「女がだまされると戦争になる」
- 2021年 8月 26日
- 評論・紹介・意見
- 国防婦人会女性戦争米田佐代子
―NHKスペシャル「銃後の女性たち―戦争にのめりこんだ‟普通の人々”」を観ました
2日続けてNHKテレビを観ました。今日はわたしの好きなドキュメントです。「国防婦人会」がテーマでした。日本が満州事変と称して中国侵略戦争を始めた1930年代、出征する兵士の中には丁稚奉公などで故郷を離れていて、家族の見送りもなくひっそりと「出征」していかなければならなかった若者もいたそうですが、「そんなん、かわいそうや」と見送り役を買って出た「主婦」のはたらきがきっかけになって誕生したという国防婦人会。その「軍事援護活動」に目を付けた陸軍の肝いりで「国家公認」お墨付きの婦人団体としてあっという間に巨大化していったことは知られています。やがて「ぜいたくは敵だ」とか「欲しがりません勝つまでは」と戦時統制推進のお先棒を担ぎ、街角で長い袂の着物を着ている女性を見つけるとハサミでじょきじょき袂を切り取ったという権力的なエピソードも残っています。やがて国防婦人会は、日露戦争の時からの軍事援護婦人団体として有名な愛国婦人会、国策家庭教育を推進する連合婦人会の三大婦人団体と合体して「大日本婦人会」となり、在野の女性史研究者高群逸枝もその機関誌に熱烈な「神国日本」の聖戦をたたえる文章を書いたことも知られています。愛婦は内務省、国府は陸軍、連婦は文部省が握って勢力争いをしていたのを統一したのだということです。
ごく普通の主婦たちが、なぜそのような熱狂的な「戦争協力活動」に参加していったのか。「銃後の女性」の「戦争協力」については、藤井忠俊『国防婦人会』、加納実紀代さんをはじめとする『銃後史ノート』運動や中国人女性史研究者胡澎さんの大著 『戦時体制下日本の女性団体』など数多くありますが、この番組のすごいところは、戦後76年経って、当時実際に母親が国防婦人会に参加したという女性たちの子世代を何人も探し当て、「なぜそういう気持ちになったのですか」と一人ひとりの「心の戦争」を問いかけたことです。答える当事者はほとんど80代から90代。つまりわたしと同世代です。ということは、わたしの母は「国防婦人会」世代だったということです。ただ、わたしの母はいわゆる国防婦人会の「活動家」ではありませんでした。それはたぶん母が夫の任地を転々とし、地域社会では「ヨソモノ」だったからではないかと推察しています。しかし国家プロジェクトですからそこからこぼれることはない。子ども心にも母が家に居なかった記憶はほとんどありません。末の弟が1940年生まれですから乳飲み子を抱えて出歩くわけにいかなかったのだと思う。それでも「防空演習」でバケツリレーをしたり、戦争末期には「竹槍訓練」に動員され、柱に括り付けたわら束に向かって「エイヤ」と竹槍を突っ込む練習をさせられて「米兵が上陸して来たらこれでやっつける」と聞かされたけれど「向こうは機関銃かなんか持ってるのだろうと思ったら笑ってしまった」と話したことを覚えています。そういう「狂気の沙汰」が女性の戦時援護活動」だったのです。
登場する女性たちの貴重な証言は、ぜひ再放送を期待してみてほしい。「兵隊さんに喜んでもらえて人の役に立つ喜びを感じた」「家で姑につかえて自分のしたいこおてゃ何もできなかったけれど、国防婦人会の会合や行事には出ていくことができて開解実感をもった」という思い出は、女性が無権利であるとき、いともたやすく戦争動員が自己実現の機会に置き換えられてしまうことを物語っています。沖縄で教師になった女性が、差別されてきた沖縄の人びとが「日本人」として立派な人間であることを示そうとし「方言禁止」を強く指導したという経験も語られます。彼女は戦二度と教壇に立たなかった。生徒や親の前で戦争協力を訴えた自分が醜く恥ずかしかった」という手記が残っていました。