水を治むるもの其心亦必流水の如くを要せり ――田中正造・第2部――(6・終)
- 2021年 7月 23日
- スタディルーム
- 田中正造野沢敏治
(7)「水の心」を知って治水にあたる
人が作ったものは人で直すことができる
最後の視点に入ろう。ではどうしたらよいのか。水害は「人造の禍でありますから、又人造で取りかへしが出来るはずだ」(『全集』第4巻、86頁)。正造はそう考えて「水の心」を知ろうと努めてきた。その実現は水の意に反する人為を特定し、それを取り除けばよいだろう。人為は大きく2つあった。それをまとめておく。
封建的治水批判――今日のもの
一つ。正造は封建的治水家を批判する。「山は天地と共に並び立つ寿命である。又尊へものである。神ならぬ人間の干渉なぞは許さぬのです。然るに人口の増加生存上の都合や封建や要塞や領土や城郭やなんかの我利ゝゝ武者が山河に手を入れ、刈りたり崩したり埋めたり築きたり、頼みもせぬのに流水の滞留所や洪水の宿屋を造るなぞ途方途徹もない事、実に聞くにも堪へぬ。水に対しても山川の生命を奪ふので天地の罪人である。」(『全集』第4巻、373頁)。
近代的治水批判――今日こそのもの
二つ。正造は同様の趣旨で明治近代の治水家を批判し、自分の治水観をぶつけた。近代文明は道路や鉄道を建設するのに谷があれば橋を架け、山があればトンネルを掘って直行を求めた。だが水は直行を求めない。水は途中に障害物があればそれを避けて通る。障害物が弱ければ水は満ちてその上を通る。水は自由自在だ。ちょっと目では水が堤を破って人を傷つけるように見えるが 傷つけるのは水の自由を妨げた人間の法律や政策の方だ、近代文明の方だ、水は人を傷つけない。河川改修の工事をするのであれば、その「河川の心に問ふ」べきなのである。「水の形は平なり。地は高低あり。水は高低によりてよくこれに従ふものなり。」次の文章は長いがよく読むべきである。まったく今日に向かって言っているかのようである。
「今日といゝども道路汽車の設備は治水と異なり皆直線を好んで山河高低亦殆んど眼中になく、或は山腹をうがち高橋を架し座して千里を走ると雖、不(—―ママ)自然を害するに至って其害するの甚だしきほど今の文明の利益とする処多し。但し此利益なるものは天然自然より受ける利益にあらずして誠に之れ人造の利益なり。利益と云ふものヽ文明と云ふとも可否詳かならず。天の与へざるものにて人の与るものは必ず其内にあり。而も之れを文明と云ふを以て之れは知識に問ふて決すべし。只水は汽車道の如く無利に山をきり川を移動して妄りに直径直行を好むものにあらざるは断々呼として明かなり。川と道とは全く同じからず。約言せば道は法律の制裁に従ふと雖、水は法律の制裁なし。之を制限せば却て順ならず。水は誠に天地の如し。天地の大へなるは法律の制裁なし。即水の心なり。水は尚神の如し。自由に自在の自然力を有し又物を害さず偽らず、故障あれば避けて通るは水の性なり。水の故障物を破る如きは破るにはあらず、故障其物の弱くして故障とするに足らざるためなり。水は物を破らず、故障を破らず、故に水は堤防を破らず、堤防を避けて流るヽものなり。俗眼に堤みを破りたるとするは誤りの甚しきなり。若し夫堤み低ければ其上に避け弱しと雖侮りて破るにあらず、堤自身が倒るヽものならずや、然るに世の俗眼者自他を転
倒し妄りに罪を水に帰す。」
すぐ続けて、「悔へ改めよ。罪を水に帰するの世は洪水ますます多し。罪を己に帰する日は洪水必ず減少せん。」(『全集』第4巻、534-5頁)
興利でなく除害を
