『津田史学の面白さと中国、朝鮮への差別意識』
- 2022年 2月 15日
- カルチャー
- 合澤 清
津田左右吉著『古事記及び日本書紀の研究[完全版]』(毎日ワンズ2020)―「総論」を繙読しての感想
つい先ごろ、矢吹晋(横浜市大名誉教授)が、「津田左右吉の中国差別」を批判する新たな論文をお書きになっているという情報を間接的に耳にして、たまたま図書館から借りだして読み始めていた津田左右吉著『古事記及び日本書紀の研究[完全版]』(毎日ワンズ2020)の問題点だけでも整理してみようと思い立った。
歴史学に素人の私などにとっては、津田左右吉という名前は、むかしむかし高校の日本史か何かの教科書に出ていた人物だという程度の知識しかなく、確か第二次大戦中に美濃部達吉の「天皇機関説」などと一緒に、軍部によって弾圧され、その著書が発禁になった学者である、という誠に頼りないものだった。いわば私の中では「過去の人=歴史上の人物」でしかなく、たんなる知識であり、今さら検討すべき歴史理論ではないと思っていたのだ。
この本を図書館から借りたのも実は偶然でしかない。友人で「西郷隆盛」を熱心に研究している人がいて、その彼との議論の素材に津田の「明治維新の研究」を活用させてもらおうと思い、そちらを借りるつもりが、あいにくの貸し出し中だったため、やむなくこちらを借りたという次第である。
津田史学への若干の前知識
たまたま手元にあって、一読していたはず(?)の古い本(『日本古代文化の成立』江上波夫、上田正昭編 毎日新聞社1973)の中で、上田正昭が「津田史学と朝鮮」という一文を書いていたのを思い出したので、さっそくこれを津田に関する予備知識のために使おうと思った。
津田が学術的な最初の著作、『神代史の新しい研究』を発表したのは大正2(1913)年であり、彼が40歳のときである。その頃津田は、満鉄の調査室(朝鮮歴史地理調査室)にいる。
上田は次のように述べる(以下、本論中のすべてのカラーやゴチックは筆者がつけた)。
≫津田史学における朝鮮という問題は注目すべき日本近代史学上の問題でもあります。津田先生のそういう仕事を検討してゆきますと、ボロが出てくる。その欠陥が出てまいります。その叙述の内容は津田先生の朝鮮に対する姿勢と決して無関係ではない。≪
≫たとえば、『朝鮮歴史地理研究』(満鉄調査室出版)の仕事のなかみには、白鳥(庫吉)博士がその序において「韓人」の「保護と誘導とが我が国民の任務」賭した視点が、やはり反映されています。実証的な注目すべき研究であるにもかかわらず、津田博士の朝鮮に対する歪んだ見方が叙述の中に出てきます。満鉄の東京支社の調査室にいたころに、津田先生の書いた日記があります。おのれを物置に巣くっている鼠のようだと自嘲して「鼠日記」と名付けられたその日記の1911年8月9日のところを見ますと、こういうことが書いてある。つまりそこにはたくさんの書籍が並んでおってカビ臭い、その「敗残の空気」のその中で、先生は鬱々と勉強していられるわけですが、その不満が書いてある。「そのなかに立っていると頭が刻々に腐蝕させられていくようである。それもその筈である。これらの書物にはチャンとヨボとの過去が記されてあるでは無いか、権謀と術数と、貪欲と暴戻と、虚礼でつつんだ険忍の行と、巧言で飾った酷薄の心とが、その幾千巻の冊子の一枚一枚に潜んで居るではないか」としるされています。チャンというのはつまり中国人蔑視の言葉です。ヨボというのは朝鮮人蔑視の言葉です。非常に露骨なことが書いてある。…そのような考えが、研究のなかみにも反映されているわけです。≪
≫同年8月22日の日記を見ますと「今日は大いに勉強した。午後になって一気呵成に12~13枚書き飛ばした。ヨボを吹き飛ばすくらいわけはない」…このような姿勢は尊敬すべき内藤湖南先生、あるいは喜田貞吉先生などの朝鮮史の取り上げ方にもあります。≪
この一文には実際には上田正昭自身の深刻な自己批判が含まれている。そしてこのような何の根拠もない民族的な優越感(ナチの唱えた「北方系アーリア人の人種的優越」と同様)を内面的な前提にしながら書きあげられた津田の古代史研究とはどんなものだったのか、この点を検討してみたいと思う。
