東京オリンピック開会強行の日の違和感の数々
- 2021年 7月 25日
- 評論・紹介・意見
- 東京オリンピック澤藤統一郎
(2021年7月24日)
パンデミック下の東京オリンピックの開会強行は、1941年12月8日の開戦に似ているのではないか。あの日醒めた眼をもっていた国民の気持を擬似体験している印象がある。国家というものは、ホントにやっちゃうんだ。ブレーキ効かずに突っ込んじゃう。反対しても止められない。いったい何が、本当に国家というものを動かしているのだろうか。
昨日(7月23日)は、違和感だらけ。まずは、ブルーインパルスの演技に大きな違和感がある。あれは、戦闘機だ。戦争を想定して有事に人殺しを目的とする兵器ではないか。オリンピックが平和の祭典とすればその対極にあるもの。本来、人前に出せるものではない。
ブルーインパルス飛行を見物に集まる人に、さらなる違和感。「感動した」などと口にする感性を疑う。「オリンピック開催を強行すれば空気は変わる」と、愚かな為政者にうそぶかせる国民も確かにいるのだ。それが、この国の現状を支える主権者の一面なのだ。決して、多数派だとは思わないが。
「日の丸」掲げて「君が代」歌っての開会式に違和感。私は、開会式など観てはいないが、ナショナリズム涵養の舞台となったようだ。これからは、各国対抗のメダル獲得競争が展開される。これがオリンピックやりたい連中の狙いの本音。オリンピックやらせたくない派の反対理由でもある。
本日の毎日新聞「余録」の書き出しが、「表彰式における国旗と国歌をやめてはどうか」。1964年東京五輪開幕日の毎日社説の一節であるという。こうなれば、私の違和感も、払拭されることになる。しかし、各紙、今やそんな社説を書く雰囲気ではない。
余録は、こう続けている。「元々、国家の枠を超えて国際主義を体現しようとしたのがオリンピック運動の原点だ。68年メキシコ五輪時のIOC総会では廃止に賛成が34票で反対の22票を上回ったが、採択に必要な3分の2に届かず、否決された▲その後、旧ソ連など共産圏が反対の姿勢を強めたこともあり、廃止論は姿を消す。むしろ五輪を国威発揚に結びつけることを当然と考える国が増えた。ナショナリズムの容認が五輪の商業主義や巨大イベント化を支えてきたともいえる」
さらなる違和感が、菅義偉・小池百合子の天皇に対する態度を非礼と非難する一部の論調である。天皇が開会宣言のために起立しているのに、菅・小池が直ちに起立せず遅れての起立を「不敬」とする復古主義者からの攻撃に、国際的なマナーに反するという鼻持ちならない「国際派」からの批判が重なる。そのどれもが、天皇に権威をもたせることを自分の利益と考える連中の、とるに足りないたわ言。
オリンピック憲章の大部分は、常識的な文言を連ねたものだ。たとえば、次の一節。「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」
天皇とは、この憲章の一節における「社会的な出身、出自やその他の身分などの理由による、差別」の典型であり、身分差別の象徴にほかならない。貴あるからこその賤である。天皇の存在が日本の差別を支えている。「いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」とするオリンピック開会式の場で、身分差別の象徴である天皇への敬意を当然としてはならない。差別の象徴である天皇への敬意が足りないと非難される筋合いはない。
開会式のニュースで少し心和んだのは、「オリンピックはいらない」「東京五輪を中止せよ」「オリンピックより国民の命を大切に」などのデモの声が、競技場内にも届いたという。開会式の場は、別世界ではないのだ。
何よりも気になることは、今朝の各紙を見ると、緊急事態宣言下の東京であることが忘れられたような雰囲気であること。昨日の東京の人出は多かったようだ。オリンピック開会の強行は、反対論者が予想したとおりとなった。しかし、そのことによる感染拡大への影響の有無は、2週間ほども先にならないと分からない。
1941年12月8日の開戦は、多くの人の人命を奪い国を滅ぼした。2021年7月23日が、これと並ぶ禍々しい日とならないことを願うばかり。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.7.24より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=17274
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〔opinion11139:210725〕
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