乙未(いつび)事変に関する考察
- 2011年 7月 6日
- スタディルーム
- 李 恩元
目 次
Ⅰ.はじめに
Ⅱ.歴史的背景
1. 閔妃と大院君の対立
2. 山県有朋の「主権線」「利益線」論と日清戦争
3. 「朝鮮内政改革案」
Ⅲ.乙未事変
1. 閔妃暗殺計画と実行
1-1.概要
1-2.大院君の関与について
1-3.「狐狩り」
1-4.石塚英蔵の書簡からみた遺体陵辱説
2. 日韓における乙未事変の事後処理
2-1.事件のでっち上げ
2-2.朝鮮人死刑と日本人無罪
2-3.日本政府の関与について
Ⅳ.おわりに
–「過去」を乗り越え、日韓友好の道へ-
Ⅴ.参考文献
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Ⅰ.はじめに
1895年10月8日、朝鮮駐在特命全権公使であった三浦梧楼の指揮の下、日本官憲、大陸浪人らが景福宮に乱入し、高宗(コジョン)の王妃であった閔妃(ミンビ)を殺害した事件が起きた。日本では、閔妃暗殺事件、閔妃殺害事件として知られ、韓国では、事件が乙未年に起こったため、乙未事変(ウルミサビョン)と呼ぶ。
朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と略す)の歴史学学会では、乙未事変を「朝鮮の自主権と民族の尊厳を侵害した日本の国家テロ犯罪(1)」であると非難した。このように乙未事変は、一国の公使が在住する国の王妃を殺害した前代未聞の事件であり、韓国における反日感情の根源とも言える歴史的事件であるにもかかわらず、それに関する真相は未だに明らかになっていない。その理由としては、韓国側の閔妃に対する評価が否定的であり歪曲されていた(2)こと、日本側の事件に対する消極的態度及び捏造、証拠隠匿によって真相究明が難しくなったことなどをあげられる。
しかし、事件直後、現場を目撃したアメリカ人ダイ(Dye)とロシア人サバチン(Sabatin)などの証言により、「この事件は大院君と訓練隊(3)がしでかしたことで、日本人とはまったく無関係だ(4)」と主張していた三浦も最終的には日本人の殺害加担事実まで是認するようになる(5)。また、彼らの証言は日本政府への国際的非難と圧力及び、朝鮮における反日運動を誘発し、日清戦争以降有利な条件にあった朝鮮支配策も水の泡にしてしまった。このような外国からの抗議により、日本政府は乙未事変と無関係であることを固執しながらも、事実がさらに暴露されないよう、事件関連者を広島地方裁判所に拘禁し、すでに暴かれた三浦にすべての責任を負わせ、裁判にかけた。しかし、首謀者とされた三浦と実行者たちは、広島地方裁判所の予審で証拠不十分で全員釈放された(1896年1月20日)。
では、誰が閔妃を殺したのか。
その真相に関しては、山梨保二郎の「大院君主謀説」、あるいは小早川秀雄の「浪人たちによる偶発的な殺人事件」であるという主張、在日史学者である朴宗根の「三浦独断による殺人説」、日本政府の黙認下及び日本政府の侵略政策の一環としての「計画的殺人説(6)」などがある。乙未事変が韓国人にとって反日感情の元凶と言えるほどの事件であるため、韓国では日本政府による「計画的殺人説」が一般的な見解である一方、日本では「大院君主謀説」あるいは「三浦独断による殺人説」が支配的である。
つまり、日韓関係において、乙未事変に関する認識と見解の差は、乗り越えなければならない過去という名のトラウマであり、その解決のためには事件の真相を明らかにする必要がある。本稿では、日韓両国の資料と文献を比較しながら、閔妃の政治的性向と国際的動向、朝鮮と日本との関係及び日本政府における対朝鮮政策などを踏まえ、今まで日韓の間、食い違いのあった乙未事変の真相をより正確で客観的に立証していきたいと思う。
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(1) 朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会、http://www.uriminzokkiri.com/Newspaper/rodong/2010/2010-10-07-B51.htm、労働新聞(2010年10月7日)
(2) 朝鮮の儒教的思想によって女性の政治関与が否定的に評価されていたこと、親日政府の事件隠蔽及び反日主義者であった閔妃に対する反感などの傾向によると思われる。
(3) 1894年7月に王宮を占領した日本は朝鮮の軍隊を武装解除させ朝鮮政府の内閣と「韓日(日韓)暫定合同條款」を締結した。訓練隊とは、これにより日本軍指揮下に再編された軍隊である。また、訓練隊とは別にアメリカの将軍によって編成され王宮の護衛を担っていた侍衛隊も存在していたため、朝鮮政府の親露派及び閔氏派(閔妃を中心とした勢力)は訓練隊解散を狙っていた。
(4) 外務省編纂(1953) 『日本外交文書』 第28巻 日本国際連合協会 p.498
(5) 崔文衡(2004) 『閔妃は誰に殺されたのか』 彩流社 p.173
(6) 盧啓鉉(1984) 「閔妃被殺の真相と韓日政府の偽装処理」 『韓国外交史論』 大旺社、申国柱(1982) 「閔妃弑害事件に関する研究」 『東国史学』第17輯 東国史学会、崔文衡等(1992) 『明成皇后弑害事件』 民音社
Ⅱ.歴史的背景
1.閔妃と大院君の対立
「王が若年だから(7)」という理由で執政するようになった高宗の父親である大院君は、当時欧米列強からの通商要求に対し、「衛正斥邪論」を基にし、鎖国政策を行っていた。内政問題においては、今まで行われてきた「勢道政治」から脱却するため、王権強化を中心にした政策を実施した。党派や門閥を飛び越える人才を登用し、ヤンバン(8)が税金を出さなかった土地に対する徹底的な調査と徴税、不要な税金の廃止など経済改革を断行した。しかし、王権の威厳を見せるための景福宮の無謀な再建で、民衆の間では不満の声もあった。また、カトリックに対する迫害(1866~1872)を敢行して約8000人のカトリック教徒を虐殺した(9)。
一方、1866年3月20日(陰暦)、昌徳宮の仁政殿で王妃冊封が挙行された。この時、高宗が15歳、 閔妃が16歳だった。王室の外戚による政治を防ぐため、幼い時、親を亡くした閔妃を高宗の妃として迎え入れた大院君の希望に反して、聡明ですぐれた手腕の閔妃は入宮してから何年か経つと王室の政治に関与し始めた。大院君と閔妃の対立は、宮女と高宗の間で生まれた完和君に対する大院君の偏愛と王子の擁立問題、閔妃の第一子の死(10)などがきっかけで激しくなった。大院君との政治的対立が始まると、近い親戚のいない閔妃は、遠い親戚まで呼び集め、高宗の心を捉えたうえ、大院君の10年間の政治に不満を抱いていた儒林(儒学者)やヤンバンたち(11)を利用し、大院君の退陣を要求した。
閔妃の言いなりになっていた高宗は、1873年11月5日、新政を布告する。この際、高宗の親政体制の構築が可能だったのは、閔妃の政治的役割がかなり大きかったからであった。これによって、事実上朝鮮の政権は閔妃のものになり、売官売職、掠奪、国庫の無駄遣いなど閔氏派の不正、腐敗がエスカレートしはじめた。また、大院君の鎖国政策を破棄し、日本と「江華島条約(12)」を結ぶなどの開化政策を実施した閔妃は、開化に反対する勢力の激しい反対に遭う。
遂に壬午軍乱(1882年7月)により、閔氏政権が倒され、大院君の再執政が行われるようになった。この時から、本格的な反政府及び反日の闘争が起きはじめ、内政においては、清国の干渉が強まった。
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(7) 角田房子(1988) 『閔妃暗殺』 新潮社 p.89
(8) 朝鮮王朝時代の貴族階級
(9) 東亜日報 1976年11月25日 歷史의(の) 古战場 <27> 丙寅洋擾치른(のあった) 江華鼎足山城