津田左右吉著『古事記及び日本書紀の研究[完全版]』―「総論」の検討
大した分量の本でもないので、この本全体を鳥瞰し、検討することも可能であるが、取り敢えずの問題意識に鑑みて、「総論」で述べられている津田史観に焦点を当てて考えてみたいと思う。
最初に、この書の「凡例」に次の注意書きが付されている点が留目されるべきである。
≫本書には「シナ」や「北鮮」など今日では差別的と解釈されかねない表現をそのまま表記した箇所がありますが、作品の世界観を損なわないためであり、その他の意図は一切ないことをお断りいたします。なお著者が晩年、漢字をなるべく用いないこと、とくに固有名詞のカナ書きを実行した点を考慮し、例えば「アマテラス」「ツクシ」など多くを原文のままとしました。≪
先に上田正昭が指摘した点と重複している。以下、津田の原文からの引用でカタカナ書きされている箇所は、原文通りだと解していただきたい。
いくつかの問題点を掲げながら、この本を繙読していきたいと思う。
第一、「事実(史実)」という「フィクション」があるということを津田が意識している点
これはまことに慧眼だと思う。
例えば、E.H.カーが書いた『歴史とは何か』(What is History?)という岩波新書に翻訳本があるが、その第1章「歴史家とその事実」(The Historian and His Facts)の中で、カーは次のように述べている。
≫「歴史とは何か」という問題に答えようとする時、私たちの答えは、意識的にせよ、無意識的にせよ、私たちの時代的な立場(position)を反映し、また、この答えは、私たちが自分の生活している社会をどう見るかという更に広範な問題に対する私たちの答えの一部分を形作っているのです。≪
≫シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も引かないのです。≪
ここではこの問題に深入りしようとは思わないが、カーの言わんとするところは、「事実」なるものが、われわれの外部に、絶対的に、それ自体で存在するという考えは、実はそれ自体一種の「(共同)主観性」でしかないということである。つまり、事実の相対性を述べているのである。
そして、津田はこういう立場から、新井白石や本居宣長の「記紀解釈」を批判しているのである。津田左右吉がすでにこういう考え方に達していたこと、これはすごいことだと思う。ただし、残念ながら津田の追究はこれ以上には進んでいない。
また、古代という未発達社会では、自己の家系(万世一系の天皇家のように)を権威づけるため、家柄を神話に結び付けて述べようとする傾向が非常に強かったということ。これはギリシャ・ローマ神話やホメロスの世界(『イリアス』『オデッセイア』)、プルターク英雄伝などを読んでもよくわかる。あるいは中国の古代史なども同様であることを勘案すれば、これは未開社会においては、世界共通のことなのかもしれない。
≫しからばわれわれは、こういう非合理な話を如何に考えるべきであるか。第一には、そこに民間説話の如きものがあることを認めるのである。人の思想は文化の発達の程度によって違うものであって、決して一様でない。上代人の思想と今人の思想との間には大いなる徑庭がある。民間説話などは、そういう未開人の心理、未開時代の思想によってつくられたものであるから、今日からみれば非合理なことが多いが、しかし未開人においては、それが合理的と考えられていた。…それは未開人の心理上の事実であって、実際上の事実ではない。だからわれわれは、そういう話を聞いてそこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。…また人の思想は、その時代の風習、その時代の種々の社会状態、生活状態によってつくり出される。したがってそういう状態、そういう風習のなくなった後世において、上代の風習、またその風習からつくり出された物語を見ると、不思議に思われ、非合理と考えられる。…だからわれわれは、歴史の伝わっていない悠遠なる昔の風習や生活状態を研究し、それによって古い物語の精神を理解すべきなのである(pp.16-8)≪
