文春リアリズムはいま――バズーカを人々の手に
- 2021年 7月 1日
- 評論・紹介・意見
- ジャーナリズムリアリズム半澤健市歴史民主主義
《半藤・保阪・磯田》
半藤一利を追悼するNHKの番組で、保阪正康はこういっている。「半藤さんは近現代史を足で書いた先駆者なんですね。その半藤さんがなくって、言論界の地図は変わると僕は思っています」。同じく歴史家の磯田道史は「これから先は色々なものがこわれていくと思います。コロナでまずいことになっています。歴史の歯車は早く回転しはじめますから、半藤さんのような過去の歴史のレファレンスの名人が生きていることがとても大事なことだったと思いますね」といった。
《「野次馬精神とファクト発掘」合作の成果》
保阪発言は何を意味しているのだろうか。
私(半澤)は「文春リアリズム」という視点を考えてみる。
ジャーナリズムの本性には「野次馬精神とファクト発掘」の二つの魂があると私は思っている。それは相克している。時代によって相克の様相は異なる。1950年代までのメディアは、15年戦争時代への悔恨と新時代生成の両面を意識して健闘していた。
私は受験浪人の50年代に中島健蔵が司会する時局座談会をよく聴いたものである。「ラジオ東京」(現TBSラジオ)のこの番組では池島信平(文春)、扇谷正造(朝日)、高木健夫(読売)の常連がリベラルな意見を発信していた。
文春の「野次馬精神とファクト発掘」は大宅壮一と半藤一利のチームによる作品「日本の一番長い日」として見事に結実した。1945年8月14日から15日の「聖断」に至るドキュメンタリーであった。
《スキャンダル重視に傾いた文春》
しかし60年以降に時代精神は「経済成長」へと変わり戦後の主流たる進歩的知識人の言説と読者層の現状認識とのズレが拡大した。現在に至る半世紀間のメディア世界の変貌を一行で述べれば、言説の拡散、左翼の退潮、グローバリゼーションの圧勝である。
「文春リアリズム」における二つの塊の相克は野次馬が強ければ記事はスキャンダルとフェイクに傾き、ファクト重視が強ければ歴史の真実に迫ることになる。
「文春リアリズム」はどう変化したか。
全体としてここでも、現在までの50年の潮流に棹さしてきたと観察できる。報道は歴史からエンタメへと変化し、言説自体が短期間の消費の対象となった。
《バズーカを人々の手に》
人は、文春といえば「文春バズーカ」という。もっともである。その砲弾は政治の中枢を撃っているようで、個人のスキャンダル暴露に終っている。人々はどうしても文春砲炸裂の見物人になりがちだ。人びとが自らバズーカになること――たとえば投票率を20%増やすこと。多様で幅広な共同戦線を組立てること。バズーカを我々の手中にして民主主義を取戻さねばならない。(2021/06/24)
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