杉浦非水:日本のグラフィックデザイナーの嚆矢
- 2021年 10月 21日
- 評論・紹介・意見
- 杉浦非水髭郁彦
東京都墨田区のたばこと塩の博物館で9月11日から11月14日まで「杉浦非水 時代をひらくデザイン」という展覧会が開催されている。杉浦非水は近代グラフィックデザインのパイオニアの一人として知られているが、私は彼の作品をじっくりと見たことがなかった。また、展覧会の始まる少し前から1920年代という時代が非常に気になっていたため、この時期にデザイナーとして活躍していた杉浦の作品に少なからぬ興味を抱いていた。9月の終わりのある日、自由な時間を見つけることができた私はこの展覧会に足を運んだ。
美術評論家の海野弘は『モダン都市東京―日本の一九二〇年代』の中で近代日本のデザインの歴史に関して、「広告デザインは、はじめ概念的なものであったが、写実的なものとなり、その写実の中で、より省略された、幾何学的、構造主義的、抽象的傾向へと、変わりつつあった」と述べ、更に、「杉浦非水のデザインおいても、初期の日本画風から、アール・ヌーヴォー・スタイル、そして第一次世界大戦後の、アール・デコ的な幾何学的スタイルへの流れを見ることができる」と述べている。この指摘からも判るように、近代商業(広告)デザインを考察する上で杉浦の作風のチェンジは作家個人の問題だけに還元されるものなのではなく、時代精神を反映するものでもあり、この側面からの検討にも十分に値するものなのである。それゆえ、このテクストでは杉浦非水の広告デザイン画の変遷を追いながら、1920年代という時代性について多角的な視点から考察していく。
何故1920年代を問うのか?
このテクストの中心テーマである杉浦非水のデザインに関して検討していく前に答えなければならない大きな問題が一つある。それは「何故1920年代を問うのか?」という問題である。今、この時代について問うことには以下の三つの意味があるように私には思われる。
一つ目はこの時代は今から一世紀前の時代であるが、「近代的」と言われる様々な事象が完成し、現代という時代が幕を開け、世界全体がどのような方向に向かっていくのかということが明らかになった時代であると語ることができるからである。二つ目は近代の理性中心主義の絶対性が崩れ、秩序と退廃が交じり合いながら、その相反する特質が見事に交差した時期が1920年代であるからである。三つ目は美術史上、1920年代は後期印象派、ジャポニスムの残り香が漂い、キュビズムの風が吹き、ダダの足音が響き、シュールレアリズムが産声を上げ、アール・ヌーヴォーの花が咲き乱れ、アール・デコの種が蒔かれ、成長していった時代であるからである。
すなわち、1920年代は創造と破壊、美徳と堕落、秩序と無秩序、意味と無意味、芳香と死臭、ノスタルジーと未来志向といった二項対立する事象が剝き出しの状態で、両立していた時代であり、この時代の精神を考えることで、現代とは何かを探る鍵を手に入れることができるように私には思えたのである。そして更に、目まぐるしく変化していった都市文化が確立し、世界各地の機械化された巨大都市の中で豪華絢爛な建築、美術が花開くと共に、都市の多くの住民は消費欲求を追求し、それが文明の象徴とされる社会が確立していった時期が1920年代であると考えることができるからである。それだけではない。アメリカの作家ウィリアム・ワイザーが書いた『祝祭と狂乱の日々――1920年代パリ』の中で、1920年代以降のパリとそこで生きた人々の生活を比較しながら、「それぞれのパリを貫き、つなぎあわせる糸があるものだ。原型があり、規準がある。永遠のカフェ、都心部の橋 (…)、よそでは決して見られないほど濃淡を変える灰色、匂い、音。自分自身と同じく都会にも支配される気分、時おり陥る意気消沈、時には鬱状態、それが突然、思いがけない歓びに打ち破られる」(岩崎力訳) と書いているが、こうした年月を超えた大都市の持つアイデンティティー形態が刻まれているのはパリだけではない。ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、東京、上海といった1920年代にメガロポリスとしての特質を構築し、発展していった世界の多くの大都市もそうであるのだ。今も残る1920年代のその姿に、2020年代まで流れ込んでいる現代という時代の源流を見ることができるのである。この意味は極めて大きい。
だが、時代性を考察するにしても、この1920年代という時代性と杉浦非水の広告デザインとの関係性に対して詳しく述べる必要性がある。次のセクションではこの問題について語っていくことにする。
杉浦非水とは?
