ドイツ通信第182号 新型コロナ感染の中でドイツはどう変わるのか(24)
- 2021年 11月 30日
- 評論・紹介・意見
- T・K生ドイツ通信
日本でも報道されていると思いますから、ここに書く必要もないのですが、ドイツのコロナ感染は「上限知らず」です。週毎に倍々の勢いで天井を突き抜いています。
連日、休みなく報道され、議論されています。しかしその実はというと、TVニュース、政治討論を聞いても、新聞、雑誌を読んでもこの2年間の繰り返しにすぎないです。新しいことは何もありません。そして、それを笑うかのようにコロナ・ウイルスだけが勢いを増しています。
先週の週末にかけて、オーストリア、オランダ、ベルギーそしてデンマークでコロナ規制に反対する数万人規模の大きなデモと、警備隊との街頭騒擾が繰り広げられていました。ヨーロッパでの感染率が上昇し、規制強化とロックダウンが布かれたからです。
他方でスペイン、ポルトガルでは「ヨーロッパのコロナ・オアシス」という表現が新聞紙上に見られます。スペインの人口10万人に占める感染数は55名、ポルトガルでは約100名とここにきて上昇傾向を示していますが、ドイツの370名強と比べて少ないのが事実です。2回の接種率はスペイン80%強、ポルトガル87%とヨーロッパ内、また世界でもトップの水準を維持し、さらに少なくともマドリッド、バルセロナ、リスボン、ポルトにはドイツ、イギリスそして他の国に見られるような「謀略論者」のグループは存在せず、それを「市民の誇りにしている」と言います。
これらの国々ではコロナ規制のすべてが解除されたわけではありませんが、ほとんどの市民は注意深く、今なお街頭でマスクを着用していると伝えられています。
7月末のドイツと比較して大きな違いがあります。一方ではウイルス学者から秋に向けた警報が出されながら、他方で市民はマスクを投げ捨て夏のヴァカンスを満喫していました。この時フランスでは、大きな議論になりましたが「接種パス」の導入で、市民の行動規制が強化され、感染カオスは食い止められています。
ドイツに目を向ければ、7~8月にかけて接種センターを訪れる希望者の数が激減し、各州では8~9月にこうしてセンターが閉鎖されました。ところによっては、解体されもしています。
10~11月になるとコロナ感染は急上昇し始め、11月22日現在、ザクセン、チューリンゲン、バイエルン州では、10の町で10万人に占める感染者数が1000名!を超え、間もなく2,000名に迫ろうとする勢いの町がいくつか現われています。
それを受けて、「日本が模範になるのでは?」という見出しの記事も見られるようになってきました。
今回は、こうした危機的な状況の中で自分がどう考えたらいいかを、論理の整合性を顧みることなく、思いつくままに書いてみます。それが何よりも必要だと思われるからです。
「誰が、どう言ったから、こうだ!」というような議論は、現在のドイツに見られる2年間も続く堂々めぐりの泥沼議論に入り込む恐れが十二分にありますから、注意が必要です。
問題はまず、現状への具体的な個々人の対応、つまり、どうすれば感染経路を切断できるのかを問い詰めることだろうと思うのです。現実にあるもの以外は、現実には手に入らないわけですから、その条件の下で、どのような最大限の対策の可能性があるのかを追求し、そこから政治への批判的な関りがあれば、そこには理想論=空想論の入る余地はないはずです。一刻を争う時間との競争になっています。それが、ドイツの現状です。
いま私たちの手元にはワクチン、接種センター、テストセンター、医療施設、そして医学関係の膨大な研究資料データーと専門家の学術知識があります。これは人間性財産というべきもので、世代から世代に伝えられてきて、また行くものです。それを共有できるのか、できないのかというのが根本的なポイントになります。
ウイルス感染の歴史は、同時に反接種運動の歴史でもあったといわれますが、ワクチン開発は同じく医学を発達させ人間の健康と生存を保障してきました。それによって社会と経済が成立し、共同の生活を営むことが可能になりました。
一言でいえば〈連帯〉をどうつくり上げるのかということです。年配者、病弱者、子どもへの〈連帯〉が語られてきました。それはそれで、まったく正当です。彼(女)らへの連帯がなければ、死亡率は膨大な数に上っているはずです。その意味でリスク・グループを守るための〈隔離〉という用語には、この問題を当初から曖昧にする役割を果たしてきたと思われてなりません。言葉の意図するところとは正反対に、自分の身の安全を確保するために、実は他人を隔離・排除するという実践的な意味が読み取れるからです。
接種拒否者、接種不安・猜疑者への批判点は、感染が接種を受けている人たちへも拡大し家族、子ども、年配者、友人関係、そこから労働現場、社会活動を通して、また元に逆戻りするという悪循環経路をつくり上げるという一点に尽きます。だから、〈連帯の必要性〉が強調されます。これもまったく正しいのです。
