水を治むるもの其心亦必流水の如くを要せり――田中正造・第2部――(4)
- 2021年 7月 10日
- スタディルーム
- 田中正造野沢敏治
(3)治水は憲法の精神に関わる
正造にとって治水問題は第1部での鉱毒問題と同様に憲法を問うことでもあった。彼は村人に対して憲法に保障された「人」の私的所有権と「公民」としての請願権を説くのだが、ここ治水問題では以前よりも問題となることがあった。法や政策が作られる構造についてである。
一村の滅亡は日本国の滅亡
正造は谷中村から日本一国のありようを激しく攻撃した。当時の国策は富国強兵と殖産興業にあり、銅はそのための一大枢要物、足尾銅山はその産出の一大中心地であった。正造はそれに対抗して銅山一企業の興亡は日本一国の興亡ではないと言い切り、反対に谷中村一村の滅亡は日本全体の滅亡だと主張した。それは農本主義的で大げさな物言いであろうか。行政と銅山側は谷中村(――もっと広げて被害地の栃木・群馬・茨木・埼玉の4県50町村をとっても)のことなどは満州や朝鮮の経営に比べて小さな問題だとみなしていた。他にも同じことを言う者がおり、正造は日記に明治29年1月のこととして、志賀重昂から鉱毒事件のような一部局の問題に汲々とせず、他に大問題ありと忠告されたと記している。
正造にとって谷中村の存亡はその面積や人口の大小のことでなく、国民の人権、法治や自治、憲法の精神に関わることであった。この点は第1部の鉱毒問題において検討済みなのでここではくり返さず、別の論点に移る。
政策決定の仕組
正造は一私企業の私欲と意向が公共の役人に迎えられる仕組みをあばくのである。彼は住民に憲法で認められた権利、正義の意識を自覚するように促し、被害を黙って受け入れることは間違いだと説く。その権利行使の一つが帝国議会への請願であったが、議会は時々請願を受理して採択しても、政府がそれに応じない。政府が憲法を破る!さらに憲法を破るのは政府だけでなく、栃木県もそうであった。正造はそう捉えたうえで、それらの奥にある超本人が足尾銅山だと見抜く。政府も県も「足尾銅山の事務所」(『全集』第4巻、348頁)となっている、と。正造はそれに対して福沢諭吉流の独立自尊論に立つかのようにして、本源の銅山の意図に対立して有志が私立で県会を創ることを考えることがあった。政策意志の決定の仕組を変えることが問題となる。
意志決定については、谷中村の住民側にも問題はあった。農民は何代もその所有地や借地で暮らしてきており、土地を手にもって移動することはできない。他方、県の官吏や知事はカバン程度の物を所有するだけの「智識生活」者であり、1,2年ごとに交替し転出できる身分であった。知識は商人のお金と同じく持ち運びができる。そんな役人が村民の事情に暗いまま、机上で事を論じて法律を作るのである。住民側がそれに対して自分たちの実情を説明して押し通すことは難しかった。この点、以下にもう少し見てみる。
農民は移住の困難な事情があったのに、なぜ土地を当局に「合意売買」(『全集』第4巻、404頁)したのか。正造はその原因が農民の「無我」(同、390頁)にあり、目覚めていなかったと厳しい。遠慮することが「海の如く深い」(『渡良瀬川改修とは何ぞや』より)のであった。だが彼は合意までに追いやられる農民の境遇に共感していた。その境遇は「旧谷中村復活請願書」に詳しい。当局は手を変え品を変えての攻撃で農民を疲弊させていた。また被害地は税金を免除されたが、それはその地方での公民権を失うことでもあった。これで村の自治は難しくなる。もちろん農民は具体的に誰が誰に対してどんな手口の悪政をしたかを知っていた。正造はそれを数え上げているが、農民はそれでもお上の言う土地収用に間違いはないだろうと売買の契約書面に印を押すのであった。
住民の判断を狂わせるもの
次のことなどは、教育が開け、情報技術の革新された現在でも(でこそ!)形や内容を変えて当てはまるであろう。
正造は明治31年以来「奇怪な遊説者」が村に現れて人々の判断を狂わせたことをあげた。遊説者曰く、渡良瀬川の水量は利根川の下流を浚渫すれば減るから鉱毒は村の田畑に侵入しない、関宿水道口を広げれば東京に洪水を出して被害を出す、その東京には官庁があり大臣がいる、村人の子孫の学校や先生がいる、等。加えて、住民は鉱毒の風評被害を恐れて被害を隠そうとすることもあった。衛生に害のある土地の出身者だと知られると結婚に差し障りが出るとか、蚕が鉱毒で害された桑で飼われれば繭の売値に悪影響が出る、等と。また、正造が指摘したように、利害の構造が人の判断を狂わせることもあった。足尾町の住民は悪人ではないが、銅山に直接雇われるか、銅山相手の商売をしているため、銅山主の意向と聞けばそれをそのまま信じてしまい、谷中村や周囲の村々の被害民のことは視野に入らなくなる。自分では銅山が悪いと思っても、この利害の構造を破ってまでそれを口に出すことははばかられるだろう。
