モンゴル人の悲劇、それはどうやって生まれたか
- 2022年 1月 12日
- 評論・紹介・意見
- 『草はらに葬られた記憶』モンゴル阿部治平
――八ヶ岳山麓から(357)――
日本では、モンゴル人といえば大相撲の力士である。日本軍がかつて中国東北、モンゴル人地域で我物顔にふるまった歴史を思う人はごくまれである。
むかし、チンギスハンの大帝国を作り上げたモンゴル民族は、現在おおざっぱにはロシア連邦シベリアのブリアート、モンゴル国(外モンゴル)のハルハ、内モンゴルの諸部族に分かれている。外モンゴルは1922年ソ連赤軍の支持を得て中国からの「独立」を遂げた。だが、現在でもいずれの土地のモンゴル人にも統一国家への潜在的な希望がある。これを中国では「三蒙統一」といい、ロシアなどでは「パンモンゴリズム」といって弾圧の対象としてきた。
1920年代から内モンゴルでは外モンゴルの独立に刺激され、外モンゴルとの統一、あるいは高度の自治を求める民族主義運動が起こった。
ここでは、これに対して1930年代から日本人が何をどうしたかということ、それをモンゴル人の立場から見るとどうなるか、モンゴル人にどのような累を及ぼしたかということを書いた本を紹介したい。
まず簡単に歴史を振り返ってみよう。
日本が第二次世界大戦に敗れるまで13年間、中国東北には日本関東軍が支配する「満洲帝国」という国家があった。1931年9月日本関東軍は瀋陽郊外の柳条湖で満州鉄道を爆破して一気に中国東北を占領し、32年3月清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を担ぎ出して、傀儡国家「満洲帝国(以下満洲国)」をでっち上げた。
当然のことながら満洲国は日本関東軍に操られていたが、外モンゴルも当時はソ連・コミンテルンに完全に抑えられていた。関東軍は対ソ連戦略のために、諜報・宣撫工作・対反乱作戦・秘密作戦などを行う特殊軍事機関を設置して、その本部をハルビンにおき、満洲国の領土外にもその出先機関を侵出させた。フルンボイル盟の西隣シリンゴル盟(盟は省の下の行政区)、貝子廟(ベイズミャオ、現シリンゴル市、貝子廟は本来仏教寺院)に置かれたアバガ特務機関はその一例である。
シリンゴル盟はソ連の極東部隊が進駐している外モンゴルと国境が接している。内モンゴル人の「対日協力者」は、この特務機関によってゴビの向こうの外モンゴル情勢を探る先兵として使われた。
余計な話だが、わたしは1997年モンゴル馬と日本在来の木曽馬の比較研究をしている獣医らとともに、アバガ特務機関の置かれた草原の町シリンゴルに行ったことがある。このとき貝子廟はかなり破壊されていて、その修復中であった。責任者らしい人が「ほかに資料がないから長尾雅人先生の『蒙古喇嘛廟記(もうこらまびょうき)』によって修復している」と長尾氏の本を私に見せてくれた。長尾氏は仏教学者としてモンゴル人地域の仏教調査をし、貝子廟の遺構を詳細に記録したのであるが、著書のなかで日本軍人の立ち居振る舞いを嫌悪感をもって記している。
シリンゴルの特務機関については、すでに岡村秀太郎・内蒙古アパカ会共編『特務機関』(国書刊行会 1990)が出版されている。特務機関で働いた日本軍人の回想録である。
ミンガド・ボラグ著『草はらに葬られた記憶』(関西学院大学出版会 2019)は、上記の著書『特務機関』への事実上の反論として、シリンゴル盟に置かれた特務機関と、それにかかわったモンゴル人の過去と今日を、今に生きるモンゴル人に語らせたものである。
この本には「日本特務―日本人による『内モンゴル工作』とモンゴル人による『対日協力』の光と影」という副題がついている。しかもその「帯」にこうある。「「日本人よ、宗主国の国民らしく、モンゴル史に直面せよ」と。
さらに「二度と戦争をしてはいけない」「多くの同志たちを異国の土に失った」「平和ほど大切なことはない」という我々日本人の言葉を引用して、「戦後74年の歳月が過ぎても、毎年のように繰り返される常套句!そこには現地の人々への感謝の言葉は一つもない。日本の植民地だった内モンゴル人が戦中と戦後にたどった過酷な歴史がここにあり」という。
著者ミンガド・ボラグ氏は自著についてこう説明している
「本書はそれらの機関に直接または間接的にかかわったモンゴル人の回想を、史実に照らし合わせて解説を加えたドキュメンタリーである。誤解をおそれない言い方をすれば、本書は日本が内モンゴル草原に残した負の遺産を背負って生きてきたモンゴル人の人生ドラマである。
というのは、のちの文化大革命時、彼ら全員が日本のスパイを意味する『日本特務』や、売国奴を意味する『日本帝国主義の走狗』として吊るし上げられ、その負の連鎖は今なおつづいている。よって本書における『日本特務』には二つの意味がある。ひとつは日本と満洲国に直接的にかかわることによって生まれた『日本特務』であり、もうひとつは文化大革命中、中国人によって着せられた濡れ衣の『日本特務』である」
二つのうち、前の「日本特務」は日本敗戦ののち国民党政権、ソ連軍、その後の共産党政権によって「対日協力者」として断罪されたモンゴル人のことである。あとの「濡れ衣」は、主として文化大革命期に起きた捏造事件「内モンゴル人民革命党(内人党)事件」の犠牲者を指している。内モンゴルのモンゴル人約135万(1964年)のうち、「公式」には1万6222人が虐殺され、34万6000人余が迫害されたという。中国からの独立を企てたとしてこの人々に加えられた弾圧・拷問は、鋸による股裂きなど陰惨、酸鼻極まるものであった。
本書の第一章では、著者の一族が「日本特務」となった経緯が語られる。第二章はソ連情報収集の前線であったウジムチン草原のラマ・イン・クレー寺の特務機関の「仕事」と、それとかかわりのあったアヨシという人物の回想録である。第三章は同じくボンソグの回想によって「日本協力者」の悲惨な運命を描く。第四章はアバガ特務機関の西ウジムチン分機(分所)の使用人の娘シルとその夫の回想録である。第五章は、著者の故郷である貝子廟の特務機関の活動や、1945年対日参戦をしたソ連軍の悪行を述べたものである。第六章は日本軍車輛の運転手の回想である。
本書に登場する人物はこういっている
「私からすれば、日本人はある日、突然家に入ってきていろいろ指示をし、まるで家族の一員のように振る舞っていたが、いつの間にかいなくなっていたという印象しか持っていない。あの時の日本人がいれば是非聞きたい。あなたたちはいったい何をしにこの草原に来たのか」と。
先に1939年の「ノモンハン事件」に関する鎌倉英也氏の著書を紹介したが、そこでも明らかなように、わが日本人はモンゴル人の土地でほしいままに振舞い、「大東亜戦争」の敗戦とともに「対日協力者」を顧みることなく、「あとは野となれ山となれ」とばかりに引揚げた。
今日ニュースによると、アフガニスタンでタリバン勢力が首都に迫ると、日本の外交官らは日本関係の仕事をしていたアフガン人を見捨てて脱出したという。わたしは、わが民族のこのみっともなく罪深いやりかたがまた繰返されたかと残念でならなかった。(2022・01・05)
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〔opinion11655:220112〕
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