≫だからわれわれは、今日のわれわれの日常経験に背いている非合理な、事実らしからぬ記紀の物語を読むにあたって、それを強いて合理的な事柄の記されているものとして見るべきではなく、その本分をそのままに読んで、そうして、そういう物語が人のいかなる心理、いかなる思想から生じたか、何故にそういうものが世に存在するか、いかにしてそれがつくられたか、またいかにしてそれが記紀にあらわれるようになったかを考え、本文のままでその意味を研究すべきである。(p.20)≪
このような立場から津田は、神話や伝説、伝承が生まれた時代の、未開時代の人々の内面性、心理状態に目を向けるべきだという。つまり、≫比較解剖学と比較言語学との力によって体質と言語とを明らかにし、民族の場合には、それに加えるに民族の存立の基礎をなす生活上の根本条件、民族の殊別(区別)に関係の深い種々の文化現象の研究をもってすべきである。≪
これも極めて革新的な考え方だったように思う。
第二、『古事記』と『日本書紀』の内容の位相の差異に注目していること
『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999)という本の中で、著者の森博達は、『日本書紀』編纂への経過を次のように説明している。
≫天武天皇は壬申の乱で近江朝廷を滅ぼした。絶大な権力を掌握し、専制的中央集権国家を作ろうとした。天武は律令と国史を車の両輪と考え、両者の編修事業に着手した。まず天武10年(681)2月25日に律令編修の詔勅を下した。続いてその22日後の3月17日、川島皇子以下12名に詔して、「帝紀」と「上古諸事」を記定させ、中臣連大島と平群臣子首に筆録させた。これが書紀の撰上に結実する修史事業の始まりであった。
持統3年(689)6月29日、「浄御原令」が班賜された。その10日前、唐人の続守言と薩弘恪が賞賜された。両名は唐朝の正音(唐代北方音)に通暁し、最初の音博士を拝命した。両名が書紀を撰述することになった。
古代の最大の画期は雄略朝であり、その次が大化の改新であった。続守言が巻14「雄略紀」からの述作を担当し、薩弘恪が巻24「皇極紀」からを担当した。しかし、続守言は巻21「崇峻紀」の終了間際に倒れた。薩弘恪は、「大宝律令」の編纂にも参画し、多忙を極めた。巻27までの述作を終了していたが、文武4年(700)6月17日の奉勅後まもなく卒去した。
こうして文章学者の山田史御方が、撰述の担当者に選ばれた。この頃、書紀の編修方針に大きな変革が起こっていた。神代から安康までの撰述の必要が生じたのだ。御方には唐に留学していなかったため、漢文を正音で直読する能力がなかった。結局β群は、基本的に倭音と和化漢文で述作されることになった。(pp.226-7)≪
著者の森がこの本の中で述べたい主旨、この点が画期的なのだが、は次の点にある。
≫α群は、中国原音(唐代北方音)によって仮名が表記されている。また文章は基本的に正格漢文で綴られていた。β群に比べて倭習ははるかに少ない。しかもα群の漢語・漢文の誤用には正当な理由があった。α群の誤用は、原則として引用文と後人による潤色・加筆部分にかぎられている。そしてα群の奇用は原史料の反映である。α群は本来、原史料を尊重しつつ中国語で述作されたのだ。(p.226)≪
そして驚くことに、ここで森博達が書いていることは、事件の経過などを別にすれば、ほぼ津田史観に当てはまるのである。ただし次の津田の主張は、まだ多分に中て推量の域を出ていないため、よほど慎重に検討されなければ、「日本国家主義」というナショナリズムに陥る危険をはらむものと思う。実際に津田自身、この種のドグマに陥っていたとみなしてもよいかもしれない。
つまり、津田によれば、大陸から漢字が入ってくる以前に、日本には独自の言葉と独自の文字があった。それが『帝紀』や『旧辞』あるいは地方の神話や伝説などを伝えてきた大本であると言うのだ。百済を経由して日本に漢字が移入されてきたが、まだ日本人は漢字や漢文にはまったくなじめていなかった。それ故、最初に漢字を使って書かれた『古事記』には、日本語標記を無理やりに漢字に移している箇所が多々見受けられる。しかし『日本書紀』になると、この辺の事情は一変して、精確な漢字表記を軸にして、部分的にまだ旧来の日本語標記(発音をそのままにして漢字を当てはめたもの)を残すものとなっているからだ、と言うのである。
