一党独裁を変える気はないのだろうか 中国共産党100年にあたって(3)
- 2021年 7月 9日
- 時代をみる
- 中国共産党田畑光永
「人権」に続いて、中国政府が中国共産党結党100周年を前に国際社会の批判に反論したのは政治制度についてであった。6月25日に国務院新聞弁公室が出した文書のタイトルは「中国の新型政党制度」である。かつての社会主義圏で政権党が長期間、政権を握り続けられたのは、革命の威光とレーニンの「プロレタリア独裁理論」を振りかざしてのことであった。中国もそれを当然のこととしてきた。
しかし、(1)で見たように、前世紀80年代から90年代初めにかけて、ソ連、東欧の社会主義陣営が崩れた後は、わずかに残ったいくつかの社会主義国家の、「反対党なし、選挙なし」の「一党支配」は前時代からの遺産にしがみついているとしか見えない。
ソ連崩壊後のロシアでほとんど終身大統領に近い独裁体制を維持しているプーチンでさえ、いろいろ自分に有利なように制度変更を強行しながらも、直接選挙だけは実施して政権の正統性の証しとしているのと比べても、中国が政権樹立後70年以上も経って、1人あたりGDPが1万ドルを超えたと手柄顔の一方で、中国語で言う「無産階級専制」の旗をいつまでも離そうとしないのはあまりにも利己的ではないのだろうか。
国務院文書は何と言っているのか。
「1つの国家がどのような政党制度を実行するかはその国の歴史の伝統と現実の国情によって決定される。世界の政党制度は多様であり、普遍的に各国に適用される政党制度はないし、ありえない。中国共産党が指導する多党合作、政治協商の制度は中國の基本的政治制度である。この制度は中國の土壌に根ざし、中国の知恵を体現しており、さらに人類の政治文明の優秀な成果を参考にし、かつ取り入れた中国の新型政党制度である」
ここで「多党合作、政治協商」を基本的制度と言っていることに、おや?といぶかしく思われたかもしれない。ことあるごとに「共産党の指導」、共産党だけがものごとを決められると自ら誇っているのに、「多党合作」の「多党」とはいったいどこにいるのか、と。
中国には政治協商会議という制度があり、じつはそこに集まる政党が8党もある。この会議は1949年、内戦に勝利した中国共産党が自らの政権を樹立するに際して、当時の既存政党に呼びかけて北京で開いたのがこの政治協商会議であった。共産党の顔見せと新政権樹立の挨拶の場として。
どんな政党があったかと言えば、内戦の相手であった当時の中国国民党の中から共産党政権に協力する側に回った「中国国民党革命委員会」(これには孫文夫人の宋慶玲女史もいた)、台湾出身者の「台湾民主自治同盟」、さらに当時の商工業者の集まりや学者の集団など、それぞれ特色をもつ集団であった。
中国では毎年春に「全国人民代表大会」というのが開かれる。報道では名前のまえに「中国の国会にあたる」という形容句が付くことが多いからご存知の方も多いはず。そういう形容句がつくくらいだから、間接選挙の積み重ねとはいえ、末端では国民が直接、地元や職場の代表を選挙で選ぶ。
しかし、「政治協商会議」のほうは「政党」を名乗る団体の組織だから、だれでも党員になれるのが建前である。そして、毎年、「全国人民代表大会」の1日前から全国大会を開いて、全人代と同時に政府の報告を聞いたり、意見を述べたりする。
国務院文書はこの政治協商会議の制度を中国の「新型の政党制度のモデル」と位置づけて、「中国の政治と社会生活において独特の優れた点と強大な生命力を発揮し、国家の統治体系と統治能力の現代化を推進する中でかけがえのない役割を発揮して、人類の政治文明の発展に重大な貢献をした」と自賛している。
しかし、この文章はなんともそらぞらしい。中国人ならだれでも知っていることだが、現在の政協会議は幅広い人たちも国政に参加していますよ、というなかば宣伝のための組織である。現在の政教会議主席は汪洋という人物だが、れっきとした共産党の政治局常務委員で習近平総書記から数えて序列第4位の大幹部である。確かに全人代と同時期に総会を開き、政府の報告を聞き、自分たちの意見を述べるのだが、報告を否決したり、あるいは訂正を求めたり、さらには何か物事を決定したりするわけではない。国務院の文書も「共産党が指導し、多党派が協力する。共産党が政権を握り(執政)、多党派が参加(参政)する」と説明している。それでも建国直後には共産党以外の党から少数ながら国務院の部長(閣僚)が任命されたこともあったのだが、文化大革命以降は「参政」は皆無になった。要するに政権の言うことを拝聴して、聞かれれば意見を言うだけの組織となっている。