これは小説家三浦綾子が戦時中酷寒の北海道で教師になり、凍える子らのために教室であたたかいみそ汁を作ってやるほど優しい教師だったにもかかわらず、戦後自分はこどもに「お国のために死ぬ」ことを教えてしまったと教壇を去った経験と同じです。わたしの母はひっそりと暮らす主婦でしたが、それでも15歳の息子が少年兵に志願したいと言いだしたとき止めることができなかった。「親にも逆らったことがなく、男の子なのに弟妹をかわいがり、ほしかった自転車も列車通学に必要だった時計も買うことができず我慢させた息子のたったひとつの願いを聞き届けてやりたいと思った」「体のちいさな息子を陸軍にはやりたくない。海軍の飛行機乗りなら少しは楽かもしれない」と思いあぐんで海軍飛行予科練習生という名の少年兵志願を許してしまった母は、敗戦2か月前に特攻隊に指名されながら出撃を待たず空襲爆撃で16歳で「戦死」したことを知ったから90歳でなくなるまで、自身を「戦争犯罪人」と呼び、「女がほんとうのことを知らずにだまされたら戦争になる」と言い続けて、60歳過ぎてから通信教育で勉強していました。「国防婦人会世代」の女性の痛恨の思いです。
この番組が、女性たちの「戦争加担」の実際を、このように掘り起こしたことの意義は今の情勢を考えると貴重だと思う。というのは、ここで問われた「女性が社会で評価される」ことが国策に沿っているときだけだったという事実と、「いわれたことをしていればいい」という「同調圧力」の恐ろしさです。この時代、一方では戦争に反対しようとした女性も少なくなかったのですがそれは「社会活動」どころか徹底的に弾圧されました。赤いものを身に着けて街頭に立とう、と「女の平和」運動を呼びかけた心理学者横湯園子さんが最近になって戦時中両親とも反戦思想をもっているというので特高警察に追われ、30数回も転居せざるを得なかったという証言を語り始めたそうですが、そういう女性もいたのです。しかしそれは「排除」されてしまった。それを繰り返してはならない。
もう一つ、わたしが痛感しているのは、戦後の今女性たちは決して戦争賛成などと言わず、「安保法制」にも反対し、憲法を守る運動にも参加し、日本政府が拒否している核兵器禁止条約に参加せよという声も上げている、しかしそのときでさえ、わたしたちは「いいことをしている」という自覚のゆえに自分で考えて意見を持つことを第一義的にしているだろうかという問いです。わたしは子どものPTA活動に40年以上昔としては少数派だった「働く母親」として参加し、「昼間の活動にはあまり参加できないけれど、会議の記録と広報の係ならできる」と申し出たことがあります。書くことが本業ですからね。しかし、PTAの新聞を作るとき、校長先生から「学校方針に疑問など書かないで下さい」とく釘をさされました。でも親たちの間ではそれでは自由に意見をいえないという不満があったのです。わたしは「いきなり不満を新聞に書くのではなく、先生方とよく話したあってそれを記事にしよう」と提案、「給食がおいしくない」という声や「音楽や図工の成績が先生が変わったら評価が180度変わってしまった」という疑問を率直に学校にぶつけて返事をもらい、そのやり取りを記事にすることにしました。それでも校長先生は渋り、PTAの役員の間でも「学校が嫌なことは載せるべきでない」という意見がかなり出ました。それを説得し、担当の先生方にも納得してもらって何回か取り組んだことを覚えています。それはけっこうよく考えないとできない作業でした。面倒だから「学校のいうとおりにしておけば」という人もいました。
この番組をただ「女も戦争協力した」という側面だけでなく、今も(あの森発言のように)女性が自分で考えて意見を持つことを拒絶する風潮への警鐘としても見てほしい。92歳の女性が「自分の考えを持って行きたい」と毎日新聞を読み、勉強しているというシーンに共感した次第です。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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