横井庄一さんは旧陸軍の戦陣訓に縛られていた 帰国から50年、改めて問題の本質を考える
- 2022年 2月 1日
- 時代をみる
- 岩垂 弘戦陣訓日本陸軍横井庄一
1月24日付の朝日新聞夕刊に目をやった途端、思わず「あれから50年か」とつぶやいてしまった。社会面のトップに「不屈の心 横井さんのように」「元日本兵『発見』50年」という見出しの記事が掲載されていたからだが、なぜ私がこの記事にこうした反応を示したかと言えば、太平洋の米領グアム島のジャングルに潜んでいた横井さんが1972年の1月24日に救出された時、日本から最初にグアム島に駆けつけた記者団の1人が私だったからである。記事は、絶海の孤島の密林の中で28年間も生き延びた横井さんの「生きる力」を讃える女性たちの声を伝えていたが、私の中では、それとは違う視点からも横井さんの帰国問題を改めて考えてみる必要があるのでは、との思いが募るばかりだ。
愛知県出身の陸軍軍曹、当時57歳だった横井さんが、グアム島南部で地元住民に「発見」されたのは1972年1月24日の昼間だが、このニュースが日本に伝えられたのは同日深夜だった。新聞各社は大騒ぎとなり、その取材のため、翌25日午前10時45羽田発のパン・アメリカン航空の803便に自社の記者を乗り込ませた。これが、この日のグアム向け航空便の第1便だったからだ。
これに乗り組んだのは朝日、毎日、読売、東京、中日5社の記者とカメラマン。いわば、日本人記者団の第一陣であった。「朝日」から加わったのが、当時、東京本社社会部にいた私と黒川弥吉郎写真部員だった。
航空機がグアム国際空港に着いたのは午後3時。私たち日本記者団は現地の日本名誉領事に横井さんへのインタビューを申し入れたが、現場検証のために警察と病院関係者とともに密林に出かけているとのことで、長時間待たされた。結局、日本人記者団を含む内外記者団に対する横井さんの会見がグアム第一ホテルで始まったのは同日午後10時過ぎだった。一問一答形式の会見は1時間余に及んだ。
会見で、横井さんはよくしゃべった。生い立ち、両親のこと、徴兵されてからの軍隊生活、グアム島に上陸してきた米軍との戦闘、日本軍玉砕後の逃避行、そして、密林の中での穴居生活とその日常……。どれもこれも衝撃的な内容だったが、とくに私の心をとらえたのは、次の一問一答だった。
記者団「(米軍から)スピーカーで降伏を呼びかけられても、どうして出てこなかったのですか」
横井「こわいから出てこない」
記者団「こわいってどういうことですか」
横井「日本では昔ね、子どものときから教育を受けているでしょ。大和心で花と散れ。そういうように教育を受けていますよ。散らなきゃ、こわいです」
横井さんが、心にもないことを言っているとは思えなかった。それだけに、横井さんの答えを聞いて、とっさに私の脳裏をよぎったのは、あの戦陣訓の一節であった。
戦陣訓とは「一九四一年(昭和一六)陸相東条英機の名で、戦場での道義・戦意を高めるため、全陸軍に示達した訓諭」(大辞林)である。その「本訓其の二」の「第八 名を惜しむ」に「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」とある。
横井さんが米軍の投降呼びかけにもジャングルから出ていかなかったのは、子どもの時からたたきこまれた「大和心で花と散れ」という国家的な訓告に横井さんが呪縛(じゅばく)されていたからなのだ。私は、そう思った。
「大和心で花と散れ」とは、日本男児たるものは、戦場にあっては捕虜になるよりも死を選べ、ということである。別な言い方をするならば、「生きて虜囚の辱を受けず」ということだろう。要するに、横井さんを長期間にわたってジャングルの地底の穴に閉じ込めていたのは、戦陣訓にそむくことへの恐れだったのだ。戦争が終わって28年にもなるのに、グアム島では、戦陣訓がなお生き続けていたのだ。私はそう思わずにはいられなかった。
こうした思いをさらに深くしたのは、2回目の記者会見だった。横井さんは「日本に帰ったら、天皇陛下にお会いしたい。でも会えんでしょうな。でも私が天皇陛下のために、天皇陛下を信じ、大和魂を信じて生き続けてきたということだけはお伝えしたい」と語り、さめざめと泣いた。
それから間もない2月2日、横井さんは31年ぶりに故国の土を踏んだ。羽田空港まで出迎えた斎藤厚生大臣と堅い握手を交わした横井さんは、出迎えの人たちに手を振って帰国第一声を発した。それは「恥ずかしながら帰ってまいりました」だった。
