ジェノサイド(族戮)罪――多民族戦争を多面的に考察させない概念装置に堕落させない為に――
- 2021年 7月 31日
- 評論・紹介・意見
- ジェノサイドホロコースト岩田昌征
2021年6月8日から10日、セルビアの日刊紙『ポリティカ』の主要記事は、旧ユーゴスラヴィア多民族戦争のBiH(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)段階、すなわちボスニア戦争(1992年4月-1995年9月)の最終局面、1995年7月11日からの1週間に突如勃発したスレブレニツァ虐殺事件の最高かつ最終責任者とされたボスニア・セルビア人軍総司令官ラトコ・ムラディチに対するハーグ旧ユーゴ国際刑事法廷残余機構(2017年末に閉鎖された旧ユーゴ国際刑事法廷の後始末担当組織)控訴審の判決である。
第一審(2017年11月)の判決は終身刑。人道に対する罪、根絶、殺害、追放、非人道的移動、対文民犯罪、対住民テロ、対文民攻撃、国連要員人質、戦争法慣習違反の故に有罪。スレブレニツァとサライェヴォへの軍事作戦と国連要員人質に関する共同犯罪企画(共謀)罪。スレブレニツァのジェノサイド罪の認定。すべて検察側の主張の通りであったが、唯一つ、BiHの他の諸地域、すなわちフォーチャ、クリュウチ、コトルーヴァロシ、プリィエドル、サンスキモスト、ヴラセニツァの六ヶ所におけるジェノサイド(人種、民族、宗教を同じくする集団の計画的根絶)罪は、検察側の敗北であった。それ故に、弁護側はすべての罪状に関して上訴、検察側は六ヶ所におけるジェノサイド罪状に関して上訴。
弁護側は、控訴審にある種の期待をいだいていた。弁護側は、第一審判決が因って立つ諸根拠が以前に有罪となっていたボスニア・セルビア人被告達への判決で確認された諸事実だけであって、ムラディチ裁判で弁護側が新たに提出した諸事実の吟味は回避されていたと第一審判決を批判していた。この点で第二審に期待していたのである。
控訴審の判決は、弁護側の淡い期待を完全に拒否した。第一審の通りであった。このスレブレニツァ地域におけるボスニア・ムスリム人(ボシニャク人)とボスニア・セルビア人の民族間抗争において自存自衛の先頭に立つ英雄は、ナセル・オルリチ将軍とラトコ・ムラディチ将軍である。ボスニア・セルビア人民衆の経験に即して言えば、オルリチは、国連非武装安全地帯に指定された地域の中心的都市(日本的基準によれば町)スレブレニツァから出撃して、周辺のセルビア人村落を放火破壊してまわり、1995年7月11日以前に3000人のセルビア人村民を殺戮し、安全地帯に引き揚げる鬼である。ボスニア・ムスリム人(ボシニャク人)の体験に即して言えば、ムラディチは、1995年7月の1週間でボスニア・ムスリム人の捕虜をはじめ、7000人に及ぶムスリム人(ボシニャク人)成人男性を集団虐殺した憎むべき魔である。北米西欧市民社会が自由・人権・民主主義の正義を実現すべく期待を込めて育成した旧ユーゴ国際刑事法廷が両者に下した最終的判決は、オルリチ将軍に対して懲役2年(通常の戦争法規慣例の侵犯)であり、ムラディチ将軍に対して終身禁固(世界史上初のジェノサイド罪等)である。
かかる落差は、決して両民族の共生を進める方向に働かない。自己の北米西欧的正義を貫き通したドイツ語を母語とするベルギー人主席判事S.ブラメルツは、確定判決の直後、この落差を当然自覚して、セルビア人の気持ちを宥めるためにか、「これはセルビア人に対する判決ではなく、ムラディチ個人だけに対する判決である。」とあらためて法の建前を強調していた。
ここで、私=岩田の主観的感想を述べる。第二次大戦後にジェノサイド罪が法的に確立されたのは、言うまでもなく、第二次大戦前と第二次大戦中にナチス・ドイツによって行われたユダヤ人大殺戮、genocide、あるいはholocaustと呼ばれるようになった近代文明史上空前のユダヤ民族根絶政策とその徹底的実行が在ったからである。その時代、ユダヤ人はドイツ国内のある州をユダヤ人国家たらしめようと構想したこともなかったし、そのためにユダヤ防衛軍なる独立国家建設を目指す軍隊を持つなんてことを夢にも思っていなかった。ユダヤ人とドイツ人の間に軍事衝突や内戦の可能性なんか、ユダヤ人やドイツ人の生活の中のどこを探しても全く見出し得なかった。それなのに、ナチス党が国家権力を握ると、ただただユダヤ人と言うだけで、ユダヤの文化を受け継いでいると言うだけで、ユダヤ人の老幼男女が生活場所から暴力的に各地の絶滅収容所に搬送され、そして全財産が奪われるだけでなく、生命が、ガスや銃弾で消されるだけでなく、かなりの数量のユダヤ人肉体が石鹸製造等の原材料としてドイツのために有効利用されたのである。ジェノサイドなる言葉、word、reč にはかかるまことに形容しようのない二民族の歴史的因縁がこびりついている。
スレブレニツァに拠点を持ったBiHのムスリム人軍第28師団の捕虜7000人が集団虐殺された事件に適用するには不適当であろう。このような「ジェノサイド」語使用は、真実のジェノサイドの重みを軽くすることになろう。やがて、ドイツ人の歴史修正主義者達は、「ジェノサイド、ジェノサイドと言うけど、それは何のことだ?セルビア人がスレブレニツァでやったことでしょ!」と語り始めるかも知れない。