(10) 閔妃の生んだ第一子は、排泄不能という生まれつき肛門がうまく作られなかった病気であったが、手術で治せるにもかかわらず、手術に反対していた閔妃は大院君の贈った朝鮮人参を食べて死んだと断じていた。
(11) 大院君が実施してきた経済政策の失敗やヤンバン階級の特権制限など、王権強化のために行っていた大院君の革新政治はヤンバンの間で不満が大きかった。
(12) 「大日本国大朝鮮国修好条規」、「日朝修好条規」ともいう。1876年2月27日調印された不平等条約で、イギリスの報告書によると、「江華条約と1858年の日英条約とは非常によく似ている」と指摘している。このようにこの条約の内容や交渉過程における日本の態度は、日本がアメリカやイギリスにされたことを朝鮮に適用していると言えるのであろう。また、『公爵山県有朋伝』にも記されているとおり、この条約の発端となった雲揚号事件が日本の計画であったことは否定できない。
2.山県有朋の「主権線」「利益線」論と日清戦争
日本史上最初の議会である1890年の第1回帝国会議の演説で、当時首相であった山県有朋は「富国強兵」政策と共に「主権線」「利益線」論(13) を主張した。しかし、当時日本は、欧米との不平等条約体制下にあり、欧米の帝国主義国との全面的対抗は考えられない状況であった。そこで持ち出されたのが「朝鮮永世中立化(14)」であり、中立国としての朝鮮を実現するためには、清国からの自立は避けられなかった。
朝鮮支配をめぐって日本と清国の衝突が顕著化していく中で、甲午農民戦争(15)が起きる。当時の朝鮮の民衆は、江華島条約以降の日本との貿易によって高騰した物価に苦しんでおり、一般民衆への特権層の横暴や朝鮮政府の権力争いに対する不満も高まっていた。彼らにとって、下からの解決以外に悪政改革の方法は全くなかったのである(16) 。これは、全羅道の古阜郡の郡守であった趙秉甲(ゾビョンカプ)の虐政に対する民乱として始まった。当時農民の間に広まっていた「東学」という宗教を中心に、この民乱が全国的に広がることになり、朝鮮政府は東学乱の鎮圧のため清国に軍の出兵を要請する。しかし、これを予想していた日本(17)は天津条約第3条(18)に基づき軍を派遣することを決定する。朝鮮政府は事態を収拾するため、急いで農民の提案をもとにした「全州和約」を結び、日清両国の撤兵を要求した。しかし、日本は応じず、清国に日清共同で朝鮮の内政を改革しようという内容の「朝鮮内政改革案(19)」をつたえる。清国側がこのような日本の提案を拒否したため、日本は単独で朝鮮の内政改革を断行することを決める。これが、日清戦争勃発の直接的きっかけであり、日清戦争は結果的に経済・軍事発展の土台とも言える富の獲得と、日本産業資本の朝鮮及び中国への進出、朝鮮への軍事的・政治的介入を促すことになった。
このような結果は、山県有朋の「主権線」「利益線」論の長期的目標が日本勢力の朝鮮半島への膨張であったことで、それを達成するためには、日清戦争、日露戦争朝鮮の植民地化が不可避であったことを証明している。
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(13) 「主権線」とは日本領土であり、「利益線」とは「主権線」の安全確保に密接な関係のある近接地域とを日本の安全保障領域である。つまり、山県の主張した「利益線」「主権線」論は、日本を守るためには欧米などの帝国主義国が日本の「利益線」である朝鮮への膨張を防止することが不可欠であるという論理であった。
(14) 朝鮮の中立化によってロシアなどの帝国主義国の朝鮮半島への膨張をも防ぎ、清国との対立も解決できるという明治政府の安全保障秩序構想。
(15) 1894年に朝鮮で起きた内乱で、東学党の乱とも呼ばれる。
(16) 山辺健太郎(1982) 『日韓併合小史』岩波新書(青版) p.85
(17) 「1894年5月22日にソウルの杉村代理公使から陸奥外務大臣あてに、東学乱の鎮圧のため清国軍が出兵するおそれがあるので、日本も出兵準備をする必要があろうという情報も来た」 山辺健太郎『日韓併合小史』岩波新書(青版)1982年 p.88
(18) 「将来朝鮮国ニ若シ変乱重大ノ事件アリ、日中両国或ハ一國派兵ヲ要スルトキ、先ニ互二行文知照ヲ行ヒ、其事定マレハ仍即ニ撤回シ再ヒ留防セス」
(19) その内容は、中央と地方制度の改正及び登用、財政整理と財源開発、法律の整頓及び裁判法の改正、安寧秩序の保護及び兵備施設の拡充、教育制度の確立であった。
3.「朝鮮内政改革案」
日清戦争勃発直後、伊藤博文は当時の大鳥圭介公使を召還し、日本で内務大臣をはじめ、多くの高位職を歴任してきた井上馨を特命全権公使に任命した(1894年10月)。朝鮮と清国の従属関係の解除及び、大院君と閔妃の政治介入を断ち切り、日本の朝鮮支配を確立させ、1894年6月日本閣議で決められた「朝鮮内政改革案」を推進するために対韓強硬論者である井上が適格であると伊藤は判断したのである。井上は「…略…老後之一腕も試度既に陸奥子出立之際も一言述置後次第に御座候。御執考之上御同意に候は何時も御受仕候而不苦候(20)」という内容の手紙を伊藤に送り、内務大臣を辞退し、内務大臣より低い職責である公使職を受け入れた。
井上は、朝鮮公使赴任1カ月の間、大院君を追放し、高宗に「朝鮮内政改革案」を推進することを勧告、強要した。また、「朝鮮内政改革案」の実行を拒否した高宗と閔妃勢力を中心にした朝鮮政府の転覆を図って、朝鮮の王宮である景福宮を占領し、既存の朝鮮政府を崩壊させ、清との戦争に協調できる親日性向の朴泳孝を中心とした政権内閣を樹立させ(21)、各部署に日本人顧問官を配属した(22)(甲午改革)。日本の「内政改革」の核心は、いわゆる「宮中の非政治化」の下に国王の専制権制限を制度化して国王と王妃を政治に関与させないことであった。高宗と閔妃は権力から離れてしまう恐れがあったため、王室における反日感情は高まる一方であった(23)。閔妃は朝鮮における清国と日本の干渉が深刻化する状況の中、「対外均勢政策」を通じて外国の勢力を牽制した。甲申政変 (第二次京城事変とも言う)以降の清国の干渉はロシアを引き入れることで回避しようとし、甲午改革後の日本の内政干渉も親露政策の下、危機を免れようとした。この時期、日本の「朝鮮内政改革案」は失敗に直面していたのである。
一方、日清両国は1895年3月下旬から講和交渉をし始め、4月17日には講和条約を調印(下関条約)する。その結果、清国は朝鮮の独立を認めるようになり、朝鮮半島における日本と清国間の対立は基本的に解消されたが、日清戦争は日本が朝鮮の独立及び改革を口実にした戦争であったため、4月23日のロシア、フランス、ドイツは、「日本の遼東半島所有は朝鮮の独立を有名無実化することだ」と非難し(三国干渉)、遼東半島の返還を要求した(24)。三国干渉により、遼東半島を清国に返還した日本を閔妃は非常に軽視し、ウェバー(Weber)公使と結託して(25)、朴泳孝等の親日勢力を排斥しようとする。この時期、朝鮮政府において閔妃勢力と手を組んだロシア勢力の台頭は、当時の外相である陸奥にも非常な圧力であった。1895年5月18日伊藤が陸奥宛に送った電報によれば、陸奥は井上を中心に展開されて来た「朝鮮内政改革案」をあきらめて朝鮮の独立を列強が共同保障する方式で政策を転換する必要があると伝えたが、伊藤は「朝鮮内政改革案」の放棄に反対した。このように、日本にとって閔妃は、対朝鮮支配権はもちろんすでに築いた基盤さえも崩し、もはや挽回できない最悪の状態に至りかねない状況(26)にした張本人であった。つまり、この時期、朝鮮内政における日本政府の影響力の低下が乙未事変のきっかけになったことは否定できないのであろう。
