わたしと戸籍 ― 「戸籍」私史(その2)
- 2022年 5月 2日
- 時代をみる
- 戸籍池田祥子
私の父母のこと
私が「戸籍謄本」というものを直に手にしたのは、大学受験の時である。なぜか?と問う意識もなく、提出書類に入っていたから、生まれて初めて市役所で手に入れた。
戸籍謄本を眺めて驚いたのは、私が満州の奉天生まれになっていたことだ。父母も含めて、私は、小倉駅から日豊線に乗って、少し大きな行橋の手前の苅田だか小波瀬という村の農家の二階で生まれた、と言い聞かされてきた。
「わたし、奉天で生まれたの?」と父母に聞いたのに、父母とも素気なかった。
「ああ、書類ではそうなってる」と母。「わしが池田家に養子に入る時に、そうなったんやろう・・・」と父。私の周りでは、「騎馬隊に入りたかったのう・・・」と話してくれた祖父以外は、「満州」に関係する人は誰も見当たらなかったのに。
何とも曖昧な話である。それっきり、私も考えなくなった。その後、何となく推察したのは、次のようなことだった。
朝鮮人であった父親が、小学校6年生の頃日本にやってきて、義務教育だけは終えて、後は働きながら夜間の職業学校に通いつつ、母の父親が課長をしていた行橋の役場にアルバイトとして働くことになった。そこには偶々、高等女学校を卒業したばかりの母が、「嫁入り」前の仕事として事務員をしていたということだ。
その頃のことは、ほとんど話さなかった父母ではあるが、母が、「お父ちゃん、チョウセンジンチョウセンジンって、馬鹿にされていたんよね~。わたしが一緒になるっちいうたら、じいちゃんからも勘当されたんよ」と。父21歳、母17歳の時のことである。その後、長女の私が生まれた、ということもあり、祖父が折れて、父を婿養子に迎えたのであろう。
それにしても、私の戸籍謄本には、父の「李祥雨」という名前はどこにも見当たらなかった。いきなり「池田祥文(よしふみ)」である。戦争中のことである。「戸籍も売り買いできるんばい」という声も聞いたことはあるが、何とも不思議な私の戸籍である。
好きな人の苗字が気になる?!
私も「人」の子、「社会」の子である。社会の風習や価値観は、知らない間に私の中にもしっかりと入り込んでいたのであろう。
中学生になった頃、男子も女子も、「好きな人」の話題がコソコソと、あるいは大っぴらにやりとりされ、中には「相合傘」の落書きも見られた。ただ、私は自分が「いいな」と思っている人の名前は、けっして口には出さなかった。そういうことは、心の中の秘め事(プライベートなこと)だと思っていたからだ。
しかし、一人で居る時、何となくボーとしている時など、好きな男の子のことを想いながら、ノートの端っこに、「有住祥子」「井川祥子」「松本祥子」・・・などと書いてみて、どれが「カッコイイ名前」かな~と眺めたりもした。
好きな人(男)ができる→「結婚」する→(女の方が)姓を変える
そういう社会的習慣に何の疑問も持たずに、心底馴染んでいたのである。
初めてのカルチャーショック!―友人の「結婚を祝う会」で
前回にも簡単に触れたことだが、私は漠然と劇研(演劇研究会)や児文研(児童文化研究会)に入りたいな・・・と思っていたが、大学入学とともに、いきなり最初に呼びかけられた「セツルメント」に入部してしまった。大学生が、ささやかであれ体得している知識や技術を「地域」の人々のために役立てよう!という趣旨のサークルである。その時は聞きなれない言葉だと思ったが、歴史を少し繙けば、それはイギリスに端を発する社会主義的な地域活動だとすぐに理解できた。医学部の学生たちは、地域の診療所で医者のアシスタントをしたり、法学部の学生は、地域の法律相談を引き受けたりしていた。私のような教育学部や文学部その他、人文系の学生たちは、「太陽のない町」(徳永直)で有名な氷川町や菊坂、みのり町に入り込んで、いわゆる「勉強会」(小さな学習塾のようなもの)を土曜日ごとに開いたりした。