これを接種批判者から言われるような〈ワクチン効用力の減少〉と言ってすまされるものではなく、むしろ〈ワクチンの効用力〉を共同で確保・維持していかなければならないのです。それが接種の意味するところだろうと考えています。ワクチンの効用率が100%有しないことは、誰もが認めるところです。しかし、それを市民が共同で取り組むことによって実効力を高めることは可能でしょう。素人考えですが、ワクチンとはそういうものだと思います。
2週間前から、私たちが勤務していたカッセル郊外の接種センターが再オープンしました。当然の成り行きです。7~8月段階で既に見込まれていたところです。解体せずに残しておいたのは、的確な判断でした。
それを受けて、私たちのところに志願要請が来ています。連れ合いは、昨日11月22日、また勤務についてきました。接種希望者が列を連ね、センター近辺は車の通行が数百メートルにわたってストップされ、上空には警備のヘリコプターが徘徊し、彼女がミーティング時間に遅れてやっとセンターに着いたと思ったら、センター入り口には長蛇の列ができていたといいます。寒空の下で1時間近くの待ち時間ですが、それでも何一つ愚痴をこぼさず、受付順番の来るのを待っていたといいます。年配者の姿が思い浮かべられます。
1チームで約100人近くの接種を済ませ、疲れ果てて家に帰ってきました。一方で満足しながら、他方で第1回目の接種者が5人でしかなかったことに落胆しています。ほとんどは〈第3回目接種〉希望者で、その状況を彼女は「ブースター・ヒステリー」と表現します。
今後18歳以上の年齢層へのブースターと、12-17歳の子どもたちへの接種が予定されています。
そして、近い将来に考えを改めるだろうと推測される不安者・猜疑者への接種が進めば、合わせて10%の接種率が予測され、現在のドイツの2回目接種率は約70%ですから、希望的観測として最終的には80%が可能になるでしょう。
つまり20%前後が頑強な接種拒絶者数として残ることになり、それゆえに、今最も必要な第1回目接種者の少なかったことに落胆することになりました。
今後、状況がどう変化していくのかを、見守る必要があります。
接種が遅れ、拒否されている議論の決定的なポイントは、〈個人の自由〉という基本権をめぐっています。接種を受けるか、受けないかの判断は、〈個人の自由〉に属することで、他人=国家から強制される義務はないと要約できるでしょうか。確かにそういわれれば、「そうだ!」と答えるしかないのです。が、問題はその個人の自由が、年配者、病弱者、子どもの感染を広げ、死亡者数を高め、病院の集中治療用ベッドを逼迫させている現実に直面すれば、〈個人の自由〉という意味を考え直し、こうして〈連帯〉の必要性が呼びかけられていきます。この2極にドイツの議論がわかれ、抜け道なく堂々めぐりを繰り返してきたように思われてなりません。
そしてこの論点には左派、リベラル中間派、右派の区別がありません。反接種、コロナ規制反対で、あらゆる政治潮流が合流できる結節点になっています。
そこから〈自由〉と〈連帯〉が、はたして相反する対立関係にあるのだろうかというのが、実は私の個人的な問題意識になっていました。具体的にいえば、〈個人の自由〉を承認しながらも、では、なぜ自分はコロナ規制反対の集会に参加せず、逆に接種を受け、対抗デモに参加してきたのかへの回答を見つけ出すことでした。
自由、そして自由という概念は、歴史を振り返れば数百年の長きにわたる人民の闘争の歴史でした。人民の流血と屍が刻まれた闘争の歴史によって勝ち取られてきた人間の権利でしょう。それによって市民の(普遍的な)平等が実現されたと思います。この闘争の過程で人民の連帯が生み出され、連帯が個人の自由を実現し、確保したのだと理解できるのです。
したがって、個人の自由が他者の自由を侵害するときには、〈私〉個人の自由に制限が加えられ、他者の自由が保障されなければならないはずです。それが連帯の意味するところだと思うのです。
そうした歴史的な背景を捨象した〈個人の自由〉とは、単なる用語・理論の誤用であるばかりではなく、極右派、謀略論者、QAnon信者などは、民主主義用語を意図的に使用することによって、彼らの本質的な陰謀と謀略を隠蔽、カモフラージュしようとしているにすぎないのです。これを〈誠実な〉理論論争と解釈で対抗しようとしてもまったく意味のないことで、むしろ彼(女)らの術中にはまってしまうだけです。なすべきは、そこに隠された「陰謀と謀略」を暴き切ることだと思います。
そればかりではありません。その組織論も、ロシア革命以降今日まで左翼理論から忠実に「学んで」いる点を見逃してはならないでしょう。その輪郭のでき上がってくるのが、1920年代初頭のワイマール共和国時代と判断して間違いないように思います。(注)
フランス、アメリカの例に見られるように、従来、左派に投票していた労働者層が、なぜ、極右派に抵抗なくなびいていくのかという背景は、表面的にははっきりした違いを見いだせない極右派の運動・組織構造に巧妙に包み込まれた「陰謀と謀略」を見抜けないことにあると断定していいように思われます。
