教員不足の解決に向けて 教員の仕事をより魅力的なものにすることが必要だ
- 2021年 9月 18日
- 評論・紹介・意見
- 小学校教員小川 洋
最近、義務教育とくに小学校の教員採用試験の倍率が低下し、教員の質の低下を懸念する声が聞こえてくる。
公立学校の教員採用試験は二段階で行われる。教科の専門知識の他、教職教養の筆記試験さらには作文(小論文)、集団面接などを一次試験で課し、採用予定数の2~3倍程度まで絞り、二次試験で、教科専門知識や面接あるいは実技(模擬授業)などを課し、最終合格者を確定する。応募者が3倍以下では成り立たない仕組みである。
しかし、2020年の福岡県では小学校教員の応募者が1.4倍にとどまるなど、多くの都府県(政令指定都市は独自に採用することができる)で採用予定人数の3倍を集めることが困難となっている。00年代にも大都市圏周辺では競争率が3倍を切る教育委員会が多かった。
横浜市では採用されても1,2年で退職する教員が増え、その分、採用数を増やさざるをえず、倍率がさらに低下する悪循環に苦しめられた。
いまでも大半の教育委員会が、かろうじて二段階選抜を続けてはいるが、就職情報企業の表現によれば「小学校教員採用試験は、人物重視になっている」そうだ。だが実際問題、倍率が2倍程度では、教員に不向きな人物が紛れ込むことは避けられない。良質な教員を安定的に確保するためにできることを考えてみたい。
教員の需給関係
教員需要は児童・生徒数によって決まってくるから、児童・生徒数の自然的増減と社会的増減によって左右される。1947-49年生まれの団塊の世代と1971-74年生まれの団塊ジュニアは、それぞれ最多年には269万人、209万人の出生があった。しかも団塊ジュニアたちは、高度経済成長に地方の団塊世代が大都市圏に大挙して移動して産まれた子どもたちだったから、70-80年代にかけて、学齢人口は大都市圏とくに大都市近郊に著しく偏った。
一方、教員の供給は硬直的である。教員免許を取得するためには、免許取得可能な大学で学ぶことになるが、大学は準備して文科省から免許ごとに課程認定を受けなければならない。小学校教員免許については、旧文部省は抑制的な態度で臨み、大都市圏を除けば、地方国立大の教育学部のほか、各県に1校程度しか認めていなかった。現在でも東北地方や中国地方など、少子化の進む地方では国立1+私立1の二校という県が多い。
一方の大都市圏では、爆発的な学齢人口の増加と規制緩和政策の流れに押され、文科省は私大を中心に小学校教員の課程認定を数多く下すようになる。小学校教員免許が取得できる大学は、現在、国立大学の52校に対して、私大は230校に上る。私大の総数は全国で592校だから、じつに4割近い私大が小学校教員養成課程を持っていることになる。私大のなかには教員や施設などの点で国立大に見劣りしない内容を備え、教員採用においても実績を上げているものも少なくない。
しかし、よく知られているように現在、私大の4割が定員割れで、実質的に応募即合格状態の大学も少なくない。拙著『消えゆく限界大学』(白水社)で指摘したように、定員割れの私大の多くは短大が昇格したものである。そのような大学でも多くが小学校教員養成課程の認可を得ている。
両極端の教員養成
小学校教員の保有する教員免許種には基本的に2つのパターンがある。幼稚園+小学校と小学校+中学校の2つである。文科省の統計によれば前者が約23%、後者が約60%である。女性教員に限れば前者は30%となり、地域別では大都市圏ほど前者の比率が高いものと考えられる。
国立大の学生は、基本的にセンター試験(21年から「大学進学共通テスト」)を受験しているから高校までに5教科を広く学んでいる。入学後も、学習環境は恵まれ、一般的に小中学校の教員免許を取得する。教科ごとに数名の専門分野の教員が配置されるうえ、教育心理学などの周辺分野さらに教科指導方法の教員を配置するから、新入生定員100名程度でも教員数は最低でも60名程度は必要となる。私大でも小中の免許取得が可能な場合は、これに準じた教員が揃えられる。
しかし幼稚園課程をもち小学校課程が追認された大学では、従来の教員をそのままに、最低限必要となる数名の教員を追加し、施設・設備も最低限の追加で済ませた大学も少なくない。これらの大学では、入学時の学力が担保されていない場合も少なくない。文科省が形式的な審査で課程認定した大学から送り出される免許取得者も、競争率の低迷する教員採用試験に臨む事態が生まれているのである。教員養成の実績が芳しくない大学に対しては、定期的な再審査で認定の取り消しを行うべきだろう。
求められる改革
文科省は今年に入って全国の教育委員会に対し、小学校高学年における教科担任制を22年度から導入するよう指示した。以前から音楽など一部の授業は教科担任制が採用されることが多かったが、これからは英語や理科、算数、体育などの科目を教科担任制とすることが標準となる。メリットは多い。「中一ギャップ」という現象がある。学級担任制の小学校から教科担任制の中学校に移った子どもたちが、新しい環境で躓くことをいう。小学校高学年から科目担任制に慣れることによって、中学の生活への移行がスムースになる。その他に、教員側にも授業準備などに余裕ができるなど、負担軽減につながることが期待される。
この動きに応じて、小中の免許保有者と幼小の免許保有者との間で担当学年が振り分けられていく傾向が強まるだろう。今後は幼小の免許取得者は1~4年生、小中の免許取得者は4~6年生の指導を担当するようにしてもいいのではないか。
さらに、少子化が全国的に進行するなか、学校では使用しない教室が増え続けている。これらの教室を利用して幼稚園課程を公立学校制度のなかに吸収していけばいい。多くの先進国で幼稚教育は公立学校教育の一環として扱われている。日本が特殊なのである。幼稚園は教育基本法の特例として、戦後長らく個人や教会による経営が認められ、零細なものが多く、一般に教職員の身分も不安定である。これらの教員に一定の選考を課し、一定以上の能力と経験をもつものを公立学校教員として採用する。小学校免許を保有しない教員には採用後に研修機会を与えて小学校免許を取得させればいい。
かつて大学教員をしていた間、地元の小中学校の教育活動に関わることがあったが、違和感をもつ場面も多かった。その一つは、やたらと「研究指定」が多いことだった。文科省や県教委からテーマを受けて一年間、実践研究に取り組むのである。テーマの意義に疑念を抱いてはいけない。「研究成果」の発表会には教育委員会や地元国立大の教員などの来賓が呼ばれ、その前で成果を発表する。発表直前には学校全体が極度の緊張に包まれるという。かつての共産主義国家の政治集会並みの権威主義的雰囲気であった。文科省以下各教育委員会および地元国立大の教員たちの小中教員に対する姿勢は、教育者としての独立心を育てるという姿勢に欠ける印象を受けた。
ある時、勤務先の大学にフィンランドの小学校教員が来た。彼女はフィンランドと並んで国際学力調査で成績上位にある日本の学校教育の実情を知るため、研究休暇で都内の小学校に滞在中だった。日本の教員は、雑務が多く、官製研修に縛られ、教員としての人格を尊重される環境から程遠い。まずは、これらの環境を整理し、教員の仕事を魅力あるものにすることが、良質な教員を集める道であろう。
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