韓国語版『思想史家が読む論語』序
- 2022年 2月 2日
- スタディルーム
- 子安宣邦
[私の『思想史家が読む論語』の韓国語版が出版されることになり、求められてその序文を書いた。]
韓国語版『思想史家が読む論語』序文 子安宣邦
『思想史家が読む論語』には二つの特色があります。一つはこの書のタイトルがいう通り「思想史家」が読んだ『論語』論であることです。くわしくいえば中国古典の文献学的研究者でもなく、儒学研究者でもなく、日本思想史家である私が読んだ『論語』論であることです。もう一つの特色は私の『論語』を読む作業は市民講座で市民とともになされたものであることです。
まず一つ目の「思想史家」についていいます。日本思想史家としての私の発言なり文章は近来、明治以降、昭和の戦争から戦後期にまで及んでいます。その幾つかはすでに韓国でも翻訳され、紹介されています。最も新しい著書は『「維新」的近代の幻想』(作品社、2020)です。だが思想史家として私の専門とするのは日本近世(江戸時代)の儒学・国学思想です。ことに伊藤仁斎(1627−1705)の古学思想には強い思い入れをもって長年親しんできました。仁斎の主著は『論語古義』です。この『論語古義』を読むことを通じて私は『論語』を知り、『論語』の読み方をも知りました。仁斎は『論語』の専門的読解者ではない私に『論語』の読み方を教えました。さらに仁斎の『論語古義』を読むためには当然朱子の『論語集注』を読まねばならず、さらに仁斎に批判的な後続する儒家荻生徂徠(1666−1728)の『論語徴』などを読まねばなりません。この思想史家としての当然の講読体験が私に『論語』と孔子の発語の本来とは何かを思い描かすに至りました。この思想史家としての私の『論語』をめぐる思想体験を自覚的にやってみようとしたのが本書『思想史家が読む論語』です。
私の『思想史家が読む論語』のもう一つの特色である「市民的立場」についても、その由来は伊藤仁斎にあります。仁斎は17世紀京都の市井の学者です。彼は町人としての身分を離れることなく、この社会的地位にあって当時最高の学問的成果をもたらしました。仁斎とは何よりも「学ぶ人」でした。その仁斎が「学ぶこと」の大先達である孔子を見出したのです。仁斎は京都に古義堂という学舎を設けますが、そこは身分に関わりなく共に「学ぶ人」の集う場でした。彼らはここで「学ぶこと」の大先達孔子の言葉と行いとを学んだのです。私はこの古義堂に習い『論語』を読む作業を市民とともにすることにしました。私の『思想史家が読む論語』は諸処の市民講座でしていった「『論語』をともに学ぶ」ことの成果を一つにまとめたものです。この市民講座とは『論語』を与えられたものではなく、市民自身のものにする大事な場であるのです。
漢字を共通の言語的遺産としてもつ〈アジア〉の市民が『論語』を共通の大事な精神的遺産として再発見していくことは、〈アジア〉の市民的再興のためにもなる大事だと考えます。私の『論語』をめぐるこの書が、『論語』のはるかに高くして長い受容の歴史をもつ韓国で翻訳し、紹介されることは栄誉でもあり、また緊張をも覚えるところです。この書の意義を見出され、翻訳の難事を引き受け、遂行して下さった金仙熙さんに心よりの御礼を申し上げます。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2020.2.1より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/87682447.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1203:220202〕
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