リハビリ日記Ⅴ ①②
- 2021年 7月 21日
- カルチャー
- 阿部浪子
① 若林つやの愛のかたち
田舎道に咲いた、たった1本のグラジオラスの黄色い花。赤色ではない。堂々として、いかにもすずしげだ。春に球根を植えつけたのは誰だろう。花好きのタマエさんかな。長く伸ばした花茎に連なって咲いている。グラジオラスは、顔のはっきりした美人だ。
6月19日付の「信濃毎日新聞」がとどく。デスクの畑谷さんからだ。わたしは同紙に、辺見庸の『コロナ時代のパンセ』(毎日新聞出版)について書評を発表した。いつからか、信毎の書評は土曜日掲載に変わっていた。どきどきしながらページをめくる。ナツカシイ! 何年ぶりだろう。
掲載紙1部を毎日新聞出版あてに郵送し、著者の辺見さんにとどけてもらうようにした。辺見さんは、拙文に目をとおしてくれるだろうか。
6月20日、ネットのサイト、ちきゅう座に、難波田節子さんの『遠ざかる日々』(鳥影社)の書評を発表した。6編の小説集だ。くわしくは拙文を読んでみてください。本書には、失いつつある、現代人の罪悪感と後悔の念が誠実に追求されている。わたしは、著作のモティーフとテーマを抽出すべく何回も読みこんだ。書評の仕事は時間がかかる。
指導教授で文芸評論家の平野謙が、わたしたち院生にいった。〈きたちはいいなあ。24時間、自分の時間があって〉と。たしかにいまも、自分の時間はたっぷりある。しかし、書評はそんなに簡単に書けるものではない。短い枚数のものだが、要点をはずしたら意義がない。作家も評論家も、自作への批評は気にする。掲載紙はていねいに読んでくれる。返事は必ずとどいたものだ。25年間の執筆をとおして、不遜な著者が3人いた。昨年9月に1人、自称〈小説作家〉が死んでいた。
町内のまさのさんが亡くなった。85歳。彼女は若いころ、結核療養所で療養していた夫と死別している。農業をしながら2人の子を育てあげたが、ひとつ町の男との情事のうわさはつづいた。狭い町内でのこと。男の妻は、まさのさんに抗議にいく。〈あんたのおとっさが来るから、いかんだよ〉と、まさのさんは応じたそうな。妻はどんなにくやしい思いをしたろう。
妻の死後、小さな衣料品店に借金が残された。人の心をふみにじる暴君に、さんざん煮え湯をのまされた妻は、毎月4万円もの衣料をつけで買っていた。彼女の、怒りや苦しみや悲しみのぶんだけ、借金の額も増えつづけたのであろう。
まさのさんは、孤独と性の衝動に耐えられなかったのだ。老いて、男のことやその妻のことや自分の人生をどう思いながら、あの世へ旅立ったのか。
*
若林つやの東京大塚のアパートの1室は、らんごくだった。ここへドイツ文学者の芳賀檀が通ってくる。かれの自宅は歩いて5分の所にあった。愛のかたちはさまざまだ。かれは、どんな思いで彼女を訪ねたのだろう。かれには妻と娘がいる。彼女のらんごくな居室をどう見ていたのだろう。妻には求められない、素朴な手料理に舌づつみをうっていたのかもしれない。つやは、どんな思いでかれを迎えいれていたのだろう。かれを横取りした芳賀夫人への挑戦でもあったのか。
つやは美しい人だった。わたしは何年か前、6人の伝記的作家論『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)を刊行した。この著書に収める、彼女たちの写真を遺族から借用した。出版プロデューサーは〈写真なんかどこかからとってくればいいのよ〉といった。わたしは、そのような横着はしたくなかった。美女ぞろいの写真には感激した。ひときわ、つやは美しかった。
つやは、よく啖呵をきったものだ。〈書くのは、あたしのゴウです〉と。文学作品は、なかなか金銭にならない。つやはいつも貧乏だった。
文芸同人誌「女人像」の大井晴は、芳賀のつれなさをひどく非難した。つやをいちばん理解していた友人の言葉は辛辣だった。わたしも思う。芳賀は、男優先の社会にあぐらをかいていた人だ。戦争を賛美するような人でもあった、と。