思うに、現在の独裁政治に対する国際的な批判に対して、答えに窮した官僚が、建国当初の、今より多少はましだったころの政協会議に厚化粧をほどこして文章にしたのがこの国務院文書である。
それでは現在、中国共産党は政党とか選挙というものをどう考えているのか。今年の3月末に行われた香港立法会の選挙法改正がそれを見事に教えてくれる。やや面倒なのだが、まあ聞いてほしい。
改正前の香港立法会の議員定数は70、そのうち半数の35は住民の直接選挙で選出され、あとの35は一般住民の投票でなく、各業界の代表で構成された。そして選挙で選ばれる議員には民主派かその同調者が多くなる傾向があった。一方の業界代表35はいわゆる業界代表29と別枠の6に分かれる。この別枠は立法会とは別の(下級の)各区の区議会議員に割り当てられた。すると経済関係を重視する業界の代表枠の29人は北京の顔色をうかがう人が多くなるが、区議会議員枠の6人は直接選挙枠の議員と歩調を合わせる傾向が強かった。その結果として、民主派が全体として70議席のうちの多数派という時期が長かったと言える。
その状態を変えようというのが、今年3月の全人代常務委員会による選挙法(正確には香港基本法の付属文書としての「選挙法」)の改正である。
まず定数を20増やして90とした。そして、そのうち40を新設の行政長官選挙委員会枠とし、30を業界枠、残り20を直接選挙による枠、と決めた。選挙委員会枠というのはちょっと説明を要するのだが、1997年に香港が中国に返還されるにあたって、英との間で中国は「一国二制を50年続ける」と約束したことは有名だが(これも最近、中国は反古にした)、香港統治の最高責任者としての行政長官については、当初は北京政府が任命するが20年後には住民の直接投票で決めると公約した。
ところが、返還20年後、つまり2017年の長官選挙が迫ってきた2014年、中国政府は約束を破って、各業界の代表から選んだ1200人の選挙委員会の投票で決めると言い出した。それに反対して起きたのが例の「雨傘運動」であった。結局、反対運動はつぶされ選挙委員会での投票によって現在の林鄭月娥長官が選ばれたのだが、その選挙委員会の定数をさらに300人増やして1500人とし、その中から40人の立法会議員を選ぶことになったのである。
これにはちょっとしたからくりがある。というのは、従来の選挙委員会1200人の中には立法会の下の各区の区会議員、総勢479人のうちから117人が互選で選挙委員となっていた。委員総数が300人も増えるとなると区議会議員枠の比重が下がる可能性が強い。そして一方、従来の立法会の業界枠35のうち6は区議会議員に割り当てられた枠だったのだが、それが今度の改正でなくなってしまった。つまり全体を増やして枠を増減する間に投票によって選ばれた議員の枠を大幅に減らしたのである。
選挙委員枠40を覗いた残り議席は50だが、そのうち30は従来35だった業界枠に充てられる。この枠は定数が5減るが、今、紹介したようにそのうち6を占めていた区議枠が取り消されたから、業界枠は従来の実質29から30に1議席増えることになる。
この結果、700万香港市民が直接選ぶことができる立法会議員は90人中わずか20人ということになってしまった。それでも、頑張れば民主派はなんとか20議席は確保できるのか、といえば、それもむつかしい。というのは、勿論、親大陸派の候補も当選するだろうし、さらに今度の改正で新たに選挙に際しては立候補者が「愛国者かどうか」を審査する立候補者資格審査委員会という組織が新設され、そこをパスしないと立候補することさえ出来なくなったのである。その審査では立候補者は「香港、あるいは中国に忠誠を誓う誓約書」を提出させられ、審査にあたる委員は香港政府の高官で構成されるというのだ。
ややこしくて頭に入りにくいと思うが、とにかく選挙で選ばれる枠を少なくし、その上に愛国者(実質は共産党支持者、すくなくとも反共主義者ではないこと)たる誓約書を書かなければ立候補もできなくなってしまった。
この改正選挙法は、今年9月に予定されていて12月に延期された立法会選挙から適用されることになるが、これでも選挙といえるのか。中国は外から批判を浴びるたびに「多様性」という言葉で逃げるのが最近の常套手段であるが、これでも議会制度であると強弁するなら、まさしく「蝶々、トンボも鳥のうち」である。自他ともに認める大国の政府がこんな詭弁を弄するのを中国人はどう思っているのだろう。(210707)
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