一方、親日派政権内閣の首長であった朴泳孝は朝鮮政府のロシアへの接近を防止するため、王室を護衛していた従来の侍衛隊の仕事を訓練隊に委任し、親露性向の閔妃を暗殺する計画をたてるが発覚され、日本に亡命する事件が発生した。井上はこの王妃暗殺未遂事件によって急激に高まった王室の反日感情を抑えるために、懐柔策を講ずる。それが井上の「宮中政略」と呼ばれる王室懐柔策であった。井上は妻と共に高宗と閔妃を訪ね、巨額の「贈り物」をして、朝鮮政府に300万円の借款を新たに提供するということを知らせ、それを餌にして買収しようとした。
しかし、閔妃勢力はロシア公使ウェバーと協力し、朝鮮政府における親日政権内閣を解散し、親日派を政権から追放した。その代わり、親露派を中心とした政権運営を始める(27) 。このような動きが日本側に探知されたのが1985年7月のことで(28)、日本の対朝政策は事実上完全に失敗したとされ、それは「王妃排除(29)」へとつながり、日本政府の誰もが、王妃の殺害を暗黙のうちに考え、その時機をねらっていたのである。
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(20) 『伊藤博文関係文書』一巻 塙書房 p.268
(21) 日清戦争への朝鮮政府の協助は、日本の強制によって推進されたことではあるが、結果的に甲午改革後の親日政権内閣が日本に協調的な態度であったことを表している。
(22) 宮内府顧問-岡本柳之助、内閣顧問-石塚英蔵、内務顧問-斎藤修一郎、法務顧問-星亨、度支(財政)顧問-仁尾惟茂、軍務顧問-楠瀬幸彦、警察顧問-武久克造
(23) 朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会、http://www.uriminzokkiri.com/Newspaper/rodong/2010/2010-10-07-B51.htm、労働新聞(2010年10月7日)
(24) ロシアなどの列強諸国は、朝鮮における利権問題をめぐって対立しつつ、朝鮮の鉄道、通信、鉱山などの重要権益を独占する日本に対し各国共同の抗議文を提出した。
(25) 岡本柳之介 ・平井晩村編(1912)『風雲回顧録』武侠世界社 p.273
(26) 朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会、http://www.uriminzokkiri.com/Newspaper/rodong/2010/2010-10-07-B51.htm、労働新聞(2010年10月7日)
(27) 日本に対してひじょうな反感を持っていた朝鮮の民衆は反日的な性向を持つ閔妃勢力のクーデターが支持されていた。
(28) 岡本柳之介 ・平井晩村編(1912)『風雲回顧録』武侠世界社 p.273
(29)伊東伯爵家文書「朝鮮王妃事件関係資料」(国会図書館憲政資料室所蔵)
Ⅲ.乙未事変
1.閔妃暗殺計画と実行
1-1.概要
後任公使三浦梧楼がソウルに着いたのは、1895年9月1日のことである。日本の公使交替は対朝鮮政策の転換を意味していた。三浦を公使に推薦したのは井上で、この人選を決定したのは、伊藤博文、井上馨、山県有朋の長州三巨頭であった(30)。最初任命された際、三浦は「自分は軍人であり外交や政治は素人である」と辞退する。その後、公使就任の交渉により公使職を受け入れ、政府に朝鮮政策についての意見書(31)を提出し、政府の方針を決定することを要請するが、政府からは何の回答もなかったため、再び公使就任を辞退するが、井上と山県の勧誘(32)で公使職を再受諾する。政府無方針のまま、朝鮮に渡った三浦には、ある程度の自由裁量権が認められていたかもしれない。そして、井上の叱責にちかい忠告と山県の「いずれ何らかの決定」、日本が朝鮮にかける期待は三浦にとって閔妃殺害の十分な動機を与えていたと思われる。『閔妃暗殺』の著者角田房子は、「当時、日本政府が三浦に与えた権限は第1に、朝鮮駐屯の日本軍守備隊と領事警察、および訓練隊を含む総武力約700人を王宮襲撃に動員できる事前承認とその利用権であり、第2に、日本政府が駐朝鮮日本人の民間暴徒に配る6千円の機密資金支出とその使用権であった」と指摘する。
つまり、三浦の赴任により、閔妃暗殺はある程度予告されていたのである。その根拠として挙げられることは、三浦赴任後の井上の動向である。9月1日、三浦がソウルに赴任したにもかかわらず、井上は9月17日までソウルに留まり、その後仁川で4日間も過ごした。乙未事変のわずか17日前に日本に渡ったのである。この際、三浦と井上の間で何らかの事前謀議があったのではないかと推測する歴史学者は少なくない。
そして10月3日、日本公使館の密室で三浦を中心に、杉村濬(公使館書記)、岡本柳之介、楠瀬幸彦、柴四郎、国友重章、安達謙蔵等が王妃殺害具体案を定めた。『朝鮮王妃秘話』の著者である村松梢風は閔妃殺害のための謀議過程を次のように記述している。
「…我国は支那と戦って勝利を得たといふが、台湾だけは貰っても、遼東を還附した上朝鮮が此の状態になっては何の為に戦をしたのか分らない。大連と旅順をロシアに取られ、おまけに朝鮮まで進上してしまっては、やがて日本が朝鮮になりますよ」
「…荒治療するより他手はありませんよ」
「荒治療といふと?」
「我々手で王宮を占領して了ふのですよ。そして何と言っても朝鮮の禍根はあの悍婦(閔妃)ですから彼女の息を止めてしまはなくては何事もできません。…」
また、乙未事変の実行犯小早川秀雄も自分の手記である「閔后殂落事件(33)(国立国会図書館憲政資料室所蔵)」の序言で、閔妃殺害の理由を「これからの日本のことを考え、当時朝鮮政治の大部分を左右していた閔妃を暗殺するという三浦公使の計画に同志と共に参加した」と記した。石塚英蔵も、閔妃殺害の必要は三浦も早くから感じていたと述べ、 閔妃殺害の直接的なきっかけは、「危急ノ場合、露ニ援兵ヲ請フノ約束」、「訓練隊解散ノ決定」であると報告している。このように、「王妃排除」をねらっていた日本側が実行に踏み切ったのは、閔妃が日本の執拗な干渉に強く抵抗し、緊急時にロシアの支援を受けるという日本を朝鮮から排除するための約定を締結したからであった。
1895年10月7日、朝鮮政府は三浦に、訓練隊の解散命令と8日から武装解除に入るという通告をしてきた。三浦はそれに合わせて王妃殺害日を10月8日に定めた。それは、訓練隊が解散され、武器を取り上げられれば、「訓練隊と大院君によるクーデターの過程において閔妃が殺された」という計画に支障が生じるためであった。
王妃殺害の総指揮は公使の三浦が担当し、軍隊指揮は武官の楠瀬幸彦が、大院君を宮中に参内させるのは宮内部顧問の岡本柳之助が責任を持ち、日本の民間人暴徒に対する指揮は漢城新報社長の安達謙蔵が受け持つことにした。
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(30) 角田房子(1988) 『閔妃暗殺』 新潮社 p.281
(31) 三浦の意見書は三カ条から成る。第一は、「朝鮮を同盟の独立国として、将来日本一国だけで朝鮮全土の防衛及び改革を担当する」第二は、「列強と共同保護の独立国とする」第三は、いずれ一、二の強大国との紛擾をまぬがれないと予測されるなら、むしろ一つの強大国と朝鮮を分割占領する」というものであった。(角田房子(1988) 『閔妃暗殺』 新潮社 p.282)
(32) 山県は公使職を辞退した三浦に「三大政策、事重大でなお熟慮を要する。いずれ何らかの決定を示すから、とにかく今は一日も早く渡韓してもらいたい」と告げる。一方、井上は「いま困難だとすれば何も処理できない。人の言葉を聞いて自己の決心を変えるのは正しいといえない。国家のために貢献する時だ。是非とも約束通り決行するようあえて忠告する」という内容の電報を送った。
(33) 小早川秀雄著 広瀬順晧監修・編(2000) 「閔妃殂落事件」 『近代外交回顧録』第5巻 ゆまに書房
『近代外交回顧録』は、1938-39年にかけて外務省調査部により編集された外交関係者の談話筆記・手記とその関連史料である。
1-2.大院君の関与について