以下、津田の述べる所を引用する。
≫記紀は今日に伝わっているわが国の文献では最古のものであるものの、その撰述年代は、一つは和銅5年(712年)、一つは養老4年(720年)であって、ともに8世紀に入ってからのことである。しかしそのうちには、それよりずっと古い時代の資料がとられていることは言うまでもない。その際この資料がいつごろのものであるかは研究を要する問題ではあるが、如何に古くとも、文字の術がわがヤマト朝廷において用いられるようになってからであることは、疑いがない。文字を用いていた国でヤマト朝廷が初めて接触したものは百済であるから、その時期は、百済から文字の伝えられた後であるが、それがいつであるかは考究を要する。そしてそれには、百済がわが国と交通し始めた時代を考えねばならぬ。(p.32)≪
≫ツクシ人が何故に文字を学ばなかったかというと、それはその文字が日本語とは全く性質の違うシナ語の表徴であって、表音文字でなく、したがってそれによって日本語を写すことのできないものであるのと、それが解しがたく学びがたいものであるのとの故であろう(ヤマトの朝廷でそれを学ぶようになったのは百済人の媒介があったからである)。…すくなくとも、ヤマトの朝廷において、百済との交通以前に文字が行われていなかったことは、百済人およびその頃から後に帰化した漢人が記録係として用いられたのでも知られる。(p.42)≪
『古事記』の巻頭に撰者たる太安万侶の上表が載せてあり、それによると
≫『古事記』は元明天皇の勅を奉じて太安万侶の撰録したものであるが、その直接の材料は、稗田阿礼の誦み習った帝皇の日継及び先代の旧辞である。そして、阿礼のそれを誦み習ったのは、天武天皇の詔を奉じたのであって、天武天皇は諸家の伝えている帝紀本辞(または旧辞)が区々になっていて誤謬も多いからそれを討覈(尋ね調べる)して定めよう、というお考えから、まずその準備として、阿礼に命じて帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習わされたのである。≪
津田が注目していることで面白いのは、まず上のカラー部分である。ここには編纂の過程での改変、潤色の可能性(つなぎ合わせ)が大いにありえたこと、それ故、いろんな箇所で齟齬が生まれていること、また他の場所(地方)で伝わっていた説話などが取り込まれているらしいこと、この点を津田は十分ありうることと思っているようだ。また別の箇所では、いくら勅命にしろ、だいじな国史(系図を述べた帝紀や、その行為を記録した旧辞)を一人の人間(稗田阿礼)に暗誦させて残そうとするようなことはあり得ない、と述べている。更に『古事記』の編纂はわずか四カ月という短期間でなされている点。
つまり、中国にも漢字文化以外に、四川文字やその他の文字文化圏(当然、話言葉も違っていたと思われる)があったように、日本にも独自の言語文化圏があったはずであり、その土着語で記された記録が最初にあったのではないか、と推測している(あくまで推論の域を出ていないのであるが)。
しかし、興味深い推論ではないだろうか。専門の研究者が「古代日本語」なるもの、その「文字」を見つけ出してくれることを願いたいが、いまだ未発見である。
『日本書紀』に関して、先に引用した森博達の主張に関係している個所を引用すれば、
≫官府(朝廷)の権威をもって定説を作る計画があったにしても、それによって旧記の批判ができたかどうか、壬申の乱の取り扱いや『日本書紀』の紀年が故意に造作せられたものであるということは学界の定説であり、それも特殊の目的があってのことと見なけらばならぬ、…それと同じ考えが『日本書紀』の撰修より前の撰修者において、また紀年の他の事柄について、決して起こらなかったとは断言しかねよう。(p.66)≪
