中国ウルトラ・ナショナリズムを批判する(六)
- 2022年 2月 16日
- 評論・紹介・意見
- 柏木 勉
「中華民族」は民衆とは無縁
前回は、中華民族」がたかだか「清末以降に創られたものにすぎないこと」を述べましたが、民衆レベルではどのようにうけとめられたのか?それが問題です。
「中華民族」はまさに「一体となった国民」としての意識として打ち出されたわけですが、しかし、それは一握りの支配層及びそれに抵抗する知識層が持つに至っただけで、広範な民衆にはほとんど無縁でした。民衆は依然として儒教の道徳・習俗のなかにあって、宗族や幇、行、会と呼ばれる血族集団、同郷同業団体、秘密結社等の内部で自らの生活の安定をはかり守ることに腐心していました。民衆にとっては財産や安全、経済活動を守ってくれるのはそれらの集団、団体だったからです。天下二分のもと、民衆は政府・官僚制から放置されていました。ですから彼らにとって宗族や同郷同業団体が服従すべき権力というべきものでした。
しかし、ここで問題だったのは、これらの血族集団、同郷同業団体等々は内部のメンバーに対しては相互互恵で支援し保護しますが、他の血族集団、同郷同業団体等に対してはきわめて排外的だったことです。相互に助け合うことはなく、バラバラの存在で、互いに裏切り、嘘をついても全く心の痛みを感じることはありませんでした。ですから排除的・敵対的であったわけです。幇は単純な内外二分ではなく、その外側には「情適」や「関係」といった、幇の外側の人間とは順に薄れていくやり取りがありました。しかし基本的には、幇の中では安全、けれど外では争いという全く異なった世界になっていたわけです。
「愚民」から国民意識は生まれず
また民衆の一般的意識と行動は、魯迅が「阿Q正伝」で描き出した唾棄すべき「愚民」というべきものでした。魯迅の見た「愚民」は現実を正視しようとせず、苦境にあっても他人だけでなく自らをも騙して、「奇妙な逃げ道」を作りだす「精神的腐敗」のうちにありました(ここではその文学的評価は別の問題です)。また魯迅は依然存続する伝統社会を次のように指弾しました。
「・・・・と いうのも古代から伝来し、今にいたるまで存続する多くの差別は、人々をそれぞれに分断し、ついに再びほかの人の苦しみを感ずることをできなくさせたからである。そして自分がそれぞれほかの人を奴隷として使い、ほかの人を食う希望をもっていることにより、自分にも奴隷として使われ食われる将来が同じようにあることを忘却する。そこで大小無数の人肉の饗宴は、文明が存在して以来現在にいたるまでならべられ、人々はこの会場で人を食い、 食われ、凶暴な者の愚昧な歓呼によって、弱者の悲惨な叫び声を覆い隠した。」(「灯下漫筆」(1925・4・29、『墳』))
階層化された差別と分断で、人々は互いの苦痛を理解できない。上層の者には「奴隷」として苦しめられるが、自分より下層の者は「奴隷」として苦しめる。人が互いに「食い合う」抑圧の階層化が次々と連なり、怯懦 、懶惰(らんだ)狡猾な奴隷根性が蔓延していました。
毛沢東は日本軍の侵略に「感謝」
このような状態では同胞意識としての国民意識は生まれようがありません。この結果、知識層、学生層には国民意識・ナショナリズムがうまれつつありましたが、民衆レベルでは清末はもちろん中華民国以降も国民意識は形成されないままに推移していったのです。
小生の見るところ、民衆の国民意識・ナショナリズム形成には、日本軍が中国大陸深くまで侵攻したことが最も「貢献」しました。日支事変が勃発して上海占領、さらに南京占領で南京虐殺、華中、華南にまで侵略して戦火がほぼ全土に拡大し、その過程での日本軍の残虐非道、そして戦闘の甚大な被害が一般大衆・民衆にまで、つまり基層社会にまで直接及んだためと考えています。日本軍は中国農村を破壊する「燼滅作戦」を展開しました。それまで農民は外国人に接したことなどありませんでした。農村にまで日本軍が侵入したことは、日本軍、外国への敵愾心・憎悪を生み、それが国民意識を生んでいったわけです。
後に毛沢東は、日本軍の侵略が中国国民に団結することを教えたと述べ、「日本軍がかつて中国の大半を占領したために、中国国民は学ぶことができた。もし侵略がなければわれわれはいまだへき地にあり、北京で京劇を見ることもなかっただろう。日本に感謝しなければいけない」と述べましたが、そのとおりです。
戦争が国民意識の培養・形成・確立の直接的契機となるのはほぼ世界共通です。日本の場合は日清戦争によって「日本国民」が確立しました。
アヘン戦争で「国家主権」と「領土」を侵害された?