では、大院君は乙未事変にどの程度関与していたか。
三浦は、ソウルの日本守備隊長の楠瀬幸彦と杉村事務官らとの共謀のうえ、かねて閔妃と敵対していた大院君をかつぎだし、そのころソウルにいた日本人の大陸浪人たちを手先にして閔妃の暗殺をはかったというのが一般的である。そうすることによって、閔妃殺害を内紛に見せかけることができるからである。
大院君の関与について、岡本柳之介は『風雲回顧録』で「遂に日本志士の一党は、三浦公使を誘い、大院君と気脈を通じて一挙親露派を粉砕すべく密議を凝らした末、8日決行と手筈を定めた」と書いている。『日本と韓国』の著者であり、朝鮮総督府の官吏で終戦時には全羅南道の知事であった八木信雄は、訓練隊の解散の情報を入手した訓練隊の幹部が閔妃勢力との決闘を決意し、閔妃の政敵である大院君の力を借りて事を進めようとしたが、これを探知していた三浦が岡本を大院君のところに送り、共にクーデターを決行するという密約を結んだと述べている。
しかし、韓国の歴史学者申国柱(シンクッジュ)は、乙未事変直前、岡本が大院君を入宮させるため、「大院君を警護する十名余を銃刀で脅威して倉庫に監禁した後、大院君の別荘に侵入し、就寝中の大院君を起こして入宮を強要した。しかし大院君の入宮拒否により、相当な時間を費やした」と事件への関与を否定している。また、ロシア公使ウェバーの報告書にも大院君は日本の軍人たちによって連行され、閔妃の除去作業が終わるまで監禁されていた(34)と記録されている。『朝鮮を殺す-明成皇后殺害記録と歴史の真実』の著者ヘムンは、「事実大院君は日本により強制的に景福宮に引っ張られ、後にはこの事件の主犯とされたことが定説である」と結論付けている。
しかし、私は大院君が完全なる犠牲者であるとは思えない。だからといって井上によって追放された前歴のある大院君が日本の計画に積極的に加担したとは言い難い。武力を使って強制的に連行したのであれば、大院君を殺さない限りすべての計画が暴露されてしまうのは当然のことである。つまり、大院君は三浦の計画を部分的に知っていて、条件付きで岡本らと同行していたが、結果的には三浦等に利用された道具に過ぎなかったと言えよう。
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(34) 이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』 서림재(ソリンゼ) p.32
1-3.「狐狩り」
1994年の夏、閔妃殺害に使われていた日本刀が福岡の櫛田神社で発見された。この刀は乙未事変当時、景福宮の寝殿に乱入した藤勝顕が使った後、1908年に神社に寄贈されたという。この刀の鞘には閔妃暗殺計画の作戦名であった「狐狩り(35) 」の成功を記念して狐を一刀のもとに刺したという意味の「一瞬電光刺老狐」が書かれてある。またこの神社には「皇后をこの刀で斬った」と書かれた文書も保管中である。
1895年10月8日午前3時頃、閔妃殺害計画「狐狩り」が実行される。岡本の率いる三十名以上の浪人ら(36)は大院君とともに孔徳里にある大院君の別荘を出発し、王宮に向かう。その際、岡本は「狐は臨機処分すべし」と叫んだという(「在韓苦心録」二〇四頁)(37)。四時三十分頃、岡本らは禹範善(ウボンソン)、李斗璜(イドゥファン)の指揮する訓練隊と合流し、西大門に集結した。その後、日本軍守備隊と合流し、光化門に着き、多くの方向から同時に、梯子に乗って王宮の中に入った。何回の間欠的な射撃と一斉射撃の音に朝鮮の兵士たちは逃げ、浪人らは二組で分けて活動を開始した。一方、訓練隊連隊長洪啓薫(ホンゲフン)と軍部大臣安絅壽(アンギョンス)が浪人らの侵入を制止するため衝突したが、いつの間に安絅壽は逃げ、洪啓薫は戦死する。
殺害現場にいた女官から伝えられた王子の言葉とウェバーは報告書、アメリカ公使館書記アレン(Allen)の報告、駐韓英領事ヒリアー(Hillier)が現場を目撃した女官など4人の証言による報告、内田定槌一等領事によるこの報告書などを総合してみると、閔妃の最後は残酷極まりない。
無防備状態の乾清宮の前と後ろ側の門を通じて日本軍守備隊の護衛の下、侵入した「民間服装の日本人たち(安達と岡本の率いた浪人ら)」を朝鮮軍服装の軍人たちと日本人将校、兵たちが警備していた。彼らは直ちに王と王妃の寝室に向け、王妃の寝殿である玉壺樓に侵入して、王妃のような服装をしている三名を刀で殺した。彼らは閔妃の顔を識別できる者が一人もいなかったため、殺された人たちの死体を「点検」したが、王妃であることが確認できず(38)、再び王妃を捜しに国王の居間である坤寧殿まで侵入した。ここでは高宗と王子が恐怖に震えていた。岡本は高宗にあらかじめ作成しておいた王妃廃詔書案を提示して同意するよう強要した。しかし、農商工部大臣李範晋(イボンジン)の証言によれば、この時、高宗は「貴方達が私の指を斬っても絶対に署名しない」と拒否していたことを内侍が聞いていたそうである。
その後、「民間服装の日本人たち」は閔妃と女官たちの部屋に襲撃した。閔妃捜しに血眼になっていた國友などは女官一人を内室から床まで連れ出して、左手でお下げを掴んで引きずり、右手で刀を振り回して胸倉に当てて閔妃がいる所を強要したが相互言語不通だった(39)。この時、宮内にいた宮内部大臣李耕植(イギョンシク)が急いで王妃に急報を知らせ、王妃と女官たちは寝床から走って出て逃げようとした瞬間、「民間服装の日本人たち」が追いかけてきた。李耕植は王妃を保護するために両腕を広げ、王妃の前に立ちふさがった。しかし、この保護行為は王妃であることを彼らに知らせる手がかりになってしまった。李耕植は彼らの刃に両腕を切断され、血を流しながら倒れた(40) 。
ロシア公使ウェバーは報告書に、この時のことを目撃していた高宗と王子の証言を通訳官レゼンドロ(Legendre)将軍の言葉で載せている。「高宗は自分の前で日本人岡本、鈴木、渡辺が軍刀を持って王宮の内室に侵入し、岡本と鈴木が閔妃を逮捕したそうです。自分はここで意識を失くし、それ以上のことは覚えていないとのことでした。王子は、閔妃が逃げ出し、二人の日本人(岡本と鈴木)が追っていくのを見ていたので、彼は閔妃が捕まらず生きていると思っています。高宗は日本人渡辺が軍刀を持って走っていくのを見ました(41)」
しかし、王妃は長安堂の裏庭の方に逃げる途中つかまり、倒された。「民間服装の日本人たち」は王妃の胸を踏みつけながら繰り返し何回も刀で刺した。前述のとおり閔妃の顔を識別できる者が一人もいなかったため、ある女官から閔妃の頬に一点の傷あとがあることを聞き、王妃であることを確認し、多くの女官に確認させた(42)。そのあと、しばらく玉壺樓に安置され、遺骸を「陵辱」した後、薪を積み、その上に載せ、石油をかけ、裏山の鹿山で焼き捨てた(43) 。三浦は「是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナッタ、モウ安心ダ(44)」ともらしたそうである。
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(35) 三浦梧桜を含む日本側では閔妃のことを「女狐」、「老狐」と呼んでいたため、乙未事変の作戦名を「狐狩り」と暗号付けていた。
(36) その中で大多数(広島地裁で起訴された48人のうち21人)は、朝鮮で日清戦争の最中に外務省機密費で作った新聞社で、当時漢成府における唯一の新聞を発行していた「漢成新報」の日本人社員であった。
(37) 木村幹(2007) 『高宗・閔妃-然らば致し方なし-』 ミネルヴァ書房 p.247
(38) 外務省編纂(1953) 『日本外交文書』 第28巻 日本国際連合協会 p.554
(39) 安珍熙(1996) 「明成皇后弑害事件에(に) 대한(対する) 一考察 : 日本의(の) 隱蔽•造作을(を) 中心으로(として)」 漢陽大 敎育大學院 修士学位論文 p.22
