水を治むるもの其心亦必流水の如くを要せり ――田中正造・第2部――(5)
- 2021年 7月 17日
- スタディルーム
- 田中正造野沢敏治
(5)キリスト教との対話
正造の運動には、彼の激しい闘争心からすると意外かもしれないが、愛を説くキリスト教と響きあうところがある。このことはすでに何人かの人が指摘しているが、私は自分でもそのことを探っておきたい。
正造は大罪人
正造は洗礼を受けたクリスチャンではない。教会でミサを受けて祈るクリスチャンでもない。彼は鉱毒と谷中村遊水地化に対して形勢不利の難しい闘いをする中で聖書の言葉と出会っている。そのことを谷中村に入る前の彼の日記から拾ってみよう。
「神」という言葉は所々で出てくる。その内面での心境は外の事件や活動と関わらせて理解すべきなのだが、それはとうてい私にできることではない。後段での歌詠みや墨書の場合と同じく、適切に解題してくれる人を待ちたい。ここではただ拾うだけにする。
明治33年7月の歌――「あどけなき己が心をたどりつゝ、神の教のまゝをそのまゝ」「海空を我ものとせる神なれば沈みてもよしうかみてもよし」。同月には木下尚江が『足尾鉱毒問題』を出版していた。
明治34年2月ころーー「正造は大なる社会の罪人なり。大多なる悪人ゝの財産を拵へたり。被害人を救ふことは出来ず、却て悪魔の巣を造くれり。之正造が罪の大なるものなり」。キリスト教は人間を罪びととみるが、正造も自分を悪い罪びと、それも大罪人とみなしている。
明治36年9月――「神の道」と「人の道」の複雑なかかわりについての思考が続く。
明治36年7月6日――『マタイ伝』から(『マルコ伝』にもある)次の十字架上での言葉が引用されている。「イリイリ ラマ サバクタニ 我神、何ぞ我をすて賜ふや」。『マタイ伝』は他の福音書の『ヨハネ伝』のように教義的なキリスト伝と違って、「神の子」イエスの人間的な側面がよく出ている。ゲッセマネの祈りの仕方や十字架上でのその言葉など。また他に、弟子ペテロの3度にわたるキリスト否認や総督ピラトが群衆の大声に負けて裁きをすることなどもあって、その受難の物語はダイナミックでドラマ的ですらある。私も例の言葉にイエスの「人の子」の面を感じていたが、それはしかし、信仰者ならぬ俗人のもの、本読みの頭だけのものであった。新井奥邃はその言葉はイエスの信仰の深き故にこそ発せられたものと捉えていた(参照、林竹二「谷中村の復活」より、『余禄』下、所収)。
ついでであるが、正造には伝統宗教的な神への言及もある。明治33年6月24日――「正義の入監者は神様なり」。同年の2月13日、鉱毒被害民大は挙して請願行動に出たが、川俣で警官隊と衝突し、その行動が犯罪に問われて刑に処されていた。正造はそれに対して議会で「亡国に至らざるを知らざれば、これ即ち亡国の儀に付質問」と演説をするのであった。ただし、ここでの神様はキリスト教の神でなく、祀られた佐倉宗五郎と同じ「大明神」のことであった。正造はキリスト教以外の神道や仏教に対しても関心をもっていたようだが、私は詳らかでない。
キリストの言葉の実現
次に谷中村に入ってからの正造を『余禄』から拾ってみる。
明治39年5月上旬(旧暦4月8日)、谷中村では麦の収穫を1月後に控えていたのに、栃木県は村人が施していた急水留工事を破壊してしまった。正造も村民も悲憤慷慨したが、ある者がそれはもっともなことだが、また工事をして破壊されるのではいたちごっこでかえって困窮してしまうから、キリストの「悪に敵するなかれ」の教えに従い、ここは退いて旧堤を修復して麦を確保すべきだと提案することがあった。正造もそれに同意している。
明治40年に残留民の家に対して強制破壊がなされたが、木下尚江はその時の村民の行動が世論を喚起して政治的解決を図るものでなく、当局に田畑や家、生活を奪うにまかせたことがキリストの教え「汝の敵を愛せよ」を目の当たりに見るものであったと語った。正造も同じ気持であったが、彼の場合は残留民と共に強制破壊の現場で泣き悶えすることをへてこの聖句の実現を感じたのであろう。正造は一般のクリスチャンが「人はパンのみに生きるにあらず」を書物の上で知っても実地に行う者が少ないと批判的であった。でもクリスチャンの中には献身的に被害民を救済する実践者も少なくなく、正造はそれに感謝していたことを付しておく。
宗三は正造が大正元年9月28日に新井奥邃を訪ねた時のことを記している。谷中の控訴裁判が近づいていた時である。正造は終始子供のような態度で奥邃の語ることに耳を傾けていたという。
正造は大正2年3月の木下尚江宛ての手紙で、キリストは「今日は今日にてたらしめんとす」と説いたが、自分もその「今日主義」を信ずると述べていた。この点は社会主義の未来待望の歴史観と異なって死の床で「救現」を叫んだこととにもつながるであろう。
天皇対キリスト教の神
一つの疑問があるので記しておく。正造は以上のように鉱毒・治水問題の解決にあたる中で憲法およびキリスト教と対話していたが、両者には原理的に相いれない点がある。正造は天皇を他の日本人の誰よりも上に置いていた。だが明治36年7月22日の日記にこうある。「神よりは人を怖るゝ事をなしたりとは笑ふべし。警部より巡査を怖る。知事よりは郡長を怖る。終に天皇の懼るべきをしらぬ。ありがたきをしらぬ。神は尚更なり。」……正造は天皇を絶対視していないのでないか。
