砕かれた石原慎太郎氏の野望 改憲・日本核武装は成らず
- 2022年 2月 19日
- 時代をみる
- 岩垂 弘憲法核石原慎太郎
作家で政治家だった石原慎太郎氏の死去から間もなく3週間を迎えるが、新聞、テレビ、週刊誌などのマスメディアでは、同氏を追悼する報道が続いている。その内容は、総じて同氏の生き方や業績を讃えるものが多いが、私はとてもそんな気持ちになれない。なぜなら、彼が熱烈な改憲論者、日本核武装論者だったからである。現段階でみる限り、同氏の野望は不発に終わった形だが、それをもたらしたのは、広範な国民による護憲運動であり、原水爆禁止運動だったと言ってよい。
石原氏は一橋大学在学中に小説『太陽の季節』を発表し、これが芥川賞を受賞、ベストセラーに。映画にもなった。1968年には参院選の全国区に自民党公認で立候補し、301万票という史上最高の得票数でトップ当選。35歳だった。その後、衆院に移り、環境庁長官、運輸相を歴任。1999年には東京都知事に当選、4期13年半にわたって都政を担った。4期目途中の2012年に都知事を辞職し、衆院選比例東京ブロックで当選して国政に復帰するも2014年の衆院選で落選し、政界を引退する。その後は執筆に専念した。
なんとも華麗な経歴である。しかも、作家・政治家としての活動は長きにわたった。それだけに、石原氏は抜群の知名度をもつ人物となり、その言動は日本社会に影響を及ぼした。同氏の死去に際し、新聞各紙もそのことを伝えている。例えば――
「新しい感覚、角度で、色々な面で積極的な発言をされ、我々も大いに指導、触発されてきた」(二階俊博・元自民党幹事長、読売新聞)
「世論を動かす発信力は抜群だった」(岡本智氏、朝日新聞)
「影響力が大きい人」(御厨貴・東京大名誉教授、朝日新聞)
「今や世界の一方の潮流となりつつある権威主義やポピュリズム(大衆迎合主義)の影を石原さんに見ることもできるだろう」(清水忠彦氏、毎日新聞)
発信力、影響力ばかりでなく、行動力も抜群だった石原氏が、最も力を入れて挑んだ課題は何だったのか。それは、改憲であった。そのことを指摘していたのは、全国紙では産経新聞と朝日新聞である。
2月2日付の産経新聞は石原氏の死去を一面トップで扱ったが、同じ一面に「自主憲法にこだわった政治家人生」という5段見出しの原稿を載せていた。筆者は内藤慎二氏で、その書き出しはこうだ。
「石原慎太郎氏の政治家人生は憲法を抜きにして語ることができない。『日本は国家として明確な意思表示をできない去勢された宦官(かんがん)のような国家に成り果てている』。平成7年、議員在職25年の永年表彰でこう嘆いて辞職しながら、東京都知事を経て、80歳で24年に国政に電撃復帰。その理由について周囲に『自主憲法制定を実現するためだ』と説明していた」
同日付の朝日新聞朝刊は、社会面に岡本智氏による石原氏の「評伝」を掲載していたが、その見出しは「改憲 こだわり続けた末」であった。
その書き出しは、こうだ。『いちから憲法をつくり作り直す』。石原慎太郎氏は常々そう公言していた。憲法改正に執着を続けた政治家人生の帰結は、何だったのだろう」
その後、こんな記述が続く。「なぜ、憲法にこだわったのか。10年ほど前に石原氏に聞いた際、返ってきたのが、交友があった三島由起夫、岡本太郎、江藤淳らの名前だった。個性派ぞろいの活気ある日本が、気づけば『自信を喪失した自立性なき世の中になってしまった』と語った。その象徴が『米国に押しつけられた』日本国憲法というのだ」
この評伝によれば、石原氏は「じっとしていれば平和が維持される幻想を日本人に強いる9条を考え直す」と言ったこともあったという。
こうした石原氏の執念にもかかわらず、国民世論は、同氏が望むような方向へはなびかなかった。それは、これまでの改憲をめぐる政治的な動きをたどれば明らかだ。
自民党は、1954年以来、日本国憲法の改定を党是としてきたが、改定の中身を具体的に提示したのは、2012年4月に発表した「日本国憲法改正草案」である。以来、自民党の改憲に向けての活動が本格化するが、同年暮れに第2次安倍晋三内閣が発足すると、その活動はさらに加速する。安倍首相は第9条改定を軸とする明文改憲を目指すが、それを直ちに実現させるのは無理とみると、集団的自衛権の行使に道を開く安保関連法案を2015年に国会で成立させる。いわば、実質的な第9条改定と言ってよかった。