(40) 女官を通じてアメリカの代理公使に伝えた王世子の証言である。(이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』 서림재(ソリンゼ) p.36)
(41) 이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』 서림재(ソリンゼ) p.35
(42) 林在讚(1982) 「閔妃殺害의 眞相과 그 事後問題」『士論文集15(‘82.3)』육군제3사관학교 p.76
(43) 三浦は現場の証拠を無くすため、荻原に命じて死体を池に投げた。しかし、これがすぐ発見されることを恐れて、再び取り出して石油を注いで焼却した後、また池に投げたが、沈まず、その翌日の朝、池からまた引き上げ出して松林に埋葬した。閔妃の遺骸の焼却を指示したのは朝鮮人で訓練隊隊長であった禹範善であると知られている。
(44) 中塚明(1994)『近代日本と朝鮮 第三版』三省堂 p.73
1-4.石塚英蔵の書簡からみた遺体陵辱説
石塚英蔵の書簡とは、「当時朝鮮政府の内部顧問であった石塚英蔵が、乙未事変直後の10月9日に日本政府の法制局長末松謙澄宛に外交ラインを通じて書簡で報告した最初の公式文書(45)」である。
ここで問題になっている部分は、以下のとおりである。
「而して其方法は軽率千万、殆んど児戯に類するなきやと思わるゝも無之にあらず。幸に、其最も忌わしき事項は、外国人は勿論、朝鮮人にも不相知候様子に候(46)」
「殊に野次馬連は深く内部に入込み、王妃を引き出し、二三ヶ処刃傷に及び、且つ裸体とし、局部検査(可笑又可怒)を為し、最後に油を注ぎ焼失せる等、誠に之を筆にするに忍びざるなり。其他宮内大臣は頗る惨酷なる方法を以て殺害したりと云う。右は士官も手伝えたれ共、主として兵士外日本人の所為に係るものゝ如し(47)」
既に「局部検査」を言及していた石塚の云う「其最も忌わしき事項」と「誠に之を筆にするに忍びざるなり」内容は何であったのであろう。また、不思議なところは「局部検査」がいつ行われていたかである。石塚の文書には、閔妃を殺害した後という記述がない。ただ、「傷を負わせた後」という表現で、閔妃が生きている間にこのようなことが行われた可能性を残している。
また、閔妃の最後を目撃した小早川が「閔后殂落事件」で、「よく見ると小柄な、やさがたな、色の白い、どう見ても二十五、六歳としか見えない女の、死んだというよりは、人形を倒したというかっこうで、美しく永久の眠りにはいっている」と表現している通り、二十代後半くらいにしか見えない閔妃の若々しさは、遺骸確認で非常に問題になったそうである。この事件の審理に当った広島地方裁判所の草野検事長が司法大臣芳川顕正あてに送った電報(1895年11月9日付)の一部には次のように叙述している。
「・・・・・・宮女等が口を揃えて、自分が王妃と言い張るため、彼女等の服を脱がして乳房を探り、当時四十四歳の閔妃と覚しき女を刀で殺害した(48)」
『閔妃暗殺』の著者角田房子は、「この国の習慣で外国使臣に顔を見せることさえなかった閔妃が、死後は異国の男たちにこのような扱いを受けていた」と記述している。
一方、『外交文書で語る日韓併合』の著者金膺龍は、このような遺体陵辱説を言及するに当たって「人間の常識では考えられない極悪非道の暴虐を是認した、日本の国家体質にたいする憤りを抑制できず、また歴史の真実を知らせることに重きを置き、王妃を憐れみ、悔しさに涙しながら…」と憤慨している。
しかし、死体陵辱説そのものを否定する声も少なくはない。韓国の一部の歴史学者も「そのようなことを犯すほどの時間的余裕のない緊迫した状況であった」と主張する(49) 。
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(45) 혜문(ヘムン) 『조선을(朝鮮を) 죽이다(殺す) – 명성황후(明成皇后) 살해(殺害) 기록과(記録と) 역사의(歴史の) 진실(真実)』 2009年 동국대학교출판부(東国大学校出版部) p.214
(46) その方法は軽率極まりないことで子供のいたずら(児戯)だと思われるくらいです。幸いにその最も忌まわしい事項は、外国人はもちろん朝鮮人にも知られてない模様です。
(47) 特に浪人たち(野次馬逹)は中に深く入り込み、王妃を引っ張り出して二三箇所刀で傷を負わせ、裸にし、局部の検査をし(可笑又可怒)最後には油をかけて焼き殺したなど、まことにこの事件について書くに忍びないのです。その他宮内大臣たちは非常に残酷な方法で殺害したそうです。以上は士官(朝鮮人)も手伝っていたそうですが、主に日本人がやらかしたと思われます。
(48) 송영걸(ソンヨンゴル)(2005) 「伊藤博文 研究 : 明治政府内와(と) 朝鮮 侵略過程에(に) 있어서의(おける) 役割에(に) 관하여(関して)(A Study on Ito Hirobumi : His role in Meiji Government and the process of the Invasion of Korea)」 漢陽大学校大学院 博士学位論文 p.249
(49) 장병욱(ザンビョンウック)(2002) 「국모는(国母は) 시해(殺害) 뒤(後) 능욕당했다(陵辱された)」『주간한국(週刊韓国)』7월호(7月号) p.56-57
2.日韓における乙未事変の事後処理
2-1.事件のでっち上げ
ロシア公使ウェバーは、10月8日の朝、王宮に着いた外国の代表たちが王の部屋に入った時、大きな衝撃を受けていた高宗は話す気力もなくし、涙だけを流しながら、王としての面子も捨てたまま一人一人に近づき手を握り、自分を見捨てないでほしいと話していた(50)と記録している。
事件があった朝6時、入宮した三浦は直ちに事態を隠蔽し、高宗を脅かして、大院君の執政下に金宏集を総理大臣として、内部大臣兪吉濬、度支部大臣魚允中、法部大臣張博、学部大臣徐光範、外部大臣金允植など親日派による内閣を再建した。また、閔妃が王宮を脱出したとして、閔妃を廃位し、庶人にするという国王の「廃后詔勅」を発表させた(51)が、これは全ての大臣の署名だけがあっただけで、高宗の署名も印章もない捏造されたものであった。ウェバーの報告書によると、署名した大臣の一部は日本の圧力によるもので、署名した後辞職したという。
王妃殺害の先頭に立った三浦は、その計画通り、事件直後の10月10日、高宗を脅迫して「王宮の乱動は、訓練隊解散に不満を抱いた兵士らが起こした」という内部告示を出させ、王妃の行方不明を宣布させた。1895年10月30日の日本側の通信文(Communication japonaise)には「朝鮮訓練隊が自分たちの処罰と解散に対する噂などに危機感を感じ、10月8日の朝、王宮に侵入した。我々日本軍が秩序維持のため投入されたので深刻な衝突は避けられた。王と王子は無事だが、王妃の所在が分からない(52)」と日本人の関与を否定している。東京日日新聞もこの事件を京城変乱と記事化し、「王后は行衛知れさせられず(1985年10月9日付)」「閔后の行衛不明(1895年10月16日付)」を報じた。
しかし、現場を目撃していた侍衛隊教官であるアメリカ人ダイ将軍と王室内で宿直していたロシア人サバチン、侍衛隊連隊長玄興澤(ヒョンフンテク)は、乙未事変が日本人によって行われていたことを明らかにした。建築家サバチンは手記で「私は皇后寝殿の前庭に立っていた。そこにも日本人衛兵五人と将校一人がいた。…日本人五人が皇后の寝殿に侵入した。彼らは大声を出し、一人の女官の髪をつかみ、引きずり出した」と述べている。ロシア公使ウェバーも10月9日付の自分の報告書に、「一つ確信できることは人々を殺害したことは日本人たちであり、彼らは自分たちの閔妃弑害計画を公開的に話していた(53)」と述べている。それに、夜が明けてから多数の日本人が王宮から引き揚げて来るのを一般の朝鮮人も見ていた。このように1985年10月8日の「乙未事変」に対する多くの目撃証言は、列国の強い反発を呼び起こし、国際問題となる。
