リハビリ日記Ⅴ ⑨⑩
- 2021年 11月 6日
- カルチャー
- 阿部浪子
⑨ 鷹野つぎの烈しい恋
黄色いチョウがひらひら舞っている。さちこさんの家の庭に、散りおくれたピンク色の
コスモスが咲いていた。
晩夏の黒姫高原は一面に、さまざまな種類とかずかずの色彩のコスモスの花が咲きそろっていたのを思いだす。たった1本のコスモスの花も、風情のあるものだ。
5時20分。リハビリ教室「健康広場佐鳴台」の車を降りる。まじめな水谷先生の運転だった。辺りは薄暗い。拙宅の門を入ると玄関の前に、白っぽい服の人と手押し車の人が立っていた。誰かがわたしを待っている! どきどきする。近づくと西隣の、ちよこさんとりえこさんの母娘。たまごやきとサーモンの巻きずしをもってきてくれたのだ。うれしい。ちよこさんの通う介護施設、南風には、毎週、移動スーパーがやってくる。そこで求めたものだという。太巻きは、わが空腹にはぐんとこたえた。2人の心を感じて、格別おいしかった。
りえこさんは一家をリードする、たのもしい存在なのだ。ちよこさんは幸せ者だと思う。
〈ただいま外出中です〉留守電からメッセージが流れてきた。なつよさんは入院したのだろうか。いのちと向きあう彼女は何を思うているのだろう。1人暮らしだ。公的な民生委員のサポートは受けているのだろうか。きょうだい、子どものいない独居高齢者は、ますます多くなっている。彼らは、サポートの手を必要としているはずだ。
5月初め。わが地域の民生委員が、市役所の高齢者生活実態調査の書類を回収しにきた。〈この地域から、孤独死はださないでください〉わたしは初対面のかれに叫んでいた。かれは、たしかにうなずいていた。そのあと連絡はない。もはや、親類縁者だけで人を支えあう時代、社会ではないのだ。民生委員の存在は重要になっている。
*
鷹野つぎは浜松高女(現、浜松市立高校)を卒業している。わたしは同校在学中にどの教師からも、作家、鷹野つぎのことを知らされなかった。上京後、女性専用のお茶の水図書館で知った。感動したのを覚えている。
「みさおはかたきおとめごわれら」などと、戦後にわたしたちは合唱していた。大先輩、鷹野つぎは、明治40年代に世俗の「かたき操」に反抗し、烈しい恋をしている。相手は新聞記者の鷹野弥三郎。つぎはみずから、恋愛、結婚を選択したのだ。家を出て男のもとに走った。彼女のつよい意思表示だったにちがいない。
「やれ御堂そこに守りゐる人はあらでかたへの銀杏のかげのさびしき」
「こは甘き涙ながらに雨の夜は君もかくやと淋しさにいぬ」
上記の「和歌」は「女子文壇」に掲載されている。国会図書館で見つけた。「浜名郡 岸つぎ子」という署名。「女子文壇」は女子むけの文芸誌だ。「青鞜」よりも早くに登場。文
学少女たちは、胸とどろかせて愛読した。そして投稿した。文才をはぐくむ舞台だったのであろう。つぎも早熟な文学少女だ。「新体詩」や「短篇小説」も投稿する常連だった。
本名、岸次は、現在の浜松市尾張町に生まれる。父は呉服屋に勤務。後年には町会議員をした。母は家で油・煙草屋をいとなむ。つぎは、こづかいに恵まれていたのであろう。小学2年から「少年」を購読する。同誌に和歌が「一等賞」に入賞。12歳の快挙だった。
小説など書くのは不道徳という時代のこと。きびしい父の目を盗んでは、つぎは長兄の書籍を読みふけったともいう、読書家だった。自然主義文学、明星派の短歌に親しんだ。
上記の2首のあいだには、2年が経過する。つぎの、弥三郎への愛情のたかまりが読みとれないだろうか。つぎは決断する。19歳。しかし、両親は恋愛結婚を許さなかった。娘を勘当したのだった。母は最期まで絶縁を解かなかった。父は娘と再会している。親戚も「不良娘」と非難して手を差しのべなかった。つぎの自由の代償は大きかった。
⑩ 鷹野つぎの貧困と病気
