二十世紀文学の名作に触れる(20) 『万延元年のフットボール』の大江健三郎――体制批判を貫く良心的な社会派作家
- 2022年 1月 8日
- カルチャー
- 『万延元年のフットボール』大江健三郎文学横田 喬
大江健三郎さんは、誰もが知るノーベル文学賞受賞の現存する大作家だ。若くして文壇にデビューし、芥川賞受賞の学生作家として名を上げる。「ヒロシマ」「オキナワ」など重いテーマに関心が深い社会派として知られ、護憲運動のリーダーとしても活発に活動した。私は彼とは大学で同窓(東大仏文科)であり、主任教授の故・渡辺一夫先生から共に指導を受けた縁がある。
渡辺先生は大江さんがゆかり夫人と結婚する折に仲人を依頼され、作品の中にも度々「恩師のW教授」として登場する。ラブレーなど仏ルネサンス文学の実証的研究を確立し、フランスの文学賞や読売文学賞・朝日賞などを受けた碩学だ。不肖私も先生には随分可愛がって頂き、仏文科の懇親会などで盃を交わし合う親密な仲にもなり、望外な幸せだった。本郷の蕎麦屋の酒席だったか、大江さんが少し遅れて参加。「NHKで貰ったんだけど」と謝礼入りの封筒を幹事にそっくり渡す場面に偶々居合わせ、気前の良さに感心した覚えがある。
学生作家の大江さんは1957(昭和三二)年に文壇的デビュー作の『死者の驕り』を、翌年には芥川賞受賞作『飼育』や長編の『芽むしり仔撃ち』などを立て続けに文芸雑誌に発表する。私はそれらを読むたびに心底強いショックを受けた。文体や言語表現に天性的なみずみずしさが光り、監禁~拘束状態に置かれる人間の閉塞感という共通するテーマにも強い共感を覚えたからだ。持って生まれた才能の違いは恐ろしい、とつくづく羨ましかった。
彼は35年1月、愛媛県喜多郡大瀬村(現内子町)の商家に生まれた。姉と兄が二人ずつ、妹と弟が一人ずつの七人きょうだいの三男。家は祖父の代までは伊予大洲藩の下級武士だった。旧大瀬村は県庁所在地・松山市から三〇余㌔南方の山村で、四囲を険しい山岳や丘陵に囲まれる人口三百人弱の谷間の小集落だ。
子供のころ、家の使用人の老女が明治初めに「谷間の村」で突発した一揆話をもごもご語って聞かす。変革をめざす決起は官憲が介入~鎮圧され、あえなく挫折する。健三郎少年は老女の語り口を真似て、遊び友達などを前に生き生きとより巧妙に一揆話を披露し始める。『万延元年のフットボール』など後年の作品に頻出する「谷間の村の一揆譚」の芽生えだ。
国民学校(今の小学校)五年の45年8月に敗戦。一か月後、彼は急に不登校に陥り、大きな植物図鑑を携え、来る日も来る日も独り森の中で過ごす。戦中の皇国教育は一八〇度転回し、急造の「民主主義教育」へ衣替えする。教室で学ぶ意欲が失せた彼の胸中は、一学年下の私にもよく判る。私の場合、教師~大人不信はこの醜怪な「衣替え」に発している。
秋の半ば、強い雨で土砂崩れが起き、森に取り残された彼は発熱~行き倒れに。翌々日、村の消防団員が発見~手当てを受け、命を取り留める。彼の諸作品に「森」が神秘的~畏怖すべき存在として登場するのは、この原体験ゆえか。翌々年、誕生したばかりの新制中学へ進んだ直後に新憲法施行。感性の瑞々しい時期に「反戦」「平和」「民主」の理念を感受する。
彼は60(昭和三五)年に高校時代の親友・伊丹十三(俳優・映画監督)の妹ゆかりと結婚。三年後、長男・光が誕生するが、不幸にも重い頭蓋骨異常を抱え、知的障害を抱えての出産だった。親としての懊悩はいかばかりだったか、想像に余りある。
光の誕生から間もない同年夏、彼は原爆被災地・広島を初めて訪問する。翌年も広島を歴訪し、月刊誌『世界』にルポ風のエッセイ「ヒロシマ・ノート」を連載し始める。原爆投下によるヒロシマの受難は「アウシュヴィッツを超えるほどの悲惨さでありながら、国際政治のマキアべリズム故にか、決して十分に知られているというわけにいかない」と彼は記した。