1876年に愛媛県松山市で生まれた杉浦非水。最初、彼は日本画を習い、松浦巖暉、川端玉章に師事し、1897年、現在の東京芸術大学の日本画選科に入学した。今回の展覧会で飾られていた卒業制作作品である「孔雀」(1901) を見れば、彼の描写力が極めて優れたものであったことが理解できる。日本画選科であったが、洋画家の黒田清輝の知己を得て、黒田によって久米圭一郎、岡田三郎助、和田英作、藤島武二といった当時の洋画界の多くの中心画家達に紹介され、洋画の知識を深めた。また、1900年のパリ万博に赴いた黒田清輝の持ち帰った数多くの広告ポスターを見ることができ、そこからアール・ヌーヴォーに魅了され、強い影響を受け、商業ポスター制作の道を歩むこととなる。
1902年には大阪三和印刷所図案部主任となり、商業デザイン家としてのキャリアを積む。1905年には東京中央新聞社に入社するが、杉浦の名を高めたのは1908年から嘱託となった三越での広告デザインによってである。杉浦はPR誌である「三越タイムズ」、「三越」の表紙やこの百貨店の広告ポスターを13年間描き続けるが、この時期、彼は最初アール・ヌーヴォー風の作品を多数描き、その後、セセッション的な作品の制作を経て、アール・デコの作風の作品を多産し、商業デザイナーとして絶頂期であった。1922年にはデザイナー本人もパリに赴き、本場のアール・ヌーヴォーやアール・デコの作品を直接目にし、1924年に帰国している。その後、彼は東京地下鉄道株式会社のポスター、カルピスのポスター、ヤマサ醤油のポスターなどを手掛けただけでなく、大蔵省専売局 (現在のJT) の煙草のパッケージのデザインなども行い、多数の書籍の装丁も行った。
また、1929年に武蔵野美術学校 (現在の武蔵野美術大学) 図案科長となる。1935年には思想家・政治家の北昤吉、画家の村田晴彦、哲学者の三木清、法学者の井上忻治らと共に多摩帝国美術学校を設立し、校長兼図案科主任教授となる。戦後、多摩美術大学となった同校の理事長兼教授となり、美術教育にも貢献した。だが、杉浦のデザイン教育は教授陣、学生から時代遅れと批判を受け、同大学を去る。1965年に89歳で死去した。彼は死の七年前と死の年に二度叙勲しているが、大正、昭和初期の花形デザイナーとして活躍した時期に比べれば、寂しい晩年であったと述べ得るであろう。
こうした人生を歩んだ杉浦非水であるが、ここで問題としたい時期は大正期から昭和期にかけての、特に、1920年から1930年代初めの彼のデザインの変遷である。何故なら、上述したように、それは彼の作風の大きな変遷であっただけでなく、時代的な大きな変遷でもあったからである。
時代的流行性
芸術家とデザイナーとの差異についてイタリアのデザイナー・絵本作家であるブルーノ・ムナーリは『芸術家とデザイナー』の中で興味深い指摘を行っている。彼は、そこで、「芸術家は、自分の純粋芸術の世界で制作しているとき、将来その作品を観るであろう大衆のことを気にしない。芸術家は、実現させようとする力に全身捕らえられ、彼を制作へと搔き立てる純粋なアイデアを一つたりとも逃すまいとし、大衆からの理解などということについては気が回らない」(萱野有美訳、また、「,」は「、」に変えている:以下、この本からの引用は同様である) と述べ、デザイナーについては、「デザイナーは、大衆からすぐに理解されるように気を配らなければならない。デザイナーのヴィジュアル・メッセージは、誤って解釈される予断を与えず、ただちに理解されなければならない」と述べている。
また更に、制作方法について、「(…) 芸術家がもし真の芸術家なら、つまり、古びた表現方法の反復者ではなく、新たな見方の発見者であり、その時代に最も適した表現手段を探究する者であるなら、彼は必ずや平凡な精神性からは外れ、すぐには理解されないだろう」と、デザイナーに関しては、「(…) デザイナーが美的機能をもったあるモノを企画設計する場合、形成の原理が観る物にとって明らかとなるように、そしてそのモノを通じて、観る者がこれまで以上にさまざまな事象を知ることができるようなあらゆる美的状態を発見するように行う」という指摘を行っている。
