水を治むるもの其心亦必流水の如くを要せり――田中正造・第2部――(2)
- 2021年 6月 29日
- スタディルーム
- 野沢敏治
1 政界から社会へ
年譜でも記したが、正造は治水問題に対処するにあたり、それまでとは運動の場所を変えている。議会での論戦や権力争いの政界から「社会」へと根拠地を移している。それとともに、次第に活動の質と思想を鍛えていったとみることができる。彼はどんな心構えで谷中村に入っていったのだろう。それは都会の知識人や運動家とはちょっと異なるものであった。私はそこに関心をもつ。
「無学」の正造
正造はよく自分を「無学」だと言っている。その意味であるが。
彼は明治の新しい学校教育を受けていない点では無学であるが、若いころから中国の聖哲の教えを自学しており、獄中で中村敬宇の『西国立志篇』を読むとか、自由民権運動に関わっていたから、いわゆる学はある。だが、彼の学は頭の中の知識の有無でなく、知識が行いになっているか否かのことであった。彼は日記にこう書いている。「正造無学なり。万一にも古ヘの聖哲の語に合することあらば、之れ諒に一大不幸と云ふべきものなり。若し又万ゝ一にも過て賢聖の行為に似たるものあれば、之れ誠に一大幸なりとす。」(『田中正造全集』第14巻、3頁。以下、カタカナは現代風にすべて平仮名に変換する。)こういう彼だから、社会経験をへていない大学卒の学士は本を読むが本に読まれる者と笑われてしまう。彼は孟子から学んで、本に書かれていることをそのまま信ずるのであれば、本を知らない方がよいと思う人であった(参照、明治31年10月4日の日記)。学問はいわゆる「教養」として持つものではない。これは試験に合格して「末は博士」になった者には縁遠い学問観であろう。
正造はもっと具体的に次のように述べることがあった。医学者の中には鉱毒の存在を実際の経験を無視して否定する者がいたが、それは正造からすれば本読みの無学者のなせることであろう。その代表が第1部で取りあげた帝国大学教授・入澤達吉であった(参照、明治36年7月の日記)。その例は入澤だけのことでない、その後もずっと公害の現実の中でも無くならなかった。しかし、正造は近代科学による知識や方法を否定することはない。彼は鉱毒の存在を科学的に実証する研究者を知っており、彼自身、銅山から出た鉱滓の堆積に雨が降れば酸化することや、酸化銅が植物の根を傷つけることなど(参照、明治36年10月の日記)の知識を受け入れていた。
正造は明治の学校教育についても批判的であった。学校では子供を一律の教育によって先生の言うことをまねさせていたが、それは効率よく知識を植えつけることには便利であっても、自ら問うて確かめる態度を育てることや心を善良にすることにはならない。彼は特に後者について次のように言った。「木石と遊び鹿子居らば」「田舎の質朴」が子供を聖哲への道を歩ませるが、善良でない教師の下で本を読むことは「繁昌地の芸人」としてしまう、と(明治36年10月10日の日記)。ところで、ここでも注意! 正造は明治初期の文明開化の教育が上滑りであった一面を責めることがあったが、だからと言って彼を明治中期に復古した道徳教育や漢学流と同じと見るのは筋違いであろう。
「啓蒙」概念の再考――人に語るよりも人に聞け
正造は以上のような学問・教育観をもって、明治37年7月に谷中村に入っていったのである。彼はまず青年に働きかけて組織し、翌年にかけては婦人会を組織する。そして、毒水に侵された村の復旧は黙っていてはできない、自分たちの費用や寄付金で仮堤防を築くとともに、他の自治体と国に向けて請求せねばならない、関係機関に押しかけて哀訴するのでなく大声をあげて要求すべきだ、と説かれる。ここまではいわゆる「啓蒙」活動と言ってよい。
だが、1909年(明治42年)に渡良瀬川改修案が議会を通過することで政界での遊水地化反対運動が不成功に終わると、正造は政治について改めて考え直すことになる。運動の相手は国家と自治体の議員や役人だけでなく、自分の町や村の「只の人」に、それも有志の集まる「社会」とせねばならない。彼らに相談して運動していくことが必要になる。正造はそのための武器として同志に対して自分が作成に携わった請願書や陳情書を暗記するまで何度も何度も読むように求めていった(参照、『余禄』上、252、254頁)。その請願と陳情の数は明治37年10月から大正3年までの10年間に限っても75回ほどもあった。