≫『古事記』の文章は漢字を用いてはあるが漢文ではなく国語をそのまま写したものであるのに、『日本書紀』のはその間に漢文になっていないところが少なからずありはするが、大体は純粋の漢文になっていて、シナの成語が多く用いてあるのみならず、シナの典籍の字句をとってきて、それをほとんどそのままに当てはめたところさえも多い。神代紀の巻頭に淮南子などの文をそっくり持ってきてあることは、世によく知られているが、こういうことは至るところにある。仁徳紀と武烈紀とに、堯舜と桀紂との事跡として記されているシナのいろいろの書物の字句を写し取ってそれらを並べてあるのも、あるいは雄略天皇の勅語というものがほとんど隋の高祖の遺詔そのままであるようなのも、その例である。…『日本書紀』は全てが甚だしくシナ化せられ、至るところシナ思想をもって潤色せられている。…同じ事柄でも記紀の間に種々の差異があり、歴代天皇の年齢などもみな違っている。 (pp.86-7)≪
こうしてみると、なるほど津田史観はかなり革新的であることが判る。
例えば、古田武彦なども含めて、現在の日本の古代史学会にこの津田史観は大いに影響を与えていると思われる。周知のように、古田は、九州王朝の神話(高天原神話など)や、出雲神話など、地方の「王朝」の伝承などが、後の大和朝廷の神話を構成する大きな要因となっていると説いている。
この津田の『研究』を素直に読めば、なるほどここでは(皇室)神話が一掃されていることは明白である。例えば、第二章クマソ征討の物語の中では、ヤマトタケルが女装をしてクマソに近づいて刺し殺した、といわれる伝説を笑い飛ばしている。『日本書紀』によれば、ヤマトタケルは「容貌魁偉、身長一丈(約2メートル)」で、「鼎」を持ち上げるほどの怪力の持ち主だった、とあるからだ。
だから、彼が昭和17年に起訴有罪になったこと(昭和15年2月11日の「神武天皇即位2600年」祝祭日に津田の本は発禁となっている)は当時の事情を勘案すれば容易に理解しうる。むしろよくわからないのは、こういう研究書を書いた彼が、何ゆえに戦後は「天皇制擁護」の立場に転向して文化勲章をもらったのか、ということの方である。この点では「そうではなく、津田は最初から一貫した天皇制主義者で、日本ナショナリストなのだ」という意見がありうる。先述した、古代日本社会における独自言語圏(独自な文化圏)の協調が、その何よりの証拠だというわけである。
第三、津田の議論の中の民族差別=「中国、朝鮮半島への日本民族の優位性」
この問題で津田史観と今日の古代史研究の間で決定的に見解が異なるのは、津田が「百済」をヤマトの属国と見ている点である。あくまでも朝鮮半島は日本の下位であるという思い込みが彼の実証的な目を誤らせている。このことを時代の所為、当時の教育の所為と言って済ませてはいけないだろう。やはりその時代にあって、なおかつ時代の流れの本質を見切っていくことが重要だと思う。歴史学とはそれにうってつけの学問のはずである。
「意識はあるものに関係する(一体となる)、と同時に、それから自己を引き離す」というヘーゲルの言葉をいつも思い出す。つまり、対象化と対象の知(意識)という関係がそこにある。対象の知は、対象そのものに引きずり込まれる自己に絶えずブレーキをかけ続ける。そしてこの両者の関係全体をも絶えず反省しながら把握しようと努める。こういう、内側にありながら同時に外にあるという「神の目」に類する立場を、とりあえずは「理念」と呼びたい。
ヤマトと百済の関係は実は真逆であり、上位者である百済王が「侯王」であった倭王に下賜したものが七支刀であったことが、最近の研究でその銘文から明らかになってきたという。また、津田もこの本の中で若干の疑義を呈してはいるが、例の高句麗広開土王陵の碑文の解読は、1882(明治15)年に、当時の帝国参謀本部によって書かれ、その後1889年に学会発表されたものであるが、これは明治10年代に参謀本部によって内容を改竄され、捏造されたものであることが1972年になってやっと学会報告されている。最も、石母田正などの一部の学者は早くにこのことに関連した問題を取り上げていたようであるが。
2020年2月15日記
*津田左右吉の書かれた内容に一部あいまいさが残り、一般に誤解される恐れのある個所があったため、その部分に注釈を加えました。
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〔culture1052:220215〕
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