すなわち、芸術家は時代に背を向けて生きることも、時代に先駆けて生きることもできるが、デザイナーは時代性に従う存在であるのだ。それゆえ、杉浦非水の商業デザイン作品を語ることは彼の生きた時代性を語ることにもなるのだ。1920年代という狂騒の時代の華々しさと、デカダンスとを。ベルエポックが終わり、急ぎ足で新しい時代を作ろうとして、人々は何かに憑かれたように速さを求め、次第に美しさよりも強さを求めるようになっていった時代。軍国主義の足音はまだ大きくはないが、微かにではあっても、確実にその音は響いていた。こうした時代性の中で、人々が求めたものは何かを考えることは重要である。各時代には各時代の流行が見出される。それは時代精神そのものではないとしても、その一面を提示していることは明らかである。アール・ヌーヴォーからアール・デコへの変化の時代、ジャズ・エイジ、ダンスの時代、映画が大衆娯楽の一つとなり、大都市は車が溢れるようになった。世界の各都市にキャバレーが作られ、都市のアンダー・ワールドでギャング団が跋扈し、富を求めて人々が株を貪るように買い、毎日バカ騒ぎを繰り返した時代。その時代性はアール・ヌーヴォーの作品に鮮明に反映されている。
東京、この東洋の大都市も、1920年代の洗礼を強く受けた。大きなビルディングや地下鉄が建設され、カフェでジャズが流れ、モボ、モガが都市の風景に同化していた時代。そんな時代の東京で、三越というデパートは流行の先端を担う時代装置と呼び得るものの典型であった。この時代装置のコマーシャリズムにとって中心的な役割を担ったもの、それがグラフィックデザイナーである杉浦の制作したこのデパートの広告ポスターやPR誌の表紙に使われた絵であった。これらの作品はまさに時代性が強く刻まれた作品であると述べ得るものであるのだ。次のセクションではこうした彼の作品を具体的に考察していく。
杉村非水の作品の中にあるもの
この短いテクストの中で杉浦の作品全体を分析することは不可能である。ここでは1910年代から1930年代前半までに制作された杉浦のデザインした三越の広告ポスターの変遷について検討していきたい。そのためには、今回の展覧会で見ることができる「三越呉服店 新館落成」(1914)、「三越呉服店 春の新柄陳列会」(1914)、「エンゼル (三越呉服店)」(1915)、「四月十日開店 銀座三越」(1930)、「新宿三越落成 十月十日開店」(1930)と今回の展覧会では見られなかった「東京三越呉服店 本店西館修築落成・新宿分店新築落成」(1925) という六枚のポスターを比較することが有効である。そこには時代的な潮流の差異がはっきりと記されているからである。
今示したポスターは三つの時期に分類することができる。第一の時期は1914年と1915年の三つのポスターである。第二の時期は今回展示されていなかった1925年制作のポスターと1930年制作の「四月十日開店 銀座三越」の間の時期である。第三の時期は「新宿三越落成 十月十日開店」が制作された1930年以降の時期である。杉浦の制作作品すべてがきっぱりとこの三つの分類に正確に対応する訳ではないが、凡そこの分類に当てはまると言うことができる。
第一の時期の作品はアール・ヌーヴォーの色彩が強い時期である。広告対象である三越よりも艶やかな衣装を纏った女性がポスターの中心となり、その女性を副次的支えるようにして花や蝶といったオブジェが散りばめられている。そして、曲線が多用され、柔らかさと流動性が画面全体を被っている。第二の時期のものはアール・ヌーヴォーとアール・デコの中間の作品で、セセッション的様相を帯びた作品である。人物と建物、有機的なものと無機的なもの、軽快なものと重厚なものといった異なる特質をもった存在が共存し、混合された作品である。曲線と直線が交差し、動的なものと静的なものが均等を保とうとして配置されている。第三の時期の作品はアール・デコの作風によって制作されたもので、ビルディングがつまりは無機物としての荘厳な存在が全面に押し出され、人間はこの無機物の背景に後退している。この無機物はマスとして、堅固な塊としての強さを持つと共にシャープさを持つ。それが直線によって表されている。それは曲線的で流動的な、軽やかさを駆逐し、鉄の時代、マシーンの時代へと向かう時代性を映し出しているように感じられる。