(6)歌を詠み、墨書をしたためる
正造は膨大な歌を残している。それは五七五七七調の短歌であるが、その形式にとらわれず自由なところもあった。私はそのほんの一部を覗いただけである。以下で例示した歌の制作年号も最初に作られたものでなく、たまたま取りあげたまでのものである。同じ歌でもちょっと語を変えたものが数多くある。前節でも感じたことだが、誰か適任者が全歌作を解題つきで紹介してほしいものだ。歌の内容やテーマとの関連で。いやそれだけでなく、ぜひ形への意志と力のありようについて教示してほしいものだ。小手先の工夫のことでない、小説や戯曲で言えばドラマツルギーである。歌を歌うことは戦後のいわゆる近代的知識人から危険視されることもあったが、それには時代を感じてしまう。
また正造はよく墨で書を書いている。これらは当時でも「風雅」なことであったが、彼の場合は専門の人による特別な場所や時間の中で書いたものでなく、歌の場合と同じく社会や政治を相手に運動するなかで書いたものであった。そのことは彼が岡田式座禅に凝った場合と同じであり、心の鍛錬は道場やお寺の静寂の中でなく、騒がしく雑々とした運動の中でなされるのであった。
天地の大楽観をえる
正造は古の聖人にその範をとっていたようだ。彼は亡くなる2月前の大正2年7月6日付で逸見斧吉・木下尚江に返信してこう書いていた。聖人は秀吉の淡泊と家康の寧静の双方を備えているほかに「風流」のこころがあるから、「天地の大なる大楽観」を得ることができた、自分はまだその域に達していないが、と断って(参照。『余禄』下、178-9頁)。
真剣な歌や書には思わず姿勢を正してしまう。「辛酸亦入佳境」は多くの人が解釈しているが、「辛酸」を「佳境」とする正造の外境と心境はどうであったのだろう。「大雨に打たれたたかれゆく牛の車のわだちあとかたもなし」は厳しいタテの線で書かれた墨書であるが、宗三はそれを書いた正造の心境に涙をそそられたという。牛は正造その人である。その歌の意味をより正確に尋ねるのによい歌は明治36年9月の日記にある。「大雨にうたれたかゝれ行く牛は車のあとをとゞむ意もなし」「大雨にうたれたゝかれ行く牛は車のあとに意をばとゞめず」。
滑稽な歌
ところで正造の歌には狂歌の類もかなり多い。そのほんの数例をあげよう。「来るとしも又くるとしもくるとしも、くるくるめぐるとしはくるくる」(明治34年2月の日記より)。読むほうが目をまわしてしまいそうだ。彼はこんな語呂遊びに興ずることもあったのだ。宗三が書いてもらったその墨書はまるで竜の躍動するような筆鋒であったらしい。
面白い歌は「たのしまばふとんもかやもあるものかのみにまでも身をばさゝげて」であろう。この歌はそれだけとれば恋歌に間違われそうだが、正造はそれは誤解であって真意は精神を統一すればことは成るということだと弁解している。蚤よりも気になるのは髪の毛ぼうぼうで何日も洗濯していないかのような彼の姿である虱がたかり、垢だらけでは、彼を泊めて風呂に入れる家はさぞ迷惑しただろうと同情する。もっとも尋ねる相手先によってはさっぱりと綺麗な身なりをしていたらしい。
滑稽で酒脱な歌には次のものもある。「天そらの上から見たら面白のふじの高ねもゆきのだるまも」、「大空の上から見れば面白し藤も美人も雪の達磨も」、そして明治36年5月18日の歌作「なべてみなおしなべてみなおもしろし ふじの高ねも下女の御鼻も」。ここまでくると、ちょっとふざけが過ぎている。また次の歌などいかにもぶっきらぼうである。「元日やつるのあたまは真赤なり わがひげしろし之れみよの春」。
正造は滑稽に流れることを戒めることもあったが、滑稽は緊張を斜に見てほぐしたり、自分を客観視する効用がある。明治36年5月17日の日記から、辛酸の歌と蚤の歌が一つに合わせられているのを知ると、正造は闘いの苦しみに染まったままでなく、さっぱりと洗いとる心の作用ができる人であったようだ。
水になった正造
上記の墨書の諸例でも窺えたことだが、字体と内容がまったく一体となることがある。明治36年9月29日の日記にこう記されている。「書する文章によりて書に正変あり。心にも手にも筆にて緩急寛厳を生ず。之自然なるをしる。何れの処か精神の顕れざるなし」。その一番よい例が本正造論のタイトルに使った次のもの。
「水を治るもの其心亦必流水の如くなるを要せり」
この墨書にもいくつかあるが、藤岡町の島田稔(島田清とするのは田中正造大学制作の絵はがき中のもの)所蔵のものが素晴らしい。私はある会でその墨書のコピーを見せてどう思うか尋ねてみた。するとすぐに「水みたい」と反応があった。その通り、水がするりくるりと自由自在に戯れている!私の技術不足でそのコピーを示すことができないのはいかにも惜しい。前掲の『田中正造とその時代』にその写真が掲載されている。宗三は正造が大正2年6月に早乙女氏宅で書いたいくつかのものが稀有の出来栄えであったとして、その中から上記の歌の別人の所蔵になる墨書を『余禄』に掲げている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1178:210717〕
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