岡まさはる記念長崎平和資料館会報より転載「李鶴来(イハンネ)さんの死去のニュースを聞いて」(園田尚弘)
- 2021年 7月 27日
- 評論・紹介・意見
- 「ピースフィロソフィー」
東京オリンピックの演出を担当していた人が、過去にナチスによるホロコーストの歴史をネタにしていたということが発覚してオリンピック開幕直前に解任されたということを聞いて、私は当然だと思いながらも、複雑な感情を持たざるを得なかった。第2次世界大戦中のユダヤ民族を標的にしたジェノサイドを否定することはこれだけ「あり得ないこと」との世界的認識がある中で、かたやホスト国日本は政府が率先して大日本帝国が植民地支配下に置いた朝鮮半島の人々を大量に強制動員したり性奴隷にしたりした歴史を否定したり矮小化したりして、真摯な補償も謝罪も拒んでいるのである。現政権には南京大虐殺を否定する者もうじゃうじゃいる。ホロコースト揶揄で即刻関係者がクビになるのだったら、そもそも国を挙げて大日本帝国の数々の大虐殺行為の歴史を否定する日本が開催国になる資格があったのだろうか?
3月28日、BC戦犯として裁かれ、日本政府に救済と名誉回復を求めていた李鶴来(イ・ハンネ)さんが96歳で亡くなった。植民地支配の下で加害者にならざるを得なかった元朝鮮人軍属は、最後まで正義を見ずに亡くなったのである。7月1日発行の岡まさはる記念長崎平和資料館会報『西坂だより』102号の巻頭言として、同資料館理事の園田尚弘さんが寄稿した文を許可を得てここに転載します。
巻頭言
李鶴来(イハンネ)さんの死去のニュースを聞いて
岡まさはる長崎平和資料館理事 園田尚弘
2021年3月28日、BC級戦犯として裁かれた李鶴来さんが東京で亡くなった。96才であった。
理不尽を絵に描いたような問題
岡まさはる長崎平和資料館二階の戦後補償のコーナーに、目立たないけれども、小さな説明版がある。それは朝鮮人元BC級戦犯についてのもの。アジア太平洋戦争中、捕虜監視をさせられた朝鮮人軍属が、BC級戦犯として1956年までも服役し、戦争に多大の責任があるA級戦犯容疑者たちが1948年末には釈放されたこと、戦後補償のなかでもあまりにひどい日本人と朝鮮人との差別を日本政府が放置していることを指摘したプレートである。この問題は理不尽を絵に描いたような問題である。
釈放後、援護措置を求めて長く政府に要請を続けてきた鶴来さんたち朝鮮人元BC級戦犯は、問題の解決をはかるべく、1991年、日本政府に謝罪と補償を求める訴訟を起こした。
強制的な徴用であったこと、二年間の契約であったにもかかわらず、契約が守られなかったこと、日本人戦犯との差別処遇などを根拠に政府を訴えた。
地裁、高裁、最高裁と訴えは退けられたが、裁判所は、立法措置によって訴えを実現するように付言した。付言にしたがって、鶴来さんたちは国会での立法を求めて長い間運動を続けたのである。その間に、ともに訴訟と運動を続けてきた仲間の原告たちは死に絶え、鶴来さんは最後の生き残りであった。このひとの死によって運動の当事者は死に絶えることになる。李さんは「有罪になった朝鮮人戦犯148人の唯一の生き残り」でもあった、という。(『世界』、2021年7月号による)
長年にわたる運動の経過のなかで鶴来さんたちはさまざまの困難、苦悩を味合わされたが、近年になって鶴来さんが訴えていることはしぼられていた。
「私が言いたいことは一つだけ。同じ戦犯でありながら、日本人の場合は戦犯として恩給や援護等の処遇をし、われわれ朝鮮人の場合は、日本国籍ではない、と、謝罪も何もしようとしない、ここが一番不満なところです。」(『世界』2020,9月号)
この言葉は、長い間、日本政府に謝罪と補償を要求してきた運動のプロセスのなかで、当初よりは引き下げられた要求であろうが、味わった理不尽さを端的に表現している。同じように戦犯でありながら、日本人であれば、恩給や年金を受給できるのに、朝鮮人を不当に差別しているという訴えが出てくる歴史的な背景はこうである。
泰緬鉄道と捕虜監視
李鶴来さんは全羅南道、光州近くの宝城という村の出身で、朝鮮が日本の植民地であった1925年に生まれた。17才で強制的に軍属として捕虜の監視を行なうことになった。朝鮮半島全土から3000名が集められタイ、ジャワ、マレーなどに送られた。李さんは捕虜の扱いに関する国際条約(ジュネーヴ条約)について知らされることもなく、精神訓話を聞かされ、軍事教練を受けたのみで、タイの捕虜収容所に赴き、泰緬鉄道の敷設に追い立てられた連合軍捕虜の監視の仕事をおこなった。泰緬鉄道は日本軍がインパール作戦遂行のためにタイのバンポンからビルマ(現在のミュンマー)のタンビュザヤまで敷設した約415kmに及ぶ鉄道であった。泰緬鉄道工事については、私達の資料館でも二階踊り場のコーナーで写真を展示しているが、その工事は「枕木一本に一人の死者」といわれるほどの過酷な工事として歴史的にも悪名高い。