次に「国家主権」と「領土」についてです。
習近平も胡錦涛も(それ以前の江沢民、鄧小平、毛沢東なども)「アヘン戦争から」「中国は・・・国家主権と領土完整は絶えず侵されて」という歴史観を繰り返し述べています。最近では、昨年(2021年)の3月、アラスカで開催された米中外交2プラス2の会談での応酬も記憶に鮮明です。
この会談で、共産党の外交分野トップの楊潔篪は、「西洋人から受けた我々の苦しみは少なかったとでも言うのか?我々は外国から包囲されたが、その期間は短かったと言うのか?何をされようと中国は立ち直ってきた」と米側の対応を非難しました。この発言をうけて、直後の「人民日報」の微博(weibo)には、2021年が中国共産党建党100周年にあたるので、「二つの辛丑年の対比」の見出しで1901年の北京議定書(辛丑条約)締結と米中アラスカ会談の写真が対比して掲載されました。辛丑(かのとうし)は干支の一つです。60年に一回巡ってきますから、2021年は1901年から2回目の辛丑年を迎えたことになります。
その意味するところは120年たって「今の中国は当時のような劣等劣弱の中国じゃないぞ、わかっているだろう!」ということですが、微博(weibo)の写真は、アヘン戦争から北京議定書、そしてその後の清朝が味わった屈辱を、そのまま現在の中国国民国家の屈辱として過去を想起させ、国家主権と領土が侵害され続けたと、対内的にまた対外的にも反米・反西欧、反日をあおっているわけです。
そして、その大前提としてあるのは、今の中国と当時の中国は同じ中国だという歴史観であり、認識です。つまり「中華民族五千年の歴史」という歴史観です。
清朝は「国家主権」や「領土」などを知らない
そこで、国家主権と領土に関して清朝末期からの推移をみていきます。
まず、近代の国民国家は「国家主権と国民と領土」の3点セットでなりたちますから、繰り返しになりますが、国民国家成立以前には「国家主権」も「領土」も存在しません。アヘン戦争時点の1840年ではまだ清朝が支配しています。国民国家ではありません。その後半世紀たってもまだ清朝の時代です。
その清朝の基礎が何だったかといえば、周知のごとく華夷思想・華夷秩序です。ですから清朝は「領土」や「国家主権」という概念を知りませんでしたし、理解することもありませんでした。国民国家が成立(後の中華民国建国。全く不十分なものでしたが)していない時点で、知りもしないし理解もしない「国家の主権」が侵されようがありません。
基本は華夷思想・華夷秩序
夷は手なづければ良い 「不平等条約」など知らない
アヘン戦争は、イギリスが清朝を武力で圧迫し、清朝が負けて半植民地化の大きな一歩となったというものです。しかし、それを許した大きな内在的要因が華夷思想・華夷秩序でした。単に武力で劣ったからというわけではありません。華夷秩序のもとで侵されたものは、皇帝の権威と天下の中心「華」から拡がっている版図です。それが夷(野蛮人)によって侵されたのです。
とはいっても、この時の清朝は確かにアヘン戦争に負けたのですが、その認識は「夷=野蛮」の海賊イギリス人が沿岸を荒らしまわったぐらいのものとして、重大な脅威としては感じていませんでした。加えて、儒教の理念からすれば、「武(武力)」は下劣で軽蔑すべきものであり、「文」が優位を占めていましたから、「武」の勝利はしょせん野蛮人(戎)のなすところでした。野蛮人には方便として寛大に譲歩してやり、手なづければ良いという姿勢でした。攘夷でなく撫夷(夷をなつかせる)です。
このため清朝はアヘン戦争後に結んだ南京条約において、イギリス人の犯罪はイギリス領事が担当するという領事裁判権(治外法権)を認めます。片務的最恵国待遇も許し、関税自主権も喪失しました。香港の割譲もこの時です。南京条約締結後には米国やフランスとも同様の条約をむすんでいます。
これらは後に「不平等条約」とみなされて、その撤廃が20世紀初期の中国ナショナリズムにとって悲願となっていきます。ですが当時の清朝は、これらの条約は王朝から恩恵を与えたものとみなし、「不平等条約」という認識はありませんでした。「国家」と「国家」の平等という観念自体が存在しなかったからです。
ですから、依然として清朝は華夷思想・華夷秩序の観念にしたがって対応したわけです。(この華夷秩序が国家主権をめぐって、例えば日本との外交でも大きな問題になっていきます。台湾出兵事件や琉球問題、更に、その後は朝鮮をめぐって引き起こされた日清戦争へとつながっていきました。近代国民国家の主権と華夷思想のギャップ、すれ違いが戦争の要因のひとつになっていったのです)。
また華夷思想に従っているかぎり、あくまで王朝の頂点にいる皇帝が天下の中心ですから、基本的には天下の中心からはるかに遠い海外=夷の実情、動向に対する関心は薄かったわけです。アヘン戦争の敗北後「海国図志」など海外の実情がくわしくまとめられ、西欧の長所につき受け入れるべきは受け入れよという声もあがりました。しかしそれは少数派にとどまり、王朝が継承してきた華夷秩序というぬきがたい基本スタンスは変わりませんでした。
(続く)
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