この啓蒙活動にも質的な転換が訪れたようである。正造は谷中村での8年の啓蒙活動の経験の中で心境に変化をきたした。彼は残流民が家を強制破壊されてもなお仮小屋を建てて闘う姿に心打たれたが、そのこととは別か定かでないが、こう振りかえっている。人に物事を教えようとせき込むと人はかえって聞こうとしない。人は先祖代々からの土地に拠って生活の資を得ることで精一杯なのであるから。それよりも自分の方から人に聴くことに努めれば、人は言うことを聞いてくれる。始めからそうすればよかったのである(参照、『余禄』上、313頁)。これは啓蒙概念の転換である。島田はその転換の表れの一つが下野治水要道会を作って有志に呼びかけることであったと記している(参照、『余禄』下、15頁)が、私はまだその転換のありさまを具体的につかめていない。大変気になるところである。
請願書のほとんどの文体は漢字とカタカナの混じる候文であったが、例外的に、明治41年3月2日の「旧谷中村復活請願書」のように女性3人の手になるです・ます調のひらかな中心の口語体もあった。また「渡良瀬川改修とは何ぞや」のように、「一丁字も知らぬ婦女や何んかの人々」に伝わるように、落語の漫談調を組み入れて語りかけるものもあった。これを女性を下に見た物言いと評することは正当でない。正造は次のことを知っていたのである。鉱毒は農産物を枯らし、その栄養価を落とす。それを食べる婦人は乳の出が悪く、乳幼児を弱体に、あるいは死なせてしまう。それは女性にとっていたたまれないことであった。女性はこの生活実感から請願運動に参加する。
2 水は法律に服さない 地勢に従う
人は人をだませても、水をだますことはできない
政府は谷中村に河川法(明治29年4月成立済み)を適用してそこを瀦水池の
名目で遊水池にしようとした。ところで同法は実際には瀦水池を目的にしていなかった。瀦水池とは平地より少し高いところに水をため、それを低地に流して灌漑する施設であったからである。瀦水池は遊水池とは異なる。法は法にない事を執行の対象にする。これは「法の濫用」である。正造は人の作った法律が人をだますことをあばいていく。
政府や県は村民に立ち退きを迫った。それは農村の実情を知らない机上の論理によっていた。役人というものは「智識を携えて簡単に任地に転出できるが、農民は代々土地の中で生活しているのだから、その土地をもって移動することはできない。また、移住にあたって代替地を用意されるとしても、その土地環境の情報はまったく不十分であり、今後の耕作と生活の質を保証するものでなかった。ここでも人は人をだます。正造はそう見る。
結局、谷中村民の16戸は立ち退きを拒否するのだが、土地収用法で強制的に退去させられる。その名目は遊水地を作って洪水を防ぐという「公益」のためであった。正造はその国家理性を批判する。正造にとっての「公益」とは第1部で検討した各損害(自己・社会・国家)のすべてに対して反対のことであった。その点でも人は人をだましたのである。
行政権力は政策を効率よく遂行するために住民に十分な情報を与えず、議会で熟議することを妨げた。この構図は今日まで続く。
谷中村は最後に廃村になったのだが、そのすぐ後の明治40年8月に渡良瀬川と利根川に洪水が発生し、村の跡地と他の町村が大きな被害を受ける。正造はその時の洪水に異変があることに注目した。渡良瀬川の水位は明治29年や39年の洪水の時よりも低かったのに、下流の利根川の水が盛り上がり、逆流が館林以西にまで達した(「利根川逆流に関する檄文」(明治40年9月11日)。水は本来上から下に流れるはずなのに、下から上に上がる!政府は谷中村を遊水地にしたのだが、それは「机上の計算」であり無効であることを実証するものであった。正造はその逆流を知って「流水は法律に服さず」と認識する。洪水は依然として続き、鉱毒の被害は依然としてやまない。