(注) Die autoritaere Revolte–Die NEUE RECHTE und der Untergang des Abendlande von Volker Weiss
最後に、ではそれを見抜く力とはないかということになりますが、そこに〈連帯行動〉の重要な意味があるといえます。上述したように連日、ドイツでは「連帯を!」とアピールされています。まったく正しいのですが、しかし、どこかもどかしいのです。肉薄してこないもどかしさを感じてしまうのです。
この問題を具体的にポルトガル、スペイン、イタリアの体験から検討してみます。
2年前にヨーロッパがコロナ感染に見舞われたとき、イタリア、スペインでは多数、実に多数の市民の命が奪われました。その模様はTV、メディアで報道されていました。加えて中国、アメリカ、さらにその後はブラジル等からの映像で、コロナ感染は1国に限られるものでなく、国境を越えてどこでも、誰もが当事者になりうることを教えていました。この受け止め方が、現在の、とりわけヨーロッパとドイツの決定的な違いとなって現われていると思われてなりません。
当時、ドイツは他国と比べて感染拡大を比較的に低率で切り抜け、その安心感から「あのようにはなりたくない」というような感情を持っていたのは確かなところで、そこにあった生命、人間存在の本源的な問題を理解するまでの深いとらえ返しのなかったことが、昨年、そして今年の夏、また秋の休暇期の行動様式に見てとれるところです。この同じことの繰り返しが、2年間続いてきているのです。
他方、イタリア、スペイン、ポルトガルで家族、親族、友人、同僚等を医療関係者の奮闘にもかかわらず亡くした人たちは、コロナ感染の重大さ、悲惨さを骨身に刻んで知っています。人の命の奪われることの意味を実際に体験しています。スペインでは1918年の「スペイン風邪」の体験が重なります。
この国でワクチン接種率がEU内でトップの位置を占めるのは、人の生命が防衛されるためには、社会の共同の取り組みが必要であることを、歴史的な、そして現実的な体験から知り尽くしているからです。
それを〈学ぶ〉ということが、連帯の意味するところだと思います。
振り返って、ドイツにそうした連帯が形成されず、夏以降 接種率が停滞し、それによって社会が分裂していく傾向を示すのは、簡単に言ってしまえば、〈人=他人の命〉を尊重できず、他人事にし、無関心に無視しているからです。
〈彼(女)たち〉と〈われわれ〉は、「免疫システムが違うのだ」という意識です。ここにもトランプが1人ではないのを見ることができます。これを解釈すれば、「私は、強い免疫システムを有しているので、健康な身体には感染する恐れがない」となり、私たちの周りでもこう発言する人たちのいかに多いことか。
その彼(女)たちが感染して病院に運ばれれば、現在その率が全コロナ患者の80‐90%といわれ、緊急手術の必要な通常患者、あるいは2回の接種を受けながらも感染した軽症患者のベッドを奪い取り、占領することになります。各病院では、通常の手術が延期され、基礎疾患を持つ患者への定期的な診断・治療も制限され始めました。
「個人の自由」、「個人の権利」というものが、はたしてこうした現状の中で、どういう意味を持つのか。
何が問われているのか? 他人の死を含む苦境、苦闘に対する共有と共感、それを感じ取る感情、感性だと思われます。そこでの判断が連帯を可能にすることは、スペイン、イタリア、ポルトガル3国の現状が教えているところです。少なくとも私たちは、そう理解しています。
「個人の自由」と「基本権」を獲得するために歴史的に闘争の中で培われてきた連帯とは、共生・共存の社会をつくりあげるということでした。
自分の描いた理想社会を実現するためにではありません。
クリスマスが近づいてきています。
人それぞれに休暇計画を持っているのでしょう。世界的な傾向として、接種証明なしに自由に移動ができなくなりました。そこで、今になってようやく、少なからぬ第1回目の接種を希望する人たちが名乗り出てきています。その理由が、
「旅行したいから」というもの。
これが、接種を拒否するドイツ人の「個人の自由」、「個人の権利」というものへの認識です。感染被害者への視線は、完全に失われているのです。
このドイツの傾向はオーストリア、スイスにも認められます。なぜ、このドイツ語圏3国にという議論も始められていますが、それについては、別の機会に触れることにします。
私もまた、接種センターに再登録しました。詳しい現状は、また追って報告できるでしょう。
(つづく)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion11532:211130〕
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