正造の国体観
さて、正造は村人に憲法に書かれてある人と市民の権利を意識し守るように説いたーー家永三郎はそれが戦後の新憲法につながると認めたーーのだが、宗三もコメントしていたように、その点で護憲を主張したからといって、近代的な自我をもった民主主義者としてではなかった。日記にも現れているように、立憲体制であっても彼にとって天皇は神聖であり、そのもとで国民は権利を保障されるのだが、問題は天皇と国民の間にある政府であった。政府は国体の精神を心得ずに天皇を戒めることなく、逆に天皇を利用して権勢をほしいままにし、民を抑圧している、自分の権限を心得ていない「奸臣」だと批判される。だからでもあろうか、正造はこの種の臣の「忠誠」に対して「国家の根より腐敗せしむるものは却て勤王なり」(明治34年2月)と捉えていた。ただ、私はまだこの勤王批判の趣意を定かにできていない。
さて、正造の天皇観はキリスト教観とも関係するので、後で改めて取りあげたい。
(4)社会主義との対話
当時の社会主義者は一部を除けば、一般に鉱毒問題や谷中村問題に積極的でなかった。彼らにとっては資本の下での労働搾取や失業が大きな問題であった。幸徳秋水はどうであったか。彼は正造に直訴状を書いてやった間柄である。彼はその『社会主義神髄』を読んで分かるように、歴史的必然の立場に立って現在の高度資本主義段階における生産の社会性――それも農業でなく工業におけるもの—-を踏まえ、私的所有を公有にしていく時だと捉えていた。彼はその歴史観を日本に適用しようとしたのである。また彼は鉱毒問題にとりくんでいたが、足尾銅山の鉱業停止がそこで働く1万5千人の雇用と生活にもたらす影響をも考えねばならないと考えていた。
社会主義は時勢の正気
正造はこの社会主義の正当性を認めている。明治36年10月の日記に次のようにある。「今の社会主義は時勢の正気なり。当世の人道を発揚するにあり。其方法の寛全ならざると寛全なるとに論、其主義に於て此堕落国に於ては尤貴重の主義なり。」社会主義と並んで労働組合運動も起こっていた。その労働運動も足尾銅山の場合は明治40年に暴動となり、軍隊の出動によって鎮圧されたのだが、木下はわずかの日であっても被害農民ではできなかった銅山の鉱業停止を実現させたとその意義を認めている。
ただし、正造は社会主義に次のものも含ませていた。それは資本家による労働条件の改善であり、慈恵的で社会政策的なもの。明治36年9月4日の日記を参照すると、「正当の富豪家や工業家は即ち社会主義だ」とみなして、工場内の空気が悪くて職工が肺病になることがないように彼らを自分の別荘に遊ばせた資本家の例が挙げられる。
この慈恵的・社会政策的な社会主義観に代わって、やがて、労働力の保全としての社会政策論が出てくるが、それは後のことである。
未来待望でなく、現在を救え
正造はこのように社会主義を評価したが、彼にとっては現在の谷中村を救うことの方が大事であった。彼は死の床にあった大正2年8月23日の夜、3度大声で「現在を救い給え、現在を救い給え、ありのままを救い給え」(『余禄』下、230頁)と叫んだという。(ちなみに今日の田中正造大学が発行してきたブックレットはその誌名をここからとって「救現」としている。)その1年前の明治45年5月1日、正造は婦女子を集めた会での次のように語っていた。「社会主義の人たちは、経済を合理化して事業を機械化して、その利益を公平に配分すれば、一日何時間とか僅かな時間を働いただけで楽に暮らせるというが、それは将来の理想であった、我々は目前の人造水害のためにつぶされた谷中を自然に復活して、麦米のとれるようにすることが大切です」(『余禄』下、36頁)。
この「救現」の叫びは彼のキリスト教観とも関わるので、この点も次の節で。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1176:210710〕
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