吉田東伍の歴史地理学と正造の治水論
以下、私は正造の治水論の本論において、だまされない自然というものを捉えようと思うが、その前に当時の歴史地理学の専門研究者・吉田東伍に聞いておきたいことがある。彼の治水論は正造の治水論の正当性を客観的に評価する参考となるからである。正造は熱誠のあまり人から狂人扱いされることがあったが、その論には理性が働いていることを見逃してはならない。また吉田の論は今日あるいは将来の水害問題を考えるときに座右に置いて参照されるべき書と思われる。
吉田は明治43年の大洪水が起きた時にそれまでの講演や議論を集めて『利根治水論稿』を出版した。それは洪水に対処する治水はいかにあるべきかという時事問題に対して何らかの答を与えようとしたものであった。自分一個の利害からはなれた「公平な」観察者として。彼は上滑りに洪水をアンダーコントロールすると言い放つ者とは真逆に、人間文明のありかたを根本から問い、自然との本当の共生をねらう持続可能な治水を提案する人であった。それが正造の治水論と触れ合うのだから、注目せずにおれない。
「自然」災害は文明化による人造災害
洪水はそもそもなぜ起きるのか。吉田は利根川を自然科学的な地質史と古代以来の技術的な治水史とをそれぞれ段階に分けて調べ、今後の様相を推しはかるという方法をとった。地質史的には数百万年から1万年前までの洪積世(大氷河時代)からその後現在までの沖積世(河川による堆積が進む)に移った段階、沖積世の中では古代から近世初期までの段階と江戸時代の段階、そして明治近代の段階――今日も沖積世の時代で河川は浸食作用を続けているーーとに分けられる。後者の段階になるほど、その時間は短くなり、人間の自然への関わり方が急速に拡大するのだが、吉田が論を集中したのは、近世初期から江戸時代のごく短い時間の中でなされた人間活動の拡大と洪水および治水工事との関係、そしてさらに短い明治近代の文明開化による河川への「虐待」と大規模治水工事との必然的な関係であった。彼は人間活動が水害の原因となることを認め、その関係を解消しないのは人間の恥辱でないかと訴えていた。
利根川は地勢を無理して作った人造の川
利根川に目を向けると、問題の焦点は江戸時代前と江戸時代以降・明治近代を含めての違いに絞られる。今日日本第一の大河「坂東太郎」は昔からあったのでなく、近世以降に作られたのである。その大要はこうである。川は水の流れる所であるが、水は標高の高い所から低い所に向かって流れる。これは自然の法則である。近世まではこうであった。関東の地形からすると、水は西北にある標高の高い秩父の山や武蔵野西部から東南の標高の低い所に流れるのが無理のないところである。利根川も渡良瀬川も東南の東京湾に流れており、利根川は今の隅田川につながり、渡良瀬川はその東側の今の江戸川につながっていた。鬼怒川はそれらのさらに東側を香取をへて銚子口の太平洋に流れていた。以上の3つの川は独立の水系をなしていたのである。
それが近世になって変る。徳川幕府は利根川の水脈を水害防止や墾田開発のために、あるいは東北の外様大名に対して防衛するために、東へ東へと遷していった。水は近距離で勾配のある東京湾でなく、遠方の勾配の低い銚子口に迂回される。その結果、渡良瀬川は今日見るような利根川の支流となった。またその過程で江戸川の頭にある関宿で棒出しの工事がなされて江戸川を下る水量が制御され、より多くの水が利根川の下流へ押し出される。
川には寿命がある
吉田は以上のような利根川の歴史を追いつつ、近世の治水について次のような観念を得た。古代では川が増水すると、それは土手から周囲の田畑や野原に流されていたが、近世になるとそれではまにあわず、人工の大工事によって水脈が変えられ、高い堤防が築かれる。しかし、そういう工夫をされた川でもやはり寿命があり、永遠ではない。川床は流される土砂によって埋まって高くなり、水は流れにくくなる。これも自然法則。こうしてある時点で洪水は防ぐことができなくなり、またも治水工事が必要になる。彼は前掲書で江戸幕府の東遷事業を「百年の計画ではあるが、百世の不変の永謀とは断言出来ぬ」(前掲書、79頁)とこともなげに述べていた。川は百年でも五百年でもやがて寿命が来る。この人間・自然関係を知ることは重要なので、彼の議論をもっと追ってみることにする。