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(50) 이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』서림재(ソリンゼ) p.65
(51) その後すぐ王后に復位させる詔書が下され、1897年には明成王后に追封された。
(52) 이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』서림재(ソリンゼ) p.77
(53) 이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』 서림재(ソリンゼ) p.31
2-2.朝鮮人死刑と日本人無罪
1895年10月8日午後3時過ぎに開かれた会議でロシア、イギリス、アメリカ、ドイツの公使は「事件は訓練隊と警察の衝突であり、日本人は関係ない(54)」と話す三浦に抗議した。ロシア公使ウェバーは、「第一、王宮で殺人をした日本人は誰で、第二、日本の軍隊が王宮内の事件及び大院君の連行にも加担していたことについて」の説明を要求した。これに対し、三浦は一言も言えず、事件を徹底的に調べて王宮の安定のために最善を尽くすと諸国の公使を安心させようとした。
一方、朝鮮は不平等条約である日朝修好条約の下であったため、日本人を直接裁くことのできなかった状況の中、特別法院を設け、事件に加担したとされる朝鮮人三十余名を「謀反事件」の犯人として裁判にかけた。その結果、軍部協辨の李周会(イジュヘ)、親衛隊副尉の尹錫禹(ユンソグ)、日本公使館の労務者朴銑(パクソン)(55)を王妃殺害犯として死刑、四名を終身刑、四名を懲役刑に処した(1895年12月9日)(56) 。
そして、日本政府は事態収拾のために10月10日、外務省政務局長の小村寿太郎を団長とした「法律顧問調査団」を漢城に派遣し(57)、三浦を含む被疑者四十余名を捕まえ、日本へと順次帰国させ、軍人らは広島の軍法会議にて、その他の者は広島地方裁判所にて裁判にかけた。その当時、小村が西園寺公望外務大臣に報告した電文は次のとおりである。
「今回ノ事變ニ付キテハ官民共ニ頗ル關係者多クシテ其事實ヲ得ルコト最モ難シ然レトモ今日迄ノ取調ニ依リ本官ノ確實ト認ムルモノ左ノ通リ即チ
此事件ノ使嗾者ハ三浦公使ニテ大院君ト同公使トノ間ヲ周旋シタルハ岡本柳之助ト察セラル而シテ公使館領事館職員中ノ関係者ハ杉村書記官堀口領事官補國分通譯官荻原警部及巡査六名ナリ王妃ハ日本人ノ手ニテ殺害シ其屍ヲ燒キタリ…尽力シタルハ領事館巡査ナリ守備隊ハ全ク三浦公使ノ命令ヲ奉シテ進退シタルモノト認ム守備隊武官中ノ關係者ニ付テハ田村中佐ヨリ陸軍大臣ヘ報告セラルヘシ」
このように、日本人による報告や証言、多数の目撃者は閔妃殺害の下手人は日本人であると具体的に明記していた。なお、日本人警察官が事件を目撃している旨の報告書まである(58)にもかかわらず、日本は公使の三浦以下犯人四十八名人と、第5師団の軍法会議に引き渡された軍人八名を形式的な裁判をしただけで、全員証拠不十分で無罪釈放し、王妃殺害事件を終結させた。
広島地裁予審判事吉岡義秀による「予審終結決定書」に記されている四十八名は以下のとおりである。
三浦梧楼(公使)、岡本柳之助(宮内府兼軍部顧問)、浅山顕蔵(朝鮮国補佐官)、佐瀬熊鉄(医業)、渋谷加藤次 (内部顧問官、大浦茂彦(通訳官)、蓮元泰丸(通訳官)、堀口九萬一(領事官補、東京大学法学部卒業、事件後ブラジルとルーマニアで全権公使)、杉村濬(公使館一等書記)、鈴木重元、柴四郎(衆議院議員、著述業・筆名は東海散士、三浦と一緒に朝鮮にわたる、政治家、小説家、1892年に議員に選出)、安達謙蔵(漢城新報社長、浪人の終結担当、加藤高明内閣の逓信相、浜口内閣の内相)、国友重章(漢城新報社主筆)、小早川秀雄(漢城新報編集長)、菊池謙譲(新聞記者、『近代朝鮮史』などを著述)、佐々木正(新聞記者)、牛島英雄(新聞記者)、宮住勇喜(新聞記者)、吉田友吉(新聞記者)、山田烈盛(新聞記者)、佐々正之(朝鮮進出の事業部門を担う)、広田止善、平山岩彦、沢村雅夫、片野猛雄、隈部米吉、前田俊蔵、家入嘉吉、松村辰喜、佐藤敬太、寺崎泰吉、中村楯雄、田中賢道、平山勝熊、藤勝顕、難波春吉、月成光、大嵜正吉、武田範治、鈴木順見、境益太郎、白石由太郎、萩原秀次郎、渡部鷹次郎、成相喜四郎、横尾勇太郎、小田俊光、木脇祐則
また、軍法会議の被告は以下の八名である。
楠瀬幸彦陸軍中佐、馬屋原務本陸軍少佐、石森吉猶陸軍大尉、高松鉄太郎陸軍大尉、鯉登行文陸軍大尉、村井右宗陸軍大尉、馬来政輔陸軍大尉、藤戸与三陸軍大尉
小早川秀雄は「閔后殂落事件」で「政府はこの事件を法廷で究明し、事件の真相を明らかにして日本政府は直接的な関係がないことを明白にしたかった」と述べながら、自分も無罪になった広島裁判のことを次のように書いてある。
「判事は私たち全員を計画的な殺人の疑いで処罰しようとした」
「事件の連累者は50余名で、陳述内容も食い違っていた。しかし、京城から送ってきた事件の報告書を根拠に究明してみると、真相は明白だった。もしこの事件を純粋に刑事問題として扱い、国際関係を排除していたら、48人の収監者は死刑に処される可能性もあった。しかしこの事件は政治的問題が主眼点であったため、1896年1月20日予審を終結し証拠不十分で全員放免された。証拠が本当に不十分だったのかについては説明する必要もなさそうだ」
本人たちの自白、事件の目撃者、事件に関する報告書があったにもかかわらず(59)、なぜ彼らを証拠不十分で無罪にすることができたのであろうか。
第一、朝鮮における親露派クーデターの失敗である。1895年11月28日、閔妃を追従していた親露派がロシアの援助の下、事実上監禁されていた高宗を避難させ、親日政権を打倒し、新しい政権を樹立するによって閔妃弑害に対する復讐をするという「春生門事件」を起こした(60)。しかし、この計画は失敗し、10余名が逮捕され、ロシア人がこの事件に関係していたことが明らかになった。したがって、朝鮮でクーデターを企てたことについては日本と同じ立場になってしまったロシアは、乙未事変を起こした日本側に対して抗議する名分が立たなくなった。これは日本政府も乙未事変を政治的問題として処理し、証拠不十分で無罪にすることを敢行できた重要なきっかけとなった。
第二、軍法会議と朝鮮における特別法廷の裁判の時期である。乙未事変に関係した守備隊長の楠瀬をはじめ軍人八名が軍法会議で無罪になったのは1896年1月14日で、四十八名の広島地方裁判(1896年1月20日)より少し前のことである。これが予審に対して相当な圧力になったのではないだろうか。また、朝鮮人三人の死刑(1895年12月9日)によって表面上、閔妃殺害の主犯が明らかになったため、免訴判決を下しやすい状況であったと思われる。
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(54) 이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』 서림재(ソリンゼ) p.32
(55) 八木信雄(1978) 『日本と韓国』 財団法人日韓文化協会 p.57
(56) 実際、死刑になった3人の朝鮮人は、乙未事変と関係がなく、日本と日本に協力していた当時朝鮮の親日内閣が、 内閣に否定的で事件隠蔽の手段として適当な彼らに拷問を行い、自白を強要し、罪を被せたとされている。
(57) 朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会、http://www.uriminzokkiri.com/Newspaper/rodong/2010/2010-10-07-B51.htm、労働新聞(2010年10月7日)