第一の時期は軽薄さと退廃とが混在し、揺れ動き、流れる世紀末の残光を宿している。第二の時期はデカダンの華がニヒリズムに取って代わられ、秩序の構築の名の下に支配と従属の掟を声高に語る破壊の神の種子が蒔かれていく時代である。第三の時期は破壊の神である軍国主義の時代がはっきりと頭を擡げた時代である。優美さや、柔軟さ、移ろいゆく流動性は否定され、鉄の規律と強靭な精神と肉体を強要する時代が、もう目の前にやって来ている時代である。この三つの時代の風景は杉浦のポスターのデザインの中に明確に表現されている。それも消費社会の確立する1920年代であるからこそ、その時代性は深く刻まれているのではないだろうか。次のセクションではこの問題を別な角度から検討していきたい。
流行の終わりとは何か
海野弘は『日本のアール・ヌーヴォー』の中で、戦後、多摩美術大学で教鞭を執ったときに、杉浦の教育方針は同僚の教師からも、学生からも激しく否定されたと述べている。海野は「教師たちの世代は昭和二十六年に結成された日本宣伝美術界に代表されている。その理念は、第一次世界大戦後のヨーロッパで形成されたバウハウス運動を中心とした近代デザイン論である」と書き、耽美主義的で、主観的な色彩の強い、杉浦のデザインは構造主義理論に支えられ、機能性と効果を考慮したバウハウスの方向性を重視する教師からは時代遅れであると思われた点を強調している。また、「戦後、多摩美術大学でデザインを教えていた非水は、一貫して写生を基本としていた。学生たちはこのいささか古めかしい教授法にへきえきしていたらしい」という指摘からも杉浦の教育が流行遅れであると見做されていた点が理解できる。
上記した本でムナーリが語っているように、デザイナーは芸術家とは異なり、大衆の嗜好性を敏感に察知し、流行を追っていかなければならない。それゆえ、流行遅れの主題や様式というものは排除されて当然である。杉浦非水の用いた表現手段を用いてグラフィックデザインを描くことにもう大きな価値はなくなっていたのだ。戦後すぐの時期のデザイン界の判断は決して間違ったものではないだろう。だが、そうであるからこそ、絵画芸術作品を観察するだけでは決して見つけ出すことができない、流行の始まりと終わりとが記された作品を広告ポスターの中に見出すことができるのではないだろうか。
前のセクションで考察した杉浦の作品をもう一度観察してみよう。年代ごとにこれらの作品を見つめていくと、上記した特徴とは別に、産業社会、消費社会の誕生とその発展が了解可能となるのではないだろうか。すなわち、アール・ヌーヴォー的作風の第一の時期の作品は分業化され、役割分担されていく高度産業社会の手前にある主観的で幻想的なイメージ世界が展開されている。三越というデパートと花瓶に挿された花や、蝶や天使の姿とは直接的関係はない。ポスターの中に具体的な商品が提示されてはいず、優雅さ、耽美さ、妖艶さといったイメージ空間の広がりを媒介として、見手を三越というデパートに足を向けさせようとする商業戦略の下に、このポスターは作られていると述べ得る。セセッション的作風の第二期は女性だけではなく子供も登場し、背景にある三越のビルディングは都市空間を埋める人間の群れや車の往来の中で、最も中心的で大きな建築物として聳え立っている。そこには大都市東京における三越の存在性を強く主張する商業戦略を表す構図が示されているのではないだろうか。アール・デコ風の第三期のポスターは三越のビルディングだけが強烈な存在感を示している。そこには秩序ある構造を求める重厚性があるが、それは機械の持つ強固な基盤性と直線的な鋭敏さをも表している。それは幻想や折衷的なものを好まない、物質の塊を中心とした現代性が表されている。重視されるものは人間的幻想よりもマシーンの持つ鎧のような力である。求めるべきものは空想ではなく現実としての物質性。消費社会に向かった現代人のイメージは物質を媒介としなければ到達できない欲望である。この欲望の持つ明確に意味を認識することなく、杉浦は無意識的に大衆の抱く欲望を形態化していった。それゆえに、彼の作品は時の流れと共に消えていった1920年代の指標となっているのである。