明治近代の文明開化は前代以上に土地の利用度を広大集密にした。大型の道路や鉄道の網の目は「水の大敵」となってその働き場所を奪う。このように「人間の方から水の領分を侵略するから水も時々我が旧領を取返そう」(同書、35頁)とするのである。水害は文明化に伴う必然事になる。山中にダムを築いて水を産業用に利用する、水力発電所を建設して電力を得る、山から木材を伐りだして建物を建てる、鉱山開発をして燃料や金属を得る。それらが山を荒す。川の水は山を源とするから、これでは水は「虐待」(同書、36頁)されるだけで、保全することが忘れられている。そこで川は仕方なく洪水を起こす。こうして「洪水有って治水有り、治水有って洪水有り」(同書、37頁)の事態となる。
利根川と渡良瀬川を分流して南流させよ。
では利根川の洪水はどうしようもないのか。吉田の答は否である。災害は人間が作ったものだから、人間で防ぐことができる。吉田はその備えとして、村を堤防の輪で囲むとか、遊水地で洪水を散らす(――吉田は谷中の遊水地化の場合は姑息だったと批判的である)、川底を浚渫する、上流から下流までの水位変化(水足)をいち早く知らせる情報網を整備することなどをあげたが、もう一つ、先の先をみた根本的革新を大胆に提案する。彼は渡良瀬・利根・鬼怒の3つの川を改めてかつての分流に戻すことを考えた。これまでの江戸時代や明治の治水には人間が要求する理由はあったが、万古不易ということはない、それに縛られてはならない。河川の改修は「河川の適度の水量と自然の地形に応して修治致さねばならぬ」(同書、98-99頁)ことになる。正造は特に関宿での制水工事を攻撃したが、吉田はそれは程度問題であって、今以上に制水することは止めればよいと考えた。また棒出しは撤去すべきであり、それによって江戸川を流れる水量は増加するが、それに対しては川の東京側の西岸を固めるようにして拡げ、利根川への流量と五分五分にする。東京人はこの拡幅を恐れるが、その必要はない。要するに渡良瀬川の水は利根川の中流に向け、利根川の水は江戸川へ向けるようにするのである。こうすれば谷中村跡の人造の遊水地はと無用となるだろう。
吉田は以上のように論じて、加茂常堅の治水論を紹介した。加茂は明治になっても政府が江戸時代の棒出しと利根川東遷を継続することを批判し、関宿口のさらなる狭窄化が利根川上流における土砂沈殿をもたらしていると論及していた。正造は以上の吉田と加茂の治水論を知り、おおいに勇気づけられたであろう。正造の治水論は針小棒大でも特殊でもないことが分かろうというものである。
どうだろう、吉田の治水論は地理学的・地質学的時間の幅からなされ、自然に聞こうとしている。その態度は社会経済史や政治史の物差しはないとしても、今日の日本と地球のものでないだろうか。そして、正造の治水論も。
付注 古島敏雄の『土地に刻まれた歴史』(1967年)と吉田の治水論
古島も時間を古代から現代までとり、災害は純粋天然のものでなく、人間が生活のために自然に労働を投下し変化させてきたその結果の人災であると捉えていた。大雨が降れば川は増水して氾濫し、水は大激流となって近接する田畑や人家に襲いかかる。でも彼が言うように。災害は人間活動が河川の近くまで拡大していなければ起きない。また彼は人間が災害を防ごうとして治水の様々な活動をしてきた例を挙げた。古くは聖牛や蛇籠で水の勢いをそいだり、村囲いの堤防を築いたり、いざという時に水屋や舟を用意したり、と。だが近代になって大きな堤防を築いても、想定を超えた出水がさらに大きな洪水を引き起こす。古島も治水が洪水を引き起こし、洪水が治水を必要とすることを認識したのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1172:210629〕
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