そのセツルメントの一年先輩の男子と、いつしか仲良くなり、恋人同士になり、大学3年頃には、二人が出会うための喫茶店や、一日2、3回の食事をする場所探し、それらの手間や経費などが惜しくなって、彼の実家のすぐ近くに6畳ひと間の部屋を借りて、一緒に住むようになった。「結婚」ということも考えない訳ではなかったが、まだ学生の身分。勉強もサークルも自治会の運動も忙しかったし、その時は二人とも、できれば大学院にも進みたい・・・と漠然と考えていたため、やはり「結婚」は遠く漠然としたものだった。
そのような時に、彼の友人の「結婚を祝う会」に二人して参加した。大学の近くの喫茶店を借り切っての「祝う会」。双方の親たち・家族も大学の先生もいなくて、学生たちだけの「会」だった。
その会の終わり頃に、普通ならば「新郎新婦」と称される当のカップルの女性の方が立ち上がり、まるで自治会の演説のように話し始めたのである。
つまり、「結婚」に当たって、なぜ女性の方の姓を変えるのか!法律では、「どちらかの姓」と書かれているだけであるが、現実には、「婿養子」以外はほぼ女性の方が姓を変えている。それはおかしなことではないか!・・・私は自分の姓を変えたくない!と。
正直、「結婚」についてのこのような問題提起を聞いたのは初めてであった。迂闊といえば迂闊。嬉々として、男の姓に変えることを良しと考えていた私にとっては、初めての大きな衝撃であった。それから、少しずつ、「結婚とは何か?」を考え始め、本も漁って読み始めたのだった。
最初の妥協―大学院の奨学金のために
元々は中国の慣習だった「家」制度が朝鮮、日本にも移入され、「戸籍」「家族制度」として定着してきたことが分かって来た。明らかな「女性差別」ということも腑に落ちた。であれば、制度を変えるか、それがまだ間に合わなければ「事実婚」でも構わない・・・と、私は考え始めていたのである。
ところが、困ったことが起こった。私が大学院に受かったのだ。相棒の彼は、労働組合運動をやっていた先輩から乞われて、大学院は諦めてサッサと組合の専従者として働く場を決めてしまった。
大学院に進んだとしても、もちろん家庭教師のアルバイトはできるだろうが、やはりさほど稼げるわけではない。だとすると、支給される奨学金は是非とももらわなければならない・・・。
大急ぎで奨学金希望の書類を整えている時に、またまた困った事態が判明した。つまり、その時私は未だ「23歳未満」だったのだ。となると、私の親の経済状況を同時に提出しなければならない。形の上では、私は父の扶養家族なのだから・・・。
しかし、それは困るのだ。なぜなら、私は大学の時も、奨学金と家庭教師のアルバイトだけで、親からの援助はゼロだった。事実、その頃の父に、私の東京での大学費用を頼ることはもともと無理だったし・・・。とはいえ、1964年の春、日本の高度経済成長の流れのなかで、小さな不動産会社だった父の店が、団地建設なども影響した土地売買の急増などで、結構な「成金」になっていたのである。
日本の奨学金申請に関しては、親が「お金持ち」だと困るのだ。家庭が「貧困」かつ本人が「優秀」と認められなければ奨学金は下りてはこない。大学院レベルでは、親の経済状況はかなりのレベルまで許容されるのだろうが、私は、ともかくも実態通りに、親の元から出たかった。そのために、どうする?
そう、親元から独立するのは、「23歳未満」では「結婚」するしかない!
そして、大急ぎで婚姻届けを出すことになった。奨学金希望の書類提出に間に合わなければならなかったし、アレコレ考えている時間もなかった。
こうして、私は「伊藤祥子」になった。「池田も伊藤も〝イ”の字だし、どちらもよくある苗字だし・・・」と一人でうそぶいていたが、どこかでやはり「妥協したな~」という後ろめたさもない訳ではなかった。(続)
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