それでも、安倍首相は明文改憲をあきらめず、2017年5月には「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と表明。その直後の2018年、自民党は「改憲4項目」を発表する、その狙いは、改憲に向けて世論を引きつけるためだったが、4項目とは「自衛隊の明記」「緊急事態条への対応」「参院合区の解消」「教育の充実」である。
憲法統一集会と安倍9条改憲NO統一署名
にもかかわらず、石原氏や安倍氏、それに自民党を先頭とする改憲派が2020年までに改憲を実現できなかった最大の要因は、改憲に反対する運動、すなわち護憲運動があったからだ、というのが私の見方だ。
まず、安倍内閣時代の2015年から毎年続いている、憲法記念日(5月3日)の「憲法集会」を挙げたい。それまでは、護憲を掲げる各団体が憲法記念日にバラバラに集会を開いてきたが、この年から旧総評系の団体、共産党系の団体、それに市民団体が統一して集会を開くようになった。「改憲を目指す自民党に対抗するためには、護憲派もまとまらなくては」というわけだ。
統一集会は回を重ねるごとに参加者が増えていった。第1回は横浜市で開いたが、参加者は3万人。翌2016年の第2回から会場は東京臨海広域防災公園に移ったが、この時の参加者は5万人。以下、第3回(2017年)5万3000人、第4回(2018年)6万人、第5回(2019年)6万5000人である(いずれも主催者発表)。
こうした大衆集会の盛り上がりが、「現行憲法を守ろう」という国民世論の形成に影響を与えたのは間違いない、と私は考える。
憲法に関する国民世論を考える上で、この時期に行われた署名運動も見逃せない。
その署名運動とは2017年8月から始まった「安倍9条改憲NO! 憲法を生かす全国統一署名」だ。署名を呼びかけたのは「9条改憲NO!全国市民アクション」で、これには旧総評系の団体、共産党系の団体、市民団体のほか、九条の会などが加わった。署名は2019年までに1000万筆近くになり、国会に提出された。
こうした護憲運動が功を奏したのだろう。2019年7月に行われた参院選では野党が伸び、自民、公明、日本維新を中心とする改憲勢力は、改憲発議に必要な3分の2の議席を獲得できなかった。護憲勢力の勝利であった。
8000万筆を超した反核署名
一方、石原氏の日本核武装論はいかなるものであったろうか。それは、AFPが2011年7月14日に発信した、当時都知事だった石原氏へのインタビュー記事に集約されているように思う。
同記事によると、石原氏は「日本は核兵器を持つべきだと思っています」「持ったって、絶対に使えない。しかし日本が核兵器開発のためにコンピュータを使ってシュミレーションするだけで、日本の存在感が変わってくると思います」と主張、その理由について「日本みたいな国が、世界でどこにありますか。北朝鮮、ロシア、中国とこんな間近に日本に敵意を持った国が3つも国境を接してある、こういう危険なシチュエーションにある国は世界中に日本しかないと思います」と語ったという。
日本で原水爆禁止運動が始まったのは、1954年。太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で日本のまぐろ漁船・第五福竜丸の船員と周辺の島々の住民が被災した事件がきっかけだった。東京都杉並区の主婦たちが始めた原水爆禁止署名はまたたく間に3200万筆に達した。
1982年には、第2回国連軍縮特別総会が開かれたが、日本では、81年から「国連に核兵器禁止と軍縮を要請する署名」運動が始まり、燎原の火のように全国に広がった署名は8000万筆を超す。署名が国民的規模に拡大したきっかけになったのは、井伏鱒二、井上靖、大江健三郎の各氏ら36人の文学者の連名による「核戦争の危機を訴える文学者の声明」だった。以後、法律家、宗教者、美術家、写真家、演劇人、音楽家らの反核声明が相次ぐ。
署名は、NGO(非政府組織)代表団によって国連に運ばれた。
日本で始まった原水禁運動は世界各地に波及、それは、ついに非同盟諸国、世界のNGOの尽力によって、核兵器禁止条約が国連総会で採択されるという形で結実する。2017年のことだ。同条約は2021年に発効。世界は核兵器廃絶へ向かいつつある。
核武装論者の石原慎太郎氏はこうした核兵器をめぐる世界的な流れをどう考えていたのだろうか。
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