(58) 八木信雄(1978) 『日本と韓国』 財団法人日韓文化協会 p.57
(59) 上述した石塚の報告、小村の報告は勿論、内田定槌一等領事も漢城新報社と三件の家宅捜査をし、証拠品を押収送付しているが、いずれも無視された。
(60) ソウル六百年史-春生門事件概説、http://seoul600.seoul.go.kr/seoul-history/munwhasa/txt/text/2-8-15-2-4-1.html、2010年12月3日
2-3.日本政府の関与について
乙未事変に関しては、日韓両国の資料及び手記などを比べてみると、「閔妃は日本人によって殺害され、その遺骸は庭園で焼却された」点は完全に一致している(61)。しかし、①誰の主導で実行されたか、②遺体陵辱説の真偽に関しては合致しない。
『日本の韓国併合』と『日韓併合小史』の著者、山辺健太郎は乙未事変への日本政府の関与を部分的には否定している。「この事件の首謀者が三浦公使であったことは、日本政府もはじめは知らなかった。ソウル駐在の列国外交官もこのことはもちろん知らなかったであろう(62)」と指摘し、その根拠として当時のソウルと東京との電報のやりとりを挙げている。
しかし、韓国では、最初から井上馨らの計画の下、閔妃殺害を行う適任者である三浦をソウルに派遣したという見解が多数である。 『外交文書で語る日韓併合』の著者金膺龍(キムウンヨン)は「世界をバカにした、皇国日本の裁判は証拠不充分だと断定し、三浦までも免訴にしたことは、日本という国が服従しない王妃の殺害を、国家の方針としていたことを認めたことの何よりも確かな証拠ではないだろうか(63)」と日本政府の関与を肯定している。
日本政府が乙未事変にどのように関わっていたかは、当時三浦の補佐役で日本公使館の一等書記官であった杉村濬の事件後広島地方裁判所予審での陳述から予測できるだろう。
「…左レバ本年十月の初メ、朝鮮ノ形勢甚ダ切迫シ、危機一髪ノ際ニ臨ミ、三浦公使ハ其責任ヲ以テ大院君入闕光霽ノ切望二同意シ、之ニ陰助ヲ與ヘタルハ、其目的大鳥、井上兩公使ノ所爲ト同一ニシテ、其ノ手段ハ遙ニ昨年七月ノ擧ヨリ溫和ナリシト信ゼリ。然ルニ政府若シ本年ノ擧ヲ以テ公使ノ過失ト爲シ、若クハ罪戾ト認メバ、政府ハ何故ニ昨年ノ擧ヲ是認シタルヤ、政府ハ旣ニ昨年ノ擧ヲ是認シタル巳上ハ、後任公使ガ其例ニ従ッテ行ヒタル本年ノ擧モ亦之ヲ責ムルヲ得ザルモノト確信セリ(64)」
しかし、乙未事変の実行において日本政府が直接的に関わっているという証拠や証言はない。むしろ、小早川の手記のように、日本政府の関与を否定する記録があることは事実であるが、このような記録を全面的に信用することのできない理由は、事変前の日本の対朝政策の悪化や事変後の裁判結果などから、日本政府が事件に全く関係がないとは言えない状況であったからである。つまり、日本政府の暗黙の了解を得た三浦が日本の守備隊などを動員し閔妃を殺した後、それを大院君と訓練隊の素行にして罪を着せようとしたこととして解釈できよう。
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(61) 角田房子(1988)『閔妃暗殺』新潮社 p.318
(62) 山辺健太郎(1970) 『日本の韓国併合』 太平出版社 p.226-227
(63) 金膺龍(1996) 『外交文書で語る日韓併合』 合同出版株式会社 p.127
(64) 伊藤博文編(1936) 『朝鮮交渉資料』中巻 秘書類纂刊行会 p.533-534
Ⅳ.おわりに –「過去」を乗り越え、日韓友好の道へ-
1909年10月26日、ハルビン駅。伊藤博文は朝鮮人である安重根(アンジュングン)に狙撃され、命を落とした。伊藤は乙未事変の際、日本の首相であり、事件の首謀者とされる三浦悟楼を公使に任命した人事権者でもあった。安重根は裁判で、伊藤を殺害した理由である「伊藤博文罪悪十五箇条」の一番目に、「閔皇后弑殺の罪」を挙げている。また、閔妃を暗殺した三浦が無罪で、義兵として伊藤を殺害した自分が死刑という不条理に異を唱えたそうだ。
朝鮮の有名な独立運動家である金九(キムグ)も、国母殺害に対する復讐として乙未事変とは関係のない日本人、土田譲亮を殺害する。桜田門で昭和天皇に爆弾を投げつけた李奉昌(イボンチャン)も金九の影響を受けていたとされる。一方、閔妃遺骸の焼却を指示したとされる親日派禹範善も刺客高永根によって殺害された。それだけでなく、乙未事変により、朝鮮の反日感情は極度に高まり、親日内閣であった金宏集政権に対する反対運動が広まった。その時、実施された断髪令は、反日開化派の動きをさらに強め、全国各地で反日運動の起爆剤となり、各地で約三十名の日本人が殺された(65) (乙未義兵)。1896年、朝鮮の駐在公使であった原敬は朝鮮の現況について次のように報告している。
「概括的ニ朝鮮ノ現況致候エバ、官民一般ハ勿論在留外国人ニ至ルマデ、排日ノ風潮頗ル盛ニシテ、我行為ニハ其事ノ何タルヲ問ワズ、皆反対ヲ試ムルノ情勢ニ有之候、是レ申迄モナク一両年内政干渉ノ反動ト、昨年十月八日王妃殺害事件トニ原因致候…(66)」
一方、日本では、免訴になり釈放された三浦が日本国民から熱烈な歓迎を受けた。後に三浦は天皇の信任を得て、枢密顧問官に就任(1910年)するなど国家の要職を歴任する。安達謙蔵も昭和の初期、内務大臣に就任するほど出世した。また、東洋拓殖株式会社(67)という植民地搾取機関の設立委員には柴四郎の名がある。乙未事変に関係し、裁判にかけられた者たちは、その後の彼らに何の悪影響もなく、出世の道を歩んでいた。それは、護国と愛国のために行った乙未事変が日本の朝鮮進出に決定的なきっかけであり、またそのような事実を自負している彼ら自身の気持ちと同様に日本社会も感じていたからこそ可能であったと思う。
韓国で、乙未事変による反日感情が再び高潮したのは、日韓共同ワールドカップが開催される一年前の2001年である。小説家金辰明(キムジンミョン)の長編小説『皇太子妃拉致事件(2001)』がそのきっかけである。その小説は日本の皇太子妃の拉致と乙未事変の秘密文書を背景にした小説で、韓国で2001年発刊され、ベストセラーになった。内容は、二人の在日韓国人が歌舞伎を観覧していた皇太子妃を拉致するところから始まる。皇太子妃を返す条件は、乙未事変当時閔妃の死を記録した文書の公開で、公開時限は韓国政府がユネスコに日本歴史教科書審議を申し立てた最終審査一日の前。結局、拉致劇は失敗するが、その過程で日本がやらかした惨状に良心の呵責を感じた皇太子妃が自分の口で歴史歪曲の実体を告白することで話は終わる。この小説の作家は、石塚英蔵の書簡を根拠にこれを書いたそうである。
韓国人なら誰もが知っている乙未事変の裏に王妃強姦という真実が隠されていたという衝撃的な内容に、当時中学生であった私は込み上げる憤怒を抑制できないほどであった。国を強奪し、たくさんの朝鮮民族を殺し、戦争を起こし、我々の民族の王妃まで殺した日本は、過去の真実を隠蔽し続けていると思っていた。もちろん、その小説は、フィクションであり、誇張して書かれてあった部分もあったが、当時小説を接していた人々は私のような(もしくはそれ以上の)怒りを感じていたと思う。因みに、韓国では小説だけでなくドラマや映画、ミュージカルの素材としての乙未事変は決してまれではない。
では、一国の公使が在任期間中、在住する国の王妃を殺した前代未聞の事件の首謀者とされる人さえも処罰せず、100年以上真実に背を向けてきた現実を、我々はどういうふうに向き合うべきか。