「健康広場佐鳴台」に行く。リハビリ教室に通って4か月がたった。
〈ここのお茶、おいしいわね〉生徒のくらみさんが話しかけてきた。室内のテーブルの上には、お茶も置いてある。3時間15分、飲めるようになっている。机と椅子は生徒がくつろげる、ありがたい存在なのだ。雑談もできる。
〈寺田ひさ子さんのこと知ってる?〉くらみさんは、100歳の寺田さんとは地域の句作の活動をとおして交流があるという。
寺田さんは当時、浜松市立高校同窓会の会長をしていた。拙著『平林たい子―花に実を』(武蔵野書房)を購入してくれた。同窓会の会報に寄稿するよう声をかけてくれた。心のひろい人だった。卒業生の業績を軽視するような不遜な会長もいる。寺田さんは同窓生を大切にした。よく覚えている。なつかしい人だ。くらみさんの思いがけない情報に、わたしは驚いたのだった。
わたしたちはさまざまの体操をする。レッドコード運動はわたしのお気に入りの体操だ。ほかにノルディックウォーキングがある。たのしそうに見えるが、むずしい。両手にそれぞれノルディックポールをにぎって10分間歩行する。1本のつえ歩行には慣れたが、2本のつえ歩行はバランスが崩れて、からだが微妙にかたむく。疲れる。背後から理学療法士の伊藤先生が追ってくる。わが歩行の弱点を指摘し、アドバイスしてくれる。患足が右側にまわるように着地しているから、まずかかとをつけて、意識的に、患足をまっすぐ前へ踏みださなければいけないと。
就任したばかりのリハビリスタッフ、大瀧先生からの指摘もあった。
想像すれば、わが歩行の姿はぶざまなようだ。発症後、わたしのお尻の筋力は衰えている。歩行中の弱点の1つは、そのせいかもしれない。
近所のいとうさんがとつぜん現れた。数日前、何十日も会わないいとうさんのことを想った。2人目のひ孫が生まれて目が離せないとは聞いていた。
手製の煮豆をもってきてくれる。しいたけ・たけのこ・マッシュルーム・れんこん・あぶらげ・こんにゃく・とりにく。味がしみこんだ具だくさんをひとつひとつ噛みしめる。いとうさんの料理の腕は、わかいころから鍛えたもの。おいしかった。
*
鷹野つぎは、54歳で他界している。短命だった。
随筆「文壇へ出るまで」のなかに、つぎは、こんなことを書いていた。「しっかりした長篇を書きたい」しかし「暇がないので困ります」と。結婚後、9人の子の出産と養育に追われている。日々の家計も苦しかった。夫はあちこちに借金してはふみたおす。それも、つぎの悩みの種であったろう。小説「嘆き」などを読めば、妻の夫にたいする不満が赤裸々に描かれてある。夫は妻に心の配慮もなかった。
さらに、つぎは結核を発症する。当時、結核は不治の病だった。家族にも感染する。7人の子が死んでいった。つぎは、悲惨な現実と直面せざるをえなかった。長編小説を書くなど、時間的にできないことであったろう。夫の鷹野弥三郎は、虚栄心がつよくて、他人とうまく折りあえなかった。失業する。酒飲みでもあった。
しかしつぎは、貧乏にも病気にもへこたれなかった。ペンを放さなかった。生活の糧をえている。おんな作家は貧乏と病気に負けて敗退していくものだ。つぎは意志のつよい人であったと思う。
随筆集『幽明記』(古今書院)は、鷹野文学の代表作だ。つぎの冷徹なリアリストぶりが発揮されている。「一個の戦場さながら」の結核療養所内。「死の影に包まれた」患者、つぎのぶれない観察眼に注目したい。「次々に病み斃れて行く人たち、頭にのぼってあらぬことを口走っている人たち、悲鳴をあげて看護婦を呼ぶ人たち」と、つぎは書く。人間のさまや声まで立ちのぼってきそうな、胸せまる描写にちがいない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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