控訴審は、ラトコ・ムラディチをジェノサイド罪等によって終身禁固刑にした。ところがである。ここに予想外の法的事件が起こった。控訴審の裁判官グループは5人から成る。ザンビア出身2人、ジャマイカ出身1人、ウガンダ出身1人、モロッコ出身1人である。裁判長は、ザンビア出身のPriska Motimba Nijamba 女史である。今年は、極東国際軍事裁判、世に言う東京裁判が開廷して75年である。多くの年配の日本人にとって、インド代表判事パルの別個意見書、いわゆる「パル判決書」が被告人全員無罪を主張した事は忘れ難い。賛否を問わずにだ。しかしながら、パルは一判事にすぎなかった。しかるに、ハーグの「ムラディチ裁判」では、裁判長自身が法廷の判決に異をとなえる別個意見書を書き、ムラディチと弁護チームの控訴9個条のうち国連要員人質事件を除く8個条すべての主張を認めて、「ムラディチに20年以上の刑を課してはならない。」と主張し、再審が必要であるとした。日刊紙『ポリティカ』(2011年6月10日)は、大喜びで「ハーグにさえ尊敬すべき不偏向の裁判官がいた。」と特記する。
ザンビア出身の裁判長プリスカ・モティムバ・ニヤムバ女史一人は、ラトコ・ムラディチ将軍をジェノサイド(=ホロコースト)罪から解放した。少数意見であって、旧ユーゴ戦争犯罪刑事法廷残余機構の最終判決ではなかったにせよ、BiHのボスニア・セルビア人、セルビア共和国の北米西欧リベラリズム信奉者以外のセルビア人にとって一種の救いである。彼等とて、BiHセルビア人軍がスレブレニツァで否定しがたい捕虜大量処刑の残虐行為を働いた事自体を否認しているのではない。それをナチス・ドイツがユダヤ人になした空前絶後のジェノサイド=ホロコーストに等置する事、そうしようと執念をもやす北米西欧の偏頗な正義観念を受け容れないだけである。
『ポリティカ』(2021年6月12日)に、BiHセルビア人共和国政府が何年か前にイスラエル人歴史家でジェノサイド=ホロコーストの専門研究者ギデオン・グライフ教授に委嘱して設立された「スレブレニツァ地域において1992-95年期にすべての民族が受けた被害犠牲を調査する独立国際委員会」報告書がセルビア人共和国の首都バニャルカで発表されたと報じられている。報告書の最も重要な結論は、「ジェノサイドと言う術語をスレブレニツァに適用できない。」である。また、スレブレニツァで倒れた人々の数は、ボシニャク人(ムスリム人)が最も多く3500人、2000人強がセルビア人である。
『ポリティカ』(2021年6月13日)に独立国際委員会議長ギデオン・グライフ教授自身が長いインタビューに登場した。ほんの一部だけ紹介する。
――問:何故この問題にかかわったのか。
――答:セルビア大使リリャナ・ニクシチ女史に2016年「セルビア人妻・女性レイプ証言集」作成に助言を求められた。何事も黒か白かではない。犠牲者に一級も二級もない。9歳の娘を目の前でレイプされ殺されたセルビア人女性の話にショックを受けた。私達のメンバーは、イスラエル、ドイツ、イタリー、アメリカ、日本、オーストリー、ナイジェリアから、政治家でもなく、軍事指導者でもなく、法律家、歴史家、解剖学者だ。事実を選択的に語ることはしない。すべての戦争犯罪をひとからげに「ジェノサイド」、「ホロコースト」とすることは出来ない。ユダヤ人の私にはそれが良くわかる。
――問:ラトコ・ムラディチへの最終判決でもスレブレニツァ・ジェノサイドが認定されたが・・・。
――答:カナダのマッケンジー将軍やポルトガルのカルロス・ブランコ将軍は沈黙せず、自分の覚書で事実を記した。注目と尊敬に値する。また裁判長プリスカ・モティムバ・ニヤムバ女史の別個意見も世界中の注目を惹いた。彼等は誰もセルビアと特別の関係なし。
ここで、ムラディチ判決直後のセルビアの首都ベオグラード発行の週刊誌を一見してみよう。
親北米西欧リベラリズム系週刊誌『ヴレ―メ』(2021年6月10日)の表紙写真は、私服のムラディチ将軍、法廷での姿かも知れない。表紙語は、「ラトコ・ムラディチへの最終実効判決、同情の余地なき人物」である。
親露容中ナショナリズム系週刊誌『ペチャト』(2021年6月11日)の表紙写真は、軍服のムラディチ将軍、背景にセルビア王国の国旗がうっすらと。表紙語は、「ラトコ・ムラディチへの判決、終身感謝」である。
最後に一言。大東亜戦争に関してジェノサイドやホロコーストの概念に近似的にせよあてはまりそうな悲劇を探してみると、昭和20年3月10日東京大空襲の下町住民10万人大焼殺、8月6日広島住民大焼殺、8月9日長崎住民大焼殺に思到する。南京大虐殺、バターン死の行進、昭南島(シンガポール)中国人狩殺、沖縄戦の住民犠牲等は、通常の戦争法規・戦争慣習にさからう戦争大罪であっても、戦後に新しく成立したジェノサイド(ホロコースト)罪にそぐわない。しかも、それらの責任者は、すべて戦後の戦争刑事法廷で裁きを受け、死刑を含む報いを受けている。
三つの大焼殺、すなわち三つのホロコースト(字書的に言えば、人や動物を全部焼き殺すこと)の責任者の誰一人として報いを受けていない。それどころか、第一のホロコーストの企画実行者のアメリカ軍人カーチス・ルメイ将軍は、1964年・昭和39年、日本国政府から旭日大綬章勲一等を受けている。流石、昭和天皇は親授されなかった。
令和3年7月29日(木)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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