皇が亡くなり、元号が大正に変わる。厳粛な正造の態度。
1913年(大正2年)6月、正造を顕彰する碑を建てようという動きがでるが、彼はそれを断る。
――8月、田植えの水がないことを憂えて河川を調査し、水源地池涵養の必要を訴える報告書を準備する。その印刷に目途をつけて谷中村へ帰る途中で病(胃がん)に倒れ、庭田清四郎宅に伏せる。
死の床で最後の数々の言葉を遺す。
――9月4日朝、没。
遺品が投げかける謎
島田宗三は『余禄』のなかで病に倒れた正造の枕元に菅の笠と信玄袋が遺されていたと伝えている。その袋には草稿の治水論と新約全書一冊、鼻紙少々、3個の小石、帝国憲法と新約聖書のマタイ福音書を糸で合本したもの、日記帳3冊が入っていた。ただし、『余禄』の他の個所では袋のほかに床の間に風呂敷と墨と筆を入れる大矢立もあったと記され、栃木県立博物館・佐野市郷土博物館発行の『田中正造とその時代』(2001年)では袋の中に川海苔も入っていたと記されている。
遺稿の題は編集者によって「苗代水欠乏農民寝食せずして苦心せるの時、安蘇郡および西方近隣の川々細流巡視の実況および其途次に面会せし同情者の人名略記 内報其一号書」とされており、正造の最後の治水論というべきものか。3個の小石は他の石とともに今日佐野市郷土博物館で見ることができる。3個のうち一つの名は田中正造大学事務局長の坂原辰男さんによると、渡良瀬川の河川敷でよく見ることのできる桜石であったという。その名の通り、石の表面に桜の花びらのような模様がついている。石集めは正造の若いころからの趣味であったらしい。マタイ福音書は他の福音書とならぶ共観福音書の一つであって、キリスト教の愛を説いている。帝国憲法は明治の大日本帝国憲法であって天皇の神聖不可侵と国体及び「臣民」の権利を定めたものである。
遺稿、小石、聖書、憲法、これらは何を語るのだろうか。そこに共通するものはあるのか。一見しただけでは無関係か、対立するかに見える。だが、それらは正造が最後まで持ち歩いていたものであり、合切袋にただ詰め込まれただけのものとは思われない。明治憲法とマタイ福音書などは合本されている! 私はその謎をこの第2部で自分なりに解きたいと思っている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1171:210621〕
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