私が出会った弁護士(その7) ― 後藤昌次郞
- 2021年 11月 15日
- 評論・紹介・意見
- 弁護士後藤昌次郞澤藤統一郎
(2021年11月14日)
自由法曹団本部からずしりと重い封書が届いた。中身は、B5版サイズで200頁を超す冊子。その表紙にこうある。
2011~2020
この10年に亡くなられた
自由法曹団員を憶う
自由法曹団は「ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう」ことを標榜する弁護士だけの団体である。団は今年創立100周年を迎えた。この追悼集も数々の記念企画の一つである。この追悼集に収められたこの10年の物故団員は115名におよんでいる。
懐かしい先輩団員の名前が並んでいる。私と同期の弁護士も、同じ事務所で机を並べて仕事をした人も。若くして亡くなった方も…。一人ひとりの追悼文が、それぞれに胸を打つ。
その115名の冒頭にあるのが後藤昌次郞さん(2011年2月10日没・享年87)である。追悼の文章は鶴見祐策さんが書き下ろしている。いかにも鶴見さんらしい筆致で、真正面からの後藤昌次郞論。初めて知ることばかり。中に、こうある。弁護士の事件に対する向き合い方として、これ以上の讃辞はない。
「松川事件上告審弁論における弁護側の陳述は全部で37名の72項目にわたるが、そのうち10項目を後藤昌次郞さんが担当しておられる。『実行行為ー自白の誘導の破綻』『高橋被告の身体障碍』『任意性判断の羊頭狗肉』『虚構の経過とその破綻』『官憲の偽証を論ず』などだ。いずれも松川裁判の根幹にかかわる論点だが、原審の公判調書にインク消しによる改ざん(刑事訴訟規則59条違反)の痕跡が400箇所もあるとされる『公判調書の改ざん』も出色と思う。この指摘はご自身が膨大な公判調書を隅から隅まで克明に検討された事実を物語っている」
後藤昌次郞って誰? という方には、下記の『法と民主主義』2005年6月号の連載インタビュー「とっておきの一枚」『草笛は野づらをわたり」(訪ね人 佐藤むつみ弁護士)をご覧いただきたい。
https://www.jdla.jp/houmin/2005_06/06.html#totteoki
その記事での略歴紹介欄には簡潔に次のように記されている。
後藤昌次郎
1924年、岩手県北上市に生まれる。
1954年、東大法学部を経て弁護士。以後、松川・八海・青梅事件、日石・土田邸事件など多数のえん罪・弾圧事件に関わる。
1992年、東京弁護士会人権賞授賞
私が後藤さんに親しみを感じているのは、後藤さんが黒沢尻(現北上市)の出身で、私の父と同じ旧制黒沢尻中学の後輩筋に当たるから。そして、湾岸戦争への戦費支出の差止を求めた「ピースナウ! 市民平和訴訟」での法廷活動を共にしたからでもある。
私が先輩弁護士から後藤昌次郞の名を教えられたときには、その名は既に伝説の中にあった。「およそ名利と無縁で、弁護士としての仕事に妥協のない人。かつて、収入が乏しく、生活保護を受けながら弁護活動を行った。おそらくは、生活保護を受けた唯一の弁護士」というものだった。
佐藤むつみインタビューでは、「医療扶助は受けたが、生活扶助は受けていない」ということのようだが、私が耳にした伝説はそれほど真実と懸け離れてもいないようだ。
後藤さんの凄いところは、自分に対する毀誉褒貶をまったく気にするところがないこと。およそ、政治的な思惑で動くところはない。だから、誰とも等距離で付き合えるが、同時に政治性が足りない統一戦線的ではないと批判されたりもする。過激派と近いと陰口されたり、そんな事件に没頭する意義があるのかと揶揄されたりもする。しかし、人権擁護というものは政治性とは無縁であり、重要性の大小などあり得ない、というのが後藤さんの信念であったに違いない。その意味では、みごとな一典型としての弁護士であった。
以下、佐藤むつみが語る後藤昌次郞像である。
草笛の音色はリリカルである。もう何十年も前になるが、後藤先生は四谷の住人だった。四谷税務署の裏にちょっとし公園がある。ジャングルジムやブランコがある公園の片隅で後藤先生は草笛を吹いていた。公園の低木の茂みごしに、小柄で痩身、両手を口元にあてちょっと前傾するような立ち姿が見えた。昼下がりの街、そこだけ不思議な野の風が吹いているようだった。かすかに草笛の音が聞こえた。弁護士になってまだ数年だった私は修習生時代に聞いた先生の逸話をふと思い出した。「孤高の刑事弁護人は生活保護を受けながら事件をやっていた」。弁護士ってこんな生き方ができるんだ。都会の真中、同じ町に先生がいる。なんだかうれしかった。
当時先生は六〇代。大きな刑事事件を抱えて忙しい日々を送っていたに違いない。岩波新書の「冤罪」を発刊したのが一九七九年四月。私も読んだ。自分とは次元の違う弁護士、遠く仰ぎ見る人であった。二〇〇五年五月、このインタビュウをと思っていたそのとき、地下鉄丸の内線の最後尾の車両すぐ側に先生がいた。勇ましい白髪、野人の風格の先生。二〇年前と同じ野の風が吹く。先生は地下鉄の音で聞き取りにくいのか私の方に耳を傾けるようにする。「入れ歯にしたのでちょと」「このごろ物忘れが」などと言いながら私の強引な話に付き合ってくれる。「入れ歯でも草笛は吹けるんですか」思わず聞いてしまった。「それができるようになりました」よかった。
