やがて悲しきカタカナ語
- 2021年 8月 4日
- 評論・紹介・意見
- カタカナ語日本語阿部治平
――八ヶ岳山麓から(340)――
先日地球環境の問題を勉強しようと思って、いくつか単行本・評論の類を読んだ。いずれも英語あるいは他の外語で学術論文が書けるレベルの研究者の文章である。どの論文にも見たことのないカタカナ英語が登場し、辞書を引くたび考えを中断しなければならず、これには本当に泣かされた。
それらの論文のひとつから、迷ったり辞書を見たりした単語を下に挙げる。テクノロジーとかキャパシティーといったレベルの日常多く使われるカタカナ語は省略。( )も原文のまま。ちなみに掲載誌は『世界』(2021・05)である。
グローバル・コモンズ
レジエント(自己回復力のある)
プランネタリー・バウンダリー(地球の限界)
サブ・システム
デジタリゼーション
グローバル・サウス、グローバル・ノース
ナラティブ
地球システム
クライメット・アクション・トラッカー
ソリューション・ネットワーク(Sustinable Ðevelopment Solutions Network:SDSN)
グローバル・コモンズ・スチュワードシップ・インデックス
非国家のアクター(non-state actors)
協働のためのプラットフォーム(マルチステークホルダーによる協働)
バリューチェーン
アカウンタビリティ
グリーン・リカバリー戦略
パスウェイ
フレーミング
1万字に満たない論文に、難解単語がこんなにたくさんあるのは、主に自分の英語力が貧しいためであるとは承知している。だが、この論文が地球環境の危機を人々に訴えるために、啓蒙のために書かれたとすれば、その目的を十分に果たしたとは到底思えない。
翻訳しようにもできない語彙なら仕方ないが、この論文にかぎらず、このたび読んだ論文の書き手は外語をわかりやすい日本語に翻訳する気が全然ないように思えた。読み手がわかろうがわかるまいが、英語語彙をカタカナに置き換えて日本語の文章に挿入することに全く躊躇がない。
だが私は、このことをここで非難しようというのではない。私は難解なカタカナ英語が氾濫する文章は、戦後日本語の変化が新段階に入ったことを表しているのではないかと疑ったのである。
この種の書き手の気持は、漢語がどっと入ってきた古事記・日本書紀が書かれたころの、古代国家の官僚、知識人の心理に似ているのではないかと思う。日本国家が成立したばかりのころ、支配者は大陸の輝かしい文化に拝跪し、律令を取り入れ、公用文は漢語、国家宗教は仏教とした。
漢語の導入によって、やまとことばの音韻に「ン」という撥音(はつおん)、「ッ」であらわされる促音(そくおん)、「シュ」とか、「キュ」といった拗音(ようおん)などが入ってきた。発音ばかりでなく、日本にない語彙はそのまま漢語を用いた。
たとえば、当時雨や風はあっても「天気」という言葉はなかった。そこで「天気」を取り入れた。「絵」という言葉がないので「エ・カイ」という発音とともに「絵」を取り入れた。漢字には造語能力があるから、やまとことばもどんどん漢語に置き換えられた。古代国家の官僚や知識人は、文章以上に、会話の中で漢語をちりばめることに何の抵抗もなかったと思う。むしろ優越感を抱いたであろう。
時とともに支配層あるいは知識人のやまとことばは大きく変化した。それは時ともに下々に浸透していった。同時にやまとことばの発達はここで止まった。上位概念あるいは抽象語は、漢語・漢字を用いずには成り立たなくなったのである。明治維新前後の欧米語導入時期の西周や福沢諭吉などによる翻訳を見てもそれは確かめられる。
第二次大戦後はおもに学校教育によって、古代と同じように英語の新しい音韻、「ティ」とか「ファ」とかがじょじょに現代日本語の中に入り込んだ。そして、衣食住のような日常生活の中にカタカナ語が氾濫するようになった。もちろんその中には原語とは意味の違う使い方をされているもの、和製英語、JRとかJAというわけのわからない略語もある。
話はとぶが、しばらく前、若い研究者からある大学での研究会に参加するよう誘いがあった。その集会は英語で行われるとのことで、私にも英語で体験を語るようよう求められた。参加者のほとんどは日本人だが、英語母語者が2,3人いるとのことだった。
私は集会の目的は理解できたが、日本で開かれ日本人の参加者が多数の会合で英語で討論するというのがどうしても納得できなかった。誰かが英語通訳をやればいいではないかと思った。
集会の主催者は、私が英語ができないと言うのを怪しんだらしい。くりかえし趣旨を話して参加を求めた。話を聞いているうちに、この人は、学術討論は日本語ではなく英語でやるのが当然だという考えであることがわかった。そして私も、企業によっては社内の会話を英語でやるとか、昇進を決める際に英語の能力を加味するといったところがあるのを思い出した。
学術論文の80%以上は英語だということは、数十年前から知っている。論文を英語で書かなかったら、国際的に通用しないというのもわかっている。この人は、そこまでわかっているならば、英語で体験談くらいやれなかったらおかしいと思ったらしい。
私は日本人の英語ならともかく、英語を母語とする人の話は聞いてもわからない。まして英語で報告することなど思いもよらないので、その旨を話して参加を断った。
これからすれば、啓蒙を目的とした文章に難解なカタカナ英語をどんどん書きこむ人がいてもおかしくはない。少なくともある層の知識人たちの日本語のあつかいはそういうところまで変わってきている。
これはおそらく20世紀末からの新自由主義の席巻、グローバリズムの浸透とともに進んだ傾向であろう。第二次大戦後の日本語にしてみれば、アメリカ化が一層深化したことになる。古代日本が当時最高の文明を誇った大唐帝国に学んだように、現代も世界で一番強いアメリカに拝跪し追随するのである。
外語とちがい母語は交流の道具というだけではない、民族の精神である。また外語はどんなに学んでも母語を超越することはできない。だが、上に見たように、ある種の知識人の日本語は、権力ずくの強制ではなく、自らの意志で英語のカタカナ語彙を大量に取り入れることによって成り立っている。この傾向は教育によってやがて次世代に受け継がれ、世の中に浸透していくことだろう。
そして現代日本語は、古代やまとことばの経験に匹敵するような変化、つまり語法の基本に変化はないにしても、英語語彙を除いては言語として成立しないようなレベルまで変化を遂げるのではないか。そうなると日本人の精神の在り方も変わるかもしれない。
人と話す機会の少ない私には、日本語は変わるという見当はついても、具体的にどう変わるのかわからない。みなさまはどうお考えだろうか。
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