もう1人の同人、内田生枝はこう話した。〈若林さんは、芳賀さんの本を出してやったのよ〉と。愛する人のために自費出版の費用まで負担してやる。これも、男への愛のかたちなのか。自身の本はさておいて男の業績を優先させる。つやの男に尽くすという、愛の流儀にちがいない。しかし若林つやは、それでよかったのか。
② 小坂多喜子のプライド
7月3日、熱海に土石流発生。ラジオでニュースを聴きながら、おどろいた。
午後、「合鴨米あまざけ2本セット」の宅急便がとどく。浜松市立高校時代の同級生、岸野春子さんからの贈り物だ。岸野さんの友人夫妻は、大分県中津川の耶馬渓で農業を営んでいる。その土地の「小さな小さな農協」下郷農業協同組合の商品を、岸野さんはひいきにしているようだ。農薬も化学肥料もつかわない「健康米」でできた甘酒。おいしかった。夏ばて予防になる。岸野さんから思いがけない、元気もいただいた。
ここは、浜松中区のリハビリ教室だ。7月の第1週から「健康広場 佐鳴台」に通所することになった。指導者は、理学療法士の伊藤文隆先生。おだやかな中年男性だ。
教室内はひろびろとしている。管理者、看護師、介護福祉士はみな、若くて聡明そうな女性だ。親族のみの運営ではない。標準語を使っている。〈がんばろう〉なぞ、耳障りな号令もとびかっていない。
体操のトレーニングが3時間15分おこなわれる。とりわけ、わたしが注目したのは「足浴」10分間、赤外線をあてて冷えた両足をあたためる。からだもぽかぽかあたたかくなる。
隣にきた男性にたずねた。脳梗塞を患った人のようだ。〈効果、ありますか〉〈いーや、期待してないよ。ここにくると、みんなと話ができる。家にいると何にもしないもん〉〈そういうものですか〉。
わたしは少しでも、トレーニングの成果を期待したい。先生とスタッフには、生徒のからだとじかに向きあってほしい。2年、別のリハビリ教室で学習してきた。脳出血の後遺症の実態についても、認識してほしい。
ジーンジーン、ガチャガチャ。ミーンミーン。あちこちから一斉に、セミの合唱がきこえてくる。暑い。梅雨明けはもうすぐだ。
*
小坂多喜子は、若林つや、平林英子、横田文子と対立していた。わたしは、文子を除いて、彼女たちの晩年を取材している。昭和初期のこと、彼女たちは、日本プロレタリア作家同盟に所属し、プロレタリア文学を書いていた。しかし、1933年2月20日、小林多喜二が特高警察に拷問、虐殺されたその翌年、作家同盟は解散する。
プロレタリア作家は転向し、1935年3月には、亀井勝一郎、保田與重郎、中谷孝雄などが中心となり、文芸雑誌「日本浪曼派」が創刊される。戦争を肯定、賛美するグループだった。それに対抗して、1936年3月には、武田麟太郎の主宰する文芸雑誌「人民文庫」が創刊される。戦争とファシズムに抵抗するグループだった。
英子、つや、文子は「日本浪曼派」に、多喜子は、夫の上野壮夫とともに「人民文庫」に参加する。そして最後まで、反戦を貫くのである。
戦争協力しない、反戦をつらぬく。それは多喜子の矜持だったにちがいない。上野夫妻にとっては、精神的な財産ではなかったか。
上野は、1928年12月、水戸歩兵第11連隊に幹部候補生として入隊。しかし、翌年10月、〈反戦活動を理由〉に追放され、軍籍を抹消されたという。多喜子と結婚する前年のこと。
戦時中は、上野は評論家の大宅壮一の紹介で花王石鹸につとめている。プロレタリア作家が軍需産業に就職したときだ。上野は〈平和産業〉に就職する。これも、多喜子の自慢、得意とするところだった。
〈日本人は、朝鮮半島の人にひどいことしているもの〉という、小坂多喜子の言葉も忘れられない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture1005:210722〕
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