連合軍捕虜5万5千、東南アジアの労務者7万人以上が動員され、多大の犠牲者が出たことが知られている。連合軍からの捕虜の死者数は1万2千以上、労務者にいたっては死者数もわかっていない。鶴来さんが送られたタイのヒントクでは食料は不足し、伝染病は蔓延し、しかも薬品は欠乏していた。鶴来さんたちは軍鉄道隊の要求にこたえて、無理にでも作業員の数をそろえなければならなかった。このことが戦後、捕虜虐待として有罪判決をうける原因になった。1946年9月に出された起訴状は却下され、一旦は釈放された。しかし帰還船での帰路、香港で止められ、香港からふたたびシンガポールに連れ戻された。1947年3月20日、オーストラリア裁判で死刑の判決を受ける。(一度下された判決を無視して、再度刑を宣告するのは裁判の常識を無視しているが)。八ヵ月後に20年の刑に減刑される。李さんと同時期に戦犯として有罪判決を受け、刑死した朝鮮半島の出身者は23人に上っている。李さんは死刑になった仲間の無念さを忘れることはなかった。(同じように日本の植民地であった台湾出身者は26名の刑死者)
日本人の「肩代わり」をさせられた朝鮮人
李鶴来さんは1951年シンガポールから東京の巣鴨プリズンに移送された。
1952年、日本はサンフランシスコ条約によって独立し、朝鮮人は非日本人となる。この措置によって外国人として日本政府の援護措置からは除外されることになった。一方で刑を宣告されたときは日本人であったからという理由で戦犯としての拘禁は続いた。
天皇制ファシズム国家の二級国民で、ピラミッド構造の下層の朝鮮人軍属が1956年まで拘束された一方で、戦争遂行に重い責任があるトップのエリートたちは(たとえば後に日本国首相になった岸信介)1948年には釈放された。A級戦犯容疑者の「岸は植民地政策の計画立案者であったし、1941年、日本の宣戦布告の署名人の一人であった。」岸がエリート中のエリートであったことは論をまたない、とG.マコーマック氏は断じている。朝鮮人BC級戦犯はこれらの日本人の「肩代わり」をさせられたといわれるゆえんである。
朝鮮人でありながら、戦争中はいやおうなしに日本人として徹底した皇民化を強いられ、戦後は手のひらをかえすごとくに「外国人」として突き放されたことがどんなに腹立たしいことであったかを、多くの日本人はほとんど理解できないのではなかろうか。私自身あるとき真横に座っていた徐正雨さんが怒りをこめて「戦争中は日本人、日本人だといって、戦後になったら外国人という」と発言するのを聞いて、自分のことを言われたと考え、恥ずかしく思った。長崎の端島炭鉱で強制的に働かされ、三菱造船所で被爆した徐さんにとっては、昔のこととはいえ、国籍の喪失は、昨日のことのごとくに怒り心頭に発する出来事であったであろう。それはたんに言葉の問題だけでなく、政府の援護から不条理にも突き放されるという苦痛をも意味しているのであったから。
繰り返しになるが、鶴来さんの死によって立法措置を求める運動の当事者はいなくなってしまった。
新聞報道によれば、死後、4月1日、国会内で超党派の国会議員11名や市民が、特別給付金による救済立法を求める集会を開いた。
その際「長年、運動を支援してきた内海愛子・恵泉女子学園大学名誉教授は『不条理に対する当事者の思いを伝える立法運動を続けていく』と話した」(毎日新聞2021年4月2日)
救済のための立法が実現するように、私たちも国会議員たちの活動に注目し、李鶴来さんたちの願いが実現するように声を合わせていきたいと思う。しかし立法による戦後補償を求める声に応える議員たちの動きはまことに鈍い。
(そのだなおひろ)
関連報道記事
(社説)李鶴来さん死去 日本の正義問い続けて(朝日)
外国人BC級戦犯、救済立法求め集会 超党派議員ら、当事者死去受け(本文中で触れられている毎日新聞2021年4月2日の記事)
李鶴来さん(韓国人元BC級戦犯)を悼む 謝罪と補償、闘いの人生=内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)(毎日)
「戦犯となった朝鮮人青年」、苦難に満ちた65年間の戦いの末、無念の死(ハンギョレ)
李鶴来さんの本『韓国人元BC級戦犯の訴え―何のために、誰のために』(梨の木舎、2016年)
初出:「ピースフィロソフィー」2021.7.26より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.com/2021/07/blog-post.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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