ベルエポックの後に来た狂騒の時代はジャズのリズムに乗って大衆が夜通し踊り、速く、より速く走る車というマシーンを操作し、時代を駆け抜けようとした都市の大衆がマスとして登場した。それが1920年代である。ジャン=リュック・ナンシーは「集積について」(邦訳は『フクシマの後で――破局・技術・民主主義』の中に収められている) の中で、「Struoは「よせ集めること」、「積み重ねること」を意味する。ここでまさに問題となるのは、構築=共に-積み重ねること (con-struction) や教育=内に-積み重ねること (in-struction) が含んでいる秩序化や組織化ではなく、堆積であり、集め合わされることなき集合である。もちろんここには隣接、共存関係があるのだが、とはいえ連結秩序を欠いた関係である」(渡名喜傭哲訳) と書いているが、この指摘は1920年代のマスとしての大衆に対しても適用できるものである。大衆の持っていた欲望が無定形な方向性を有していたゆえに。
アール・ヌーヴォーにはスタイルがなく、様々なスタイルが混合され、折衷されているという主張がなされる。この主張は1920年代という時代性の反映がアール・ヌーヴォー様式であると断定するならば、正しい主張である。だが、この時代はアール・ヌーヴォーの終焉期であり、アール・デコの持つ機能性や構造性がすでに登場していた時期でもある。そこには様式のチェンジが完全には行われず、二つの様式の狭間としての時代の内包する特質が顕現している。更に、ダダイズムやシュールレアリズムもこの時代に登場し、ジャポニスム、キュビズム、フォービズム、未来派といった絵画のエコールもこの時代に存在していた。また、ドイツや東ヨーロッパに目を向ければ、セセッション、表現主義といった美術運動の流れも登場した時代である。こうした芸術運動の中で、アール・ヌーヴォーとアール・デコをどのように位置づけるべきかを判断することは容易なことではない。だが、海野弘が『アール・ヌーヴォーの世界――モダンアートの源泉――』の中で述べている点は核心的な意味を持つ。絵画におけるキュビズムやフォービズムは存在するが、キュビズムの建築やフォービズムの建築は存在しない。アール・ヌーヴォーとアール・デコは絵画作品だけでなく、こうした様式に従った建築も存在しているという指摘である。だがそれだけではない、アール・ヌーヴォーやアール・デコは複製芸術のポスター、映画などの分野にも存在し、更には商業デザインとしてのガレやラリックが制作したガラス製品にも存在しているのだ。
このことは何を意味するだろうか。アール・ヌーヴォーとアール・デコは美術の世界だけに限定されず、建築、商業製品にまで影響を及ぼした運動であったのだ。それゆえ、この二つの運動は時代精神そのものを示すものであったと述べ得るのだ。杉浦非水はこうした時代精神の影響の下で、グラフィックデザイナーとなり、作品を制作していった。彼が時代性という問題を総合的に、はっきりと捉えていたと断言することは困難ではあるが、彼の描いたアール・ヌーヴォーやアール・デコの作品は日本の1920年代という時代を、あるいは、1930年代という時代を映し出す鏡の役割を果たしているのではないだろうか。この視点から彼の作品を見つめ直すとき、彼の作品の艶やかさやモダン性といったものの奥に隠された時代の暗い影を感じることができるのではないだろうか。
上記したワイザーの本には、1920年代のパリに生き、狂ったようにダンスの練習をし、実際に精神を病んだ妻ゼルダについてスコット・フィッツジェラルドがカナダの作家モーリー・キャラハンに語った「なにか自分のものを持ちたい、自分自身なにかになりたいと思ってるんだ」という言葉が書かれている。1920年代、多くの人々がそう望んだ、この時代はそんな時代でもあったのだ。そうした時代の中で描かれた杉浦非水の作品。その一枚一枚をじっと見つめていくと、彼の多くの作品が今も1920年代を語っていることが私にははっきりと判った。1920年代、それは夢と狂気が交じり合う世界に人々が陶酔した時代であった。杉浦非水の作品はその時代性を今も語り続けている。それゆえ、彼の作品を見つけることは、それがマルセル・プルーストの旅とは大きく異なるものであったとしても、失われた時を求める一つの旅でもあるのだ。
初出:宇波彰現代哲学研究会のブログから許可を得て転載
宇波彰現代哲学研究所 杉浦非水:日本のグラフィックデザイナーの嚆矢 (fc2.com)
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〔opinion11409:211021〕
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