後藤先生は今年八一歳になった。一九二四年、岩手県の県都盛岡から一二里、汽車で一時間の黒沢尻町で生まれた。長男、下に弟妹がいる。家は貧乏だった。父親は便利屋をやったり奥羽山脈の中の鉱山の守衛をやったりしながら家計を支えていた。小学一年で落第、いじめにあった屈辱をバネに、後日長男の昌次郎君にはえらく教育熱心でつきっきりで勉強をさせた。学校で一番にならないと「飯を食わせない」。昌次郎君はこれによく耐えた。小学校を終えると昌次郎君は憧れの地元旧制黒沢尻中学へ進学を希望。父は「授業料はタダだから師範学校に入れ」と反対。何とかという昌次郎君に「一番で入ったら入れてやる」。昌次郎君はがんばったが四番だった。夕飯の時「親父がちっちゃい皿に鮪の刺身を買ってきた。私の家は貧乏でしたから一週間に一度くらいしか魚なんていうのは食えない。まして鮪の刺身なんか食ったことがない。ところが親父が鮪の刺身を買ってきた。『おどっチャ、きょう何かあるのすか』と言った。『ナヌゥお祝いだじゃ、お祝い』」。
昌次郎君は黒沢尻中学に無事入学。ところがスポーツ好きが高じて結核性の股関節のカリエスになってしまう。結核は当時死に至るおそろしい病だった。地元の病院で誤診され、誤った手術を受け、ろう孔ふさがらなくなってしまう。激痛に堪えかねて東北大学病院へ。言下にカリエスと診断される。「一生寝ていなくてはならない」との宣告。「父は私を助けるために、あやしげな民間療法にまで一縷の望みを託して、私のために文字どおり必死に尽くしてくれた。まもなく心労と過労で四三歳の若さで脳卒中で急死した」昌次郎君は父が亡くなる一月ほど前に混合感染を起こし膿がピタリぴたりと止まりろう孔もふさがってしまう。一〇人に一人に起こる不思議な現象に救われたのである。昌次郎君はそれでも寝たままであった。「父が死んで、私は長男として位牌を持って寺の葬式に臨まなくてはならない。おそるおそる立ち上がり、おそるおそる足を踏み出してみると、なんと悪い方の脚で立てるではないか。父の生きているうちにどうして思い切って立上ってみなかったろう」
カリエスの病根を残したまま昌次郎君は二年遅れて中学にもどる。肉体労働のできない昌次郎君には就職口など無い。「とにかく学校に行って勉強するよりほかなかった」「軍国主義が華やかな時代」「上級学校も兵隊になれないようなやつ」は取らなかったのである。「日本に唯一つ、わが校は人間を養成する学校であって、兵隊を養成する学校ではない」と公然と言っていた旧制一高だけが入れる学校だった。校長は哲学者安倍能成。一高であれば寮に入って家庭教師のアルバイトをすれば仕送りが無くてもなんとかいける。母と弟妹に迷惑はかけるがこの道しかない。受験勉強に全力を傾注した昌次郎君は一高にトップで合格する。
まずは文科で西田哲学を始める。いかに生きいかに死すべきかその答えを求めたが「一生懸命読めば読むほどわからない」。戦争に負けてみると西田哲学が砂上の楼閣のように思われる。本当の学問を求めて文科を中退し受験し直し理科に再入学する。ところが議論にまったくついていけない。後にフィールズ賞を受賞するような「特殊な天才」がいる。悪戦苦闘している数学の基本書を中学の夏休みに読んでしまったと言う不破哲三もいた。「寮にオルグに来ていた彼をつかまえて本当にわかっているのか聞いてみた。極めて明解に説明する。ボクはだめだと思いました」「常識でわかる学問」をやるしかない。
後藤先生の弁護士の第一歩は東京合同である。ストレプトマイシンでカリエスを抑えながら使っていた股関節は弁護士になってまもなく「結核菌ですっかり腐食して手のつけ様がない」ことになってしまう。その時一年半医療保護と知人友人のカンパで食いつないでいた。これが「生活保護で刑事弁護」神話の真実である。そして後藤先生はまた代々木病院で奇跡にあう。無名の名医の関節固定手術によって「多くの人は私の跛行に気づかなかったほど」になる。
「もしカリエスで脚が不自由とならなかったら、私は戦場で戦死し、妻と結ばれることも、愛する子らとこの星でめぐり会うことも無かっただろうこのありえたかもしれないもう一人の別の私の、かぎりない悲痛と孤独を思わなくては、あの戦争で生命を失った人々に対する冒涜となるだろう」と思い半世紀。八一歳になるまで後藤先生は多くの冤罪事件を闘い、刑事弁護人として法廷に立ち続けたのである。
二〇〇五年一月先生は『神戸酒鬼薔薇事件にこだわる理由「A少年」は犯人か』を発刊した。先生の渾身のこの書は「せいいっぱい書いたこの本が、A少年とご両親の目にふれますように」と結ばれている。冤罪を許さない気迫と限りないやさしさが切々と心打つ。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.11.14より
http://article9.jp/wordpress/?p=17956
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion11487:211115〕
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