これはその後、流行語になるほど人々の口の端にのぼったが、私は、「恥ずかしながら」という表現にどんな思いが込められていたのだろうかと考え続けた。その結果、横井さんがまず「恥ずかしながら」と口にしたのは、おそらく、「大和心で花と散ることが出来なかったこと」、つまり戦陣訓の訓諭に応えられなかったことに対する自責の念が、横井さんの心底に沈潜していたからではないか、と思うようになった。
横井さんの帰還は当時、日本国民に衝撃を与えた。私の印象では、衝撃を受けた国民の受け止め方には、おおまかに言って二通りあったと思う。
1つは、横井さんの半生は軍国主義がもたらした悲惨さの象徴だ、との受け止め方だった。横井さんが、「天皇陛下さまにお返ししたい」といってジャングルから持ち帰ったボロボロの38式小銃を見た時、多くの人たちは、軍国主義時代の教育がいかに強力なものであったかを思い知らされた。そして、人々はそろそろ忘れかけていた戦争の恐ろしさを改めて思い起こしたのである。
もう1つは、横井さんの半生は人間の生きる能力の限界に挑戦したものだ、という受け止め方だった。28年に及ぶジャングルの中での穴居生活。しかも、食べ物から身につけるもの、そして住まいまで完全な自給自足生活。それは、まるで現代のロビンソン・クルーソーのように受け止められた。このため、暖衣飽食に飽き、肥満に悩む一部の日本人は、横井さんの生き方に多大な関心と興味を抱いた。横井さんは「耐乏生活評論家」として講演にひっぱりだこになる。
新聞・テレビでは、後者の視点での報道が多かったように思う。横井さんは「現代のロビンソン・クルーソー」として、持ち上げられ、もてはやされたのである。だが、私は、前者の視点で原稿を書いた。横井さんの帰国を挟んで、朝日新聞社は、グアム島に特派された記者たちによる連載を掲載したが、私はその中でこう書いた。
「歴史を忘れた民族は歴史によって復しゅうを受ける、とは中国文学者竹内好さんのことばである。過ぐる戦争で軍人、民間人合わせて約50万の日本人が太平洋で戦没した。南洋の島々のジャングルのなかに、まだ多くの遺骨が野ざらしになっている、との声も聞いた。戦争はまだ終わっていないのだ」
横井さんの救出をきっかけに日本国民は今こそ満州事変以降の、いわゆる「十五年戦争」の歴史をきちんと総括すべきではないか、すなわち「十五年戦争」はいかなる性質の戦争であったかを戦争責任の所在も含めて国民自身の手で明らかにすべきではないか。それを怠ると、私たちの国は再びかつてたどった道を歩むことになるのでは、と問うたのである。
さて、1月24日付の朝日新聞夕刊に載った記事は、横井さんがグアム島で地元住民に発見されてからちょうど50年を迎えたのを機に書かれたもので、その内容を一言で言えば、彼の生涯を語り継ぐ活動をしている女性たちを紹介したものだ。
1人は神奈川県で整体院を営む58歳の女性で、2002年に横井さんの生涯を紹介する本『長寿満福』を出版した。海外で交通事故に遭い、脳が傷つき、耳の聴力を失うが、横井さんの、密林での困難にめげぬ生活ぶりを知り、励まされる。「若い人にこそ、横井さんの生きる力を知ってほしい」と思ったのが出版の動機という。
もう1人は、愛知県一宮市の女性(48)で、2020年に絵本『よこいしょういちさん』を出版。名古屋市にある横井さんの記念館を訪れたのがきっかけで、その生き方に強く心打たれ、子どもたちにその「生きる力」を伝えたくて絵本をつくったという。
横井さんが亡くなって25年。困難を乗り越えた横井さんの「生きる力」に学ぼうという動きが市民の間から出てきたことは慶賀すべきことと思う。が、今の時点で横井問題について考える時、そうした視点からだけの横井問題再見でいいだろうか、という思いを禁じ得ない。なぜなら、昨秋あたりから、戦後日本を支えてきた日本国憲法(平和憲法)を改定しようという動きが一段と強まり、日本は軍備を増強し敵基地攻撃能力も持つべきだと首相が公言する始末だ。今こそ、私たちは、戦前の軍国主義に呪縛されて28年も孤島のジャングルに潜まざるをえなかった日本人がいたという悲劇に改めて思いをはせるべきではないか。
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