65年に初めて米軍施政下の沖縄を訪ねて以来度々彼の地へ渡り、70年にそのレポート『沖縄レポート』(岩波新書)を著す。沖縄の人々が取り組む苦渋に満ちた反戦の闘いを熱い共感をもって受け止め、「本土とは何か」「日本人とは何か」と根源的に問いつめ、独特の晦渋な口調でこう記す。「今日の日本の実体は、沖縄の陰に隠れて秘かに沖縄に属することに依ってのみ、今かくの如く偽の自立を示し得ているのだ、と透視されるであろう、と」。
知的障碍児の長男・光誕生の翌64年に著した小説『個人的体験』(新潮社)は疑似私小説ともいうべき構成をとる。障害児を持つ父親「鳥(バード)」が様々な精神的遍歴の末、想像力の助けによって現実と向き直るに至る経過を描き、新潮社文学賞を受ける。以後、障害児との共生を主題とする作品が増えてくる。
73年に発表した長編『洪水はわが魂に及び』(新潮社)は、「障害児」と「森」と「核状況」を重要なファクターとして設定。東京郊外の森の麓の「核シェルター」に「白痴の息子」と自閉する主人公は首都崩壊を予知。脱出を夢見るが、曲折の末に反社会的集団と手を結び、機動隊を前に自壊していく。私は70年前後の東大安田講堂事件や連合赤軍の浅間山荘籠城事件を連想。感性が鋭敏過ぎ既成秩序と折り合えぬ「未熟児」たちへの挽歌、と解した。
閉鎖的状況での革命的反抗を描く手法は、前編で紹介した『万延元年のフットボール』も同じ。当時最年少で谷崎潤一郎賞を受け、強い社会的反響を呼んだ。ただ書き出しの辺りの文章が回りくどく難解で読み進むのに閉口し、悪文の典型ではと私は感じた。だが、この彼独特の表現手法が後年のノーベル文学賞受賞の折に、「近代の標準的な日本語の東京方言に対抗し得る「(散文)詩的な言語」として評価されるから面白いものだ。
周知の通り94(平成六)年、彼は川端康成以来二六年ぶりの日本人二人目としてノーベル文学賞を受ける。受賞理由は「詩的な力によって想像的な世界を創り出した。その世界では生命と神話が凝縮され、現代の人間の窮状を映す摩訶不思議な情景が描かれている」。
ストックホルムでの晩餐会基調講演で、彼は前回・川端の講演「美しい日本の私」をもじり、「あいまいな日本の私」と題して、
――(川端の言う)「美しい」という概念はvague(曖昧)で実体不明な神秘主義に過ぎない。私は日本をambiguous(両義に取れる、曖昧)な国として捉える。
と述べ、「前近代・日本と近代・西洋ふうに引き裂かれた国」としての日本を語った。
「社会参加」を信条とする彼は2004(平成一六)年、憲法九条の「戦争放棄」の理念を守ることを目的として加藤周一・鶴見俊輔両氏らと共に「九条の会」を結成し、全国各地で講演会を開催。15年にはジャーナリスト鎌田慧氏と連名で記者会見し、原発再稼働反対を表明する。「今、日本は戦後最大の危機を迎えている」と説き、強権的な「アベ政治」の在り方に強い抗議の念を表した。
爾後の「森友」「加計」「桜」等々の一連の疑惑をめぐる安倍・菅政権の悪質な欺瞞~居直りに対し、彼はさぞかし怒り心頭の思いだろうと推察する。
私も欺瞞がまかり通る時代風潮に我慢がならず、せめて一矢をと一昨年秋、『反骨のDNA――時代を映す人物記』(同時代社)という書物を上梓した。登場人物(三六人)のトップ・バッターが大江さんで、内容に誤りがあってはと懸念し、事前にご自宅へ原稿を送付した。折り返し返信があり、「御配慮を頂きましたが、訂正を願いたいところはありません」と丁重な文面。お人柄が偲ばれ、はなはだ恐縮した。ペンの文字は一字一字が大きく躍動的で、いささかやんちゃな気配さえ漂う。この大作家の個性を考える上で、真に参考になった。
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