具体的には「河川の水の心に問ふ」工事、自然の風勢・地勢・水勢に聴いた工事をすればよい。河川の寿命は人の歴史などと比較にならないほどの深遠で長大なものだから、渡良瀬川とその地域の土地を30年余前の明治の初期の状態に戻す工事など「一瞬時の事業」であって何でもないことだろう。この認識は吉田と同じである。正造は開港や鉄道開通・開墾・新川造成等の「興利の問題でなく除害」(『全集』第4巻、25頁、340頁)して復古すべきだと主張した。それは関宿口を広げること等。これは消極的に見えて、上記引用文のように深い自然的「自由」の考えに基づいている。彼は水量の増加に対して堤防を高くすること(――今でもそう。当座はそれでもよいが)よりも、水量そのものを減らして流れの停滞をなくせばよいと唱えた。他は、利根川の下流を浚渫すること。そして明治40年に茨木県会も決議したように、時間はかかるが、水源地の山林伐採を禁止して植林を進め、水源地を涵養すること。これについてすでに国庫からの支出はあった。
ただし、正造は自論への反論に注意を怠らない。関宿の水門を広げれば確かに江戸川の下流は増水するが、彼は右岸の東京側の川幅を広げるか、地勢に応じて新しく分岐線を設ければよいと対応した。これも吉田の治水説と呼応する。
統一的な治水を
以上の自然の工事論の系となるが、治水は各県・自治体ばらばらでなく、水系に沿って統一的になされるべきであろう。実際、栃木県会は利根川「統治」を決議していた。正造も治水は目を関東全体に広げて行うべきだと主張していた。また治水は政治上の党派間の争いや多数決で決めるべきものではない。こうして統一的な治水がなされれば、正造が見越したように、県や郡の間、町村間での利害の対立(――治水工事は昔から地域の利害対立の中でなされてきた。自分の村が水害の危険に会うと、他の村の堤防を切ってそこに水を流すとか)や他地区に対する無関心はなくなって、「同情」しあう環境ができるだろう。利根川は全長70里に及ぶ大河川であり、その治水は足利や安蘇郡の8、9里の問題どころでなくなるだろう。
以上の急いでする除害と遠い先を見てする治水とあいまてば、水は高いところから低いところに向かって流れる。そしてこれまでのように工事費の高いわりに効果が少ないことはなくなり、本当の「経済」となる。
最後の正造
正造は病床にあって宗三に見舞いや葬式の心配をするよりも栃木の山川を回復してくれともらしたという。具体的には下野治水要道会の活動のことらしい。宗三はこれが最後と思い意を決し、今の状況ではそんなことはできない、だがその言葉は永久に忘れないと答えると、正造はいつもと違って宗三に感謝したという。他にも最後の正造の言葉や仕草がいくつか伝えられているが、それらは今日まで現地で正造の事業の精神を継ごうとしてきた人々によって解説してもらうべきだろう。
ただ1点、多少とも経済学史を学んできた者として、老婆心ながら付言しておきたいことがある。正造は大正2年8月4日の臨終となった日に協力者の岩崎佐十を呼んで次のように𠮟咤した。「お前方多勢来ているそうだが、嬉しくも何ともない、みんな正造に同情するだけで、正造の事業に同情して来ている者は一人もない、おれは嬉しくも何ともない、行ってみんなにそう言え」。ここからだけでもよい、私は経済学の父と称されるアダム・スミスの「共感」論に思いをはせてしまう。
……その後
正造の事業は当時では国民的な課題とならなかった。工業文明化を国家的課題とする前にあっては谷中村から一国を見る目は国民のものにならなかった。
政府は明治43年の大洪水を受けて利根川改修工事を開始し、江戸川もその一環として8年後の大正7年に関宿水閘門(水門で水量を利根川と江戸川に分ける調整と閘門で水位を船が航行できるように調節すること)の工事に入り、9年かけて昭和2年に完成する。これによって昭和4年には江戸時代の棒出しは撤去される。だが昭和24年のキティ台風による洪水で江戸川の堤防が決壊し、昭和33年の洪水では利根川流域が氾濫する……。正造の治水問題は終っていないのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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