『外交文書で語る日韓併合』の著者金膺龍は「史上例のない、人間とは到底思えない狂暴な方法で他国の王城の尊厳を冒涜し、王妃を殺害した」と日本側を強く非難している。また、角田房子は『閔妃暗殺』で、「王妃を殺されたことへの民衆の怒りはすさまじかった。閔妃が国民にとってどのような王妃であったか、ということとは別問題で、自国の王妃が日本の暴挙によって抹殺されたことへの国民としての怒りであり、日本はこれからも朝鮮に対して何をするかわからないという暗い予感ともつながっていた」と記述し、山辺健太郎は「閔妃事件というのは、日本帝国主義が朝鮮で犯した罪悪のうちもっともひどいものであった」と言うように、当時の朝鮮人及び現在の朝鮮半島の人々にとって乙未事変は赦すことのできない日本の醜悪な行為として、歴史教科書や書籍、ドラマ、映画などを通じて現在にまで代々受け継がれてきた。しかし、日本には閔妃の存在さえ知らない人が大多数である。そして、言うまでもなく歴史教科書の中にも閔妃の痕跡はない。知っている人の中には事件を否定したり、捏造する人もいる。このような風潮は両国における国民的反感を引き起こした。
つまり、韓国(北朝鮮)側の「記憶の過剰」と日本側の「過去の隠蔽」は、今日における「反日」と「嫌韓」を生み出した。それはまた、日韓関係が進歩できない、及び日本と北朝鮮の国交正常化が実らない最も大きな理由である「過去清算の問題」へとつながったのである。
特に、乙未事変が1592年壬辰倭乱(文禄・慶長の役)以降、朝鮮半島の全国各地で本格的に展開された反日運動のきっかけであることを直視し、日韓両国は事件の真相に真摯に取り組むべきである。事件当時ロシアの公使であったウェバーは報告書の中で、乙未事変に対する自分の心境を次のように記述している。
「この事件の場合、我々は全世界歴史上類例のない犯罪事実に直面していくべきであると言わざるを得ません。平和な時代に他国の人々が自国軍の庇護の下、さらには指揮の下、公使館の指揮かも知れないが、群れて王の宮廷に侵入して王妃を殺害した後焼き捨て、他の殺人と蛮行をやらかして、図図しくも人々の前でやらかした自分たちの過去を完全に否認することは前例のない事でした(68)」
乙未事変の真相究明が未だにできていない最も大きな理由は、過去の日朝両政府において、隠蔽が行われていたからである。それは現在において、日本における加害意識の欠如及び正当化、韓国における自己反省の不足と責任転嫁という潮流を生み出し、両国の「過去の克服」を妨害している。まず、過去の事実を知ること、及びそこから見えてくる真実を正しく捉えることの重要性を認識する心構えが必要であろう。それこそが、不幸で残酷だった過去の清算と歴史の和解の出発点であり、昨日のトラウマを乗り越え、明日へ向かう原動力になると確信する。
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(65) 市川正明(1979) 『安重根と日韓関係史』 原書房 p.60
(66) 中塚明(1994)『近代日本と朝鮮 第三版』三省堂 p.75
(67) 東洋拓殖株式会社は、大日本帝国による朝鮮の植民地経営を進めることを目的として設立された国策会社である。1908年(明治41)12月18日、東洋拓殖株式会社法(東拓法)を根拠法として、大韓帝国政府と日韓民間資本の共同出資などにより設立された。初代総裁は宇佐川一正(陸軍中将)。当初は漢城(日韓併合後、京城に改名)(現在のソウル特別市)に本店を置き、朝鮮の土地5700町歩を所有して、日本からの移民と開拓をその事業として掲げた。
(68) 이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』 서림재(ソリンゼ) p.33
Ⅴ.参考文献
崔文衡(2004) 『閔妃は誰に殺されたのか』 彩流社
角田房子(1988) 『閔妃暗殺』 新潮社
金膺龍(1996) 『外交文書で語る日韓併合』 合同出版株式会社
外務省編纂(1953) 『日本外交文書』 第28巻 日本国際連合協会
国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書(1940) 「伊東伯爵家文書 朝鮮王妃事件関係資料」 『伊東巳代治関係文書』 憲政546号 p.501-524
中野泰雄(1984) 『安重根-日韓関係の原像』 亜紀書房
武田幸男(2006) 『新版世界各国史2-朝鮮史』 山川出版社
旗田巍(1983) 『朝鮮と日本人』 勁草書房
市川正明(1979) 『安重根と日韓関係史』 原書房
林建彦(1982) 『近い国ほど、ゆがんで見える』 サイマル出版社
井上寿一(2003) 『日本外交史講義』 岩波書店
福田和也(2010) 「大宰相・原敬-第三十八回閔妃暗殺」 『VOICE』 2010年2月号 p.233-241
高大勝(2001) 『伊藤博文と朝鮮』 社会評論社
山辺健太郎(1982) 『日韓併合小史』 岩波新書(青版)587
池田常太郎(1910) 『日韓合邦小史』 読売新聞社
山辺健太郎(1970) 『日本の韓国併合』 太平出版社
岡本柳之介著 平井晩村編(1912) 『風雲回顧録』 武侠世界社
マーサ・ミノウ(2003) 『復讐と赦しのあいだ』 信山社出版株式会社
崔基鎬(2002) 「王后閔妃は民衆の怨嗟の的だった」 『自由』 p.121-129
韓桂玉(1996) 『「征韓論」の系譜』 三一書房
八木信雄(1978) 『日本と韓国』 財団法人日韓文化協会
木村幹(2007) 『高宗・閔妃-然らば致し方なし-』 ミネルヴァ書房
荒井信一(2006) 『歴史和解は可能か』 岩波書店
* 以下、韓国出版書籍
혜문(ヘムン)(2009) 『조선을(朝鮮を) 죽이다(殺す) – 명성황후(明成皇后) 살해(殺害) 기록과(記録と) 역사의(歴史の) 진실(真実)』 동국대학교출판부(東国大学校出版部)
이(イ)영(ヨン)숙(スック)(2005) 『명성황후(明成皇后) 시해사건(弑害事件) 러시아(ロシア) 비밀문서(秘密文書)』 서림재(ソリンゼ)
신국주(シンクックジュ)(2001) 『근대조선정치사연구(近代朝鮮政治史研究)』 박영사(パクヨンサ)
申国柱(シンクックジュ)(1992)「明成皇后弑害事件에(に) 関한(する) 研究(上)」『自由』1992年10月号 p.115-130
申国柱(1992)「明成皇后弑害事件에(に) 関한(する) 研究(中)」『自由』1992年11月号 p.82-96
申国柱(1992)「明成皇后弑害事件에(に) 関한(する) 研究(下)」『自由』1992年12月号 p.110-117
李培鎔(1995) 「開化期 明成皇后 閔妃의(の) 政治的 役割」 國史館論叢 제66집(第66輯) 國史編纂委員會 p.61-111
* 以下、韓国国会電子図書館(https://u-lib.nanet.go.kr/dl/SearchIndex.php?groupList=ALL&submitFrom=S)より
林在讚(1982) 「閔妃殺害의(の) 眞相과(と) 그(その) 事後問題」『士論文集15(‘82.3)』 p.69-83 육군제3사관학교(陸軍第三士官学校)
安珍熙(1996) 「明成皇后弑害事件에(に) 대한(対する) 一考察 : 日本의(の) 隱蔽•造作을(を) 中心으로(として)」漢陽大 敎育大學院 修士学位論文
송영걸(ソンヨンゴル)(2005) 「伊藤博文 研究 : 明治政府内와(と) 朝鮮 侵略過程에(に) 있어서의(おける) 役割에(に) 관하여(関して)(A Study on Ito Hirobumi : His role in Meiji Government and the process of the Invasion of Korea)」 漢陽大学校 大学院 博士学位論文
牟延雅(1998) 「閔妃弑害 事後處理 研究」 誠信女子大學校 敎育大學院 碩